#11(西園寺帝国大学) アラサー女性の首筋からはお母さんの香りがする & オレが哲学者たちから学んだ生き方の数々

 

▼: アラサー女性の首筋からはお母さんの香りがする

 

突然ですが、

10代のうちに風俗に行った男は、

40代のモンスターおばさんが出てきてSEXするという

「日常ならあり得ない体験」

をするので、別格な男性として、最強の存在になります。

 

普通、ほとんどの男性は、SEXをする対象を選び、

選びあってマッチングした女とプライベートでヤっています。

 

しかし、

多感な時期に、

「お母さんの年齢と近い女性」

と、

しかも数万円を払って、

貴重な時間を差し出して、

エッチする。

 

気まずくて、断れない空気の中、エッチする。

 

帰り道に、絶望する。

泣きそうになる。

いや、・・・泣く。

 

 

お金を奪われ、

時間を奪われ、

全く好みでない老いたメスと交わる・・・・。

 

この、

_____

人生の絶望パッケージ
_____

を10代で味わった男は、

それを味わっていない男と比べて、

圧倒的な存在になります。

 

・・・・・そうです、私のことです。

 

私がはじめて風俗店に行ったのは10代の時ですからね。

 

 

こういう経験をすると、

いろんなことに気付きます。

おおむね、女性というのは、

10代の頃は、

気が狂いそうなほどいい匂いがして、

美人はなぜかマンコも太ももも良い味がして、

おっぱいはツンと上向きで、

とにかく、

「ああ!一生大事にする!君のためになら死んでもいいよ!」

という気持ちが細胞の奥底から花開き、

精子もよく飛びます。

 

 

ところが、

これが相手がアラサーの女性だと、

なんとなくおっぱいも少し下垂していて、

顔も水分とかハリとかが弱ってきていて、

相手が美人であったとしても、

「気が狂うほど」

ではなく、

精子の飛び方も微妙です。

 

 

・・・・・何より、

アラサー年代から、

首筋から若干、

“お母さんの香り”

に近いものが香ってくる。それに近付いているのです。

30代女性はほぼその匂いがします。

 

20代後半は、それに向かう微妙な年頃。

 

 

よく、27歳くらいの女性が、

・彼氏が結婚してくれない、煮え切らない

・彼氏に捨てられて、若い女に乗り換えられた

・出会いがない

とか言ってますが、

当たり前なのです。

27歳女性には、「男を狂わせるパワー」がないのです。

 

よって、このくらいの女性は、

経済力を身につけ、

家事・育児・フェラチオなどを積極的に行って

「私、便利マンコですが、1家に1台いかがですか?」

みたいな売り込み方をしないといけません。

 

もうこの歳になって、

“私が中心”

みたいな姫様思考と、感情ヒステリー、サゲマンはキツい。

 

イメージとしては、

就職する学生みたいな感じ、

男性側を企業と見立てる感じで

一生懸命、合わせて売り込んでいかないといけないです。

 

 

こういうことって、

昔だったら、

_______

女はクリスマスケーキ、

25歳過ぎたら価値なし、

早く結婚しろ
_______

と公に言われたでしょうが、

現代はこれをセクハラだとポリコレの対象にして、

発禁処分にしてしまっているので、

こういうことには賢い人だけ気づいて、

バカは取り残されるという時代になっています。

 

 

・・・・覚えておいてください、何事も、現代は、「自分で気づく時代」なのです。

 

 

 

▼:オレが哲学者たちから学んだ生き方の数々

 

学生時代、

人生に彷徨って、

哲学に傾倒してモラトリアムを謳歌する、

というのは文系大学生あるあるかもしれません。

 

「私が見ている空の青と、隣の人が見ている空の青は同じなのだろうか・・・?」

 

みたいなことを悩んで、

頭おかしくなりそうになったことがあります、

たぶん19歳くらいの時ですかね。

 

自分という存在すら疑い始める。

 

デカルトは、この手のテーマについて、

_____

I think therefore I am.

(我思う、故に我あり)
_____

と解決したらしいですが、

思い悩んでいる自分という存在があること、

それそのものが自分の存在であるということ。

 

存在といえば、

「存在と時間」

というタイトルの大著を出したハイデガーが有名ですが、

ハイデガーは、目の前にあるコップを飲み物のために使うか、花瓶として使うかは自分であり、

その意味で人間は外部にあるものと

「交渉している」

という考え方を取りました。

 

つまり、物理的なものとの関係に、意味をつけるのは私たちです。

こうした交渉の場所、価値の秩序が世界であると。

 

 

・・・・だからなんやねん!

という感じですよね。

 

哲学といえば、やっぱり

ニーチェ大先生が有名ですが、

ニーチェ大先生は、

「ニヒリズム」

と言って、いわゆる壮大な厨二病みたいな感じで

・神はいない

・この世界は虚無だ

みたいな、

全てに対する投げやりっぽい主張で有名なのですが、

ニーチェが「生涯童貞だった」という話を知ってから、

全くもって彼の思想が頭に入って来なくなりました。

 

ニーチェに共感して、

ニーチェの沼に入ってる男性は、

おそらくニーチェと同じく、モテてないはずです。

 

 

お笑いタレントの有吉弘行は、ニーチェに対して、

「なんか言ってることが『少年ジャンプ』っぽい」
「この人、一生童貞だったんですよね。やっぱ童貞の考え方ですよ」

 

と批判し、

 

「人生には進歩と退歩の2つしかない 現状維持とはつまり退歩している証なのだ」

というニーチェの言葉に対して、

 

「真逆です。現状維持は進歩です。退歩どころか進歩してます。確実に」
「芸人が飽きられないように、お笑い界でポジションを維持していくのがどれだけ難しいか」
「『レギュラー番組3本あるから、これ維持しとけば楽して喰えるな』って楽勝で構えていると、結局飽きられて、その3本ともなくなるっていう」
「その点、ダチョウ倶楽部は究極の現状維持トリオです」

 

と酷評。笑

 

ニーチェは、

「若い頃からモテてきた男の想像力は犬以下である」

と言っていますが、これに対しては、

「つまりコレ、逆に言うなら『草食系男子のオナニーはすごい!』ってことです。『草食系』なんてカッコよく言われてますけど、結局は女と縁がないモテない男ってことですから。そういう草食系男子のオナニーほど、実はすごい。肉食系みたいに直接行動に出ないぶん、内にこもって、とんでもない妄想に耽ってるっていう」

「さすが、童貞のニーチェはその辺よくわかってますね。リチンの男に対するやっかみの精神も感じられて、かなりの名言です。評価します」

 

ただ、ニーチェの考えは面白くて、社会で

「良いとされること」

は、それを良いとする人が決めたことで、

これに対しては当然反発があり、

ルサンチマンが立ち上がってくるわけですが、

往々にして正義概念には

“ルサンチマンが隠れている”

という鋭い指摘があります。

 

正しさを論じる奴は、コンプレックスに浸りまくっているというのは、割とある話です。

 

男の場合、いつの時代も、

・金

・女

が大事で、

それが満たされていないと拗らせるので、

この意味で女性の哲学者であるハンナ・アーレントの教えは、よかったです。

 

ナチスドイツ迫害の生き残りで

ユダヤ人である彼女ですが、

彼女は

「人間の条件」

として、

・労働

・仕事

・活動

の3つを挙げて、「労働」を、生きていくための糧を得るものとし、

これを「仕事」と明確に分けました。

ハンナアーレントの言う仕事とは、ライフワークのことです。

 

ライスワークとライフワークを分けろ、

みたいな、自己啓発界隈でよく言われる話の原点ですね。

 

活動については、

PTA活動とか、政治活動みたいな、

社会公共のコミュニティに関与するもののことです。

 

ハンナアーレントの教えは、

だいぶ気に入ったのを覚えています。

 

 

ソクラテス・プラトン・アリストテレスみたいな

紀元前の哲学者の場合は、

そもそも

「科学」

というものが確立されてなかった時代のものであり、

彼らは万学の祖とも言われていますが、

これ系にアクセスぐらいなら、後世で発展・分化していった諸科学にアクセスすればなんら問題ないわけです。

 

 

で、今の時代の人間が考えるような、

「経済と幸福」

みたいなテーマは、

近代哲学者の時代で、もう終わってますよね、正直。

ジョンスチュアートミルとか、

ジェレミー・ベンサムの時代に終わってんですよ。

要は、

「幸福とか、どうやって測るの?」

「人それぞれ良い基準が違うのに、道徳とか幸福とかどうすんの?」

みたいなのは、もう、あの辺で終わってるじゃないですか。

 

 

善悪の根拠については

スピノザが色々語ってましたが、

そもそも人間のいう善なんてのは、

そいつの「欲望」から出てくるものだと。

 

自己保存のために出てくるものだと。

 

キリスト教的な

「神が決めた善」

とは違うだろうと。

 

スピノザは、

その善を理性によって

方向性をコントロールすることで、

その精度が上がり、「徳」になると言いました。

 

 

ちなみに、

ホッブズ・リヴァイアサンの

「社会契約説」

は学校の教科書でも出てきたかもしれませんが、

神の崩壊の流れであり、

宗教的な教義が崩壊すると

善悪の秩序がよくわからなくなっていきます。

 

人間は神の被造物ではないと。

 

そうなるとホッブズは、「万人の万人に対する闘争」が最終的には行き着く自然状態だと喝破しました。

非常に鋭いですよね。

神を失った先の人間は、終わりなき相互闘争と相互不信へと向かうと。

 

実際、

欧米キリスト教社会での

「契約の概念」

が生まれてきたのは、

ルーツは神に対する誓いというか約束みたいなものですし、

近現代に至ってはその対象が

「お上としての国家」

に代わって、取り決めが守られない時に裁定される仕組みですからね。

 

実際、

ホッブズが考えた

「万人の万人に対する闘争」

を終わらせるためのアイデアも公共権力でした。

 

 

また、

神の支配みたいなのが崩壊して、

市民社会っぽい流れに向かう過程では、

・ロック

・ルソー

なんかも学校の教科書で出てきますが、

このロックは政治社会に関する業績だけでもなくて、

冒頭の

 

「私が見ている空の青と、隣の人が見ている空の青は同じなのだろうか・・・?」

 

みたいなものにも答えを出しています。

 

ロックは、

普遍客観的な世界があるという考えではなく、

人は各々の認識世界に生きている、という主張をしました。

 

早い話、客観なんてねーよ、ってことですね。

 

ロックは、

政治社会に対する貢献で

ホッブズと被るところもありますが、

ホッブズの方が人間の理性をベースにした考え方だったのに対して、

ロックは「神の存在」を前提にした考えでした。

世界は神の共有財産であり、

人は労働した時だけ、

労働に関する部分を自分のものとして

所有できる、とした考えもロックのもの。

 

ただ、その所有を守るためには、

・法律

・裁判官

・執行権力

という具体的な制度も必要だ、という話もしています。

 

 

ルソーとホッブズは、

ロックと違い、

神の存在は一旦棚上げしてますよと。

 

_______

神も幸福もよくわからない世界で、我々はどう生きるか。
_______

ルソーの場合は、

人間社会は放置しておくと

どこまでも不平等が拡大しますよ、

人間社会は対処しない限り、不平等が加速しますよ、という

「人間不平等起源論」

を出しました。

 

神もいねーし、

客観もわからねーし、

幸福もよくわかんねーし、

不平等は拡大するし・・・・。

 

こういう、現代人が今でも悩みそうなテーマってのは、

実は18〜19世紀ぐらいには色々やってたわけですね。

 

そして、20世紀が、戦争の世紀じゃないですか。

2度の世界大戦の世紀が待ってるわけですよ。

 

 

ルソーは、

ピストルで相手を脅し、

財布を出させた時、

それはお金を奪うことはできたかもしれないが、

正当性があるわけではない、ということを言って、

______

力は正当性の根拠ではない
______

とし、

正当性の根拠は、

社会契約にあるとしました。

つまり、社会の構成メンバー同士の所有権をお互いに害さない、

そしてお互いの生命・財産について強奪するような行為を相互に犯さない。

これらの取り決めですね。

 

18〜19世紀に、

国家社会の内側では

そういう思想と制度設計が出来ていくのに、

20世紀では世界的な

「力による現状変更」

を志して、

そしてみんな疲弊して、

「戦争の反省と、平和路線」

に走るのは面白いですよね。

 

 

戦後は、

______

戦時中は、食べられないことが、本当に辛かった
______

ということで、

食べられることのありがたみを知り、

そして経済社会が豊かになっていく中で

エコノミック・アニマル化したわけですよね。

 

ある意味、戦争は、

人間に

・死

・飢え

を突きつけて、

プリミティブな次元での

喜びとかありがたみを教えてくれるものです。

 

だって、第二次世界大戦の誘因になったヒトラーとかは、

「我が闘争」

とかで自分の思想とかをペラペラ語っていたわけでしょう。

その前段階として、

第一次世界大戦で

欧州戦勝国があまりにもドイツを踏みつけすぎたのもあるのですが。

 

 

キリスト教的世界観を失うと、

人々は、

「社会は何が正しいのか」

という客観性を失うわけですが、

その中で主観と客観問題が燃え上がり、

例えばカントなんかは

・感性

・悟性

・理性

を分けよ、という話をしたのですが、

フッサールの場合は、そもそも、

「●●がある」

というような前提を一旦停止せよ、と言いました。

 

例えば、

・愛

・平和

・平等

みたいな、

現代でもテーマになるようなことについては、

それの前提を一旦停止して、

「あるとしたら、どういう条件で成り立つか」

みたいなことの再考を求める発想法です。

 

 

世界はそもそも、客観的に存在していると考える必要はない。

だからと言って、存在していないと考える必要もない。

 

一旦、ストップをする。

 

 

そして、自分が

外部に対して何かを感じたり、認識している、

その条件について考えてみよう、というある種の態度変更ですね。

 

 

こうなってくると、

______

そもそも、

私たちの認識は、

言葉が作っているのでは?
______

という発想になってきますが、

それがシニフィアン・シニフィエで有名な

フェルディナン・ド・ソシュール。

 

記号・言葉としてのシニフィアンと、

それが意味する対象としてのシニフィエについて、

ソシュールは、

「客体としてのシニフィエが先行的に必ずしも存在するわけではない」

と考え、

むしろ記号・言葉先行の

ケースもあるとしました。

 

 

一方でヴィトゲンシュタインはこれに反発しています。

言語は世界と綺麗に対応するべきだと。

対応していると。

ただし、「他人の痛み」は自分の中にあるものではありません。

だからわかりません。

だから、大事なのは言語ゲーム内のプレイヤー間の作用。

 

アプリオリ(経験に先立って)にわかること、

には限界があるのではないか。

 

 

どこまでがプリインストールで、

どこからが個々のカスタマイズダウンロードなのか。

 

 

人や動物が、

どこまでアプリオリに

わかっているか、ということは

さまざまな実験が行われていますが、

人間でも動物でも、

「数の概念」

みたいなものはアプリオリにインストールされているみたいです。

 

 

あと、

「錯視現象」

とか、

「数学的に検証したら間違いがわかるが、人間が誤解すること」

の事例などもわかるように、

______

やっぱり、

そもそも人間の知覚に

限界あるんじゃないの?

______

というのは、事実ですし、

ここらが哲学の限界といったところでしょうか。

 

 

 

#0 (西園寺帝国大学 入学)  「ハローワールド」

 

 


===

西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。