世界を破壊するのは、
- 悪人か?
- 無能か?
このどっちか?みたいな議論が本当に好きで、無能が世界をダメにするみたいな話が本当に好き。めっちゃ人の良いヤブ医者と、めっちゃ人の悪い凄腕医師のどっちが良いか、みたいな話に似てるけど。
学生時代に無理矢理、勉強とかスポーツとかで、限界値を上げさせられるのは、いわば限界値に対するレイプと言えるんだけど、そのレイプに耐え抜いて残ったもの、いわば軍隊の特殊部隊みたいな選りすぐりエリート、警察のSPみたいな選りすぐりエリートこそが、何かを委ねるのに正しい選択。
要人の命は特殊部隊とSPに委ねろ。
橋の命運は選りすぐりに委ねろ。
本来、ほとんどの人には不適格なものが、無資格でやれてしまうものがたくさんこの世にはあって、結婚はおそらくその代表格。
子育てみたいに、ほとんど実行責任の塊みたいなものは、意思云々ではなくて、責任感とか、能力とか、そーゆーものについて、その人の骨髄にまで、染み渡ったものの基準や、レベルによると思う。根性とかもそうだけど。
だから、選りすぐりエリート集団の中で、たまに過労死とか出てきて騒がれるけれど、彼らがその体質をやめないのは、もともと、選りすぐりを選ぶメカニズムだから。
だから、高い世界に登って自分が壊れることは覚悟しないといけない。ワールドカップで骨折しても、それが不慮の事故ならサッカー文化を責められない。
表向きにどういうスタンスを表明してるかとか関係なくて、本質的にその人がどうなのかってのは、長期スパンで責任が重くなればなるほど、根っこに染み渡った水準による。
だからたとえばサラリーマンは、学歴を重要視されたりするわけ。コアファクターは忍耐と根性と規律と指揮命令系統に従うこと、社会常識を守ることだったりするからね。
実家暮らししない。
起業する。
一回死にそうになる。
死ぬほど勉強してみる。
部活でパワハラされる。
先輩にしごかれる。
嫌な経験を蓄積すればするほど、基準は高まっていく。
何がしたいかしたくないかも大事だけれど、自分の器が小さすぎたら何もできない。だから、無理やり器を広げる自己レイプ活動を行なっていく中で、いろんな耐性をつけていく。そして、そのチャレンジのなかで、『うわ、俺には本当にどうあがいてもこれは無理だ』という地雷源が、死にかける経験の中で見つかる。
そしたら、それをベースにした、やらないことリストややらないこと判断は、生涯の財産になる。
生きてると、望んでない方向に投げ込まれることがあるのだけれど、あるいは何かに取り組んでるときにギリギリに追い詰められることがあるんだけれど、そーゆーときに頼りになるのは、過去、自分が作ってきたガッツだったりする。
責任を果たせるのかどうか、みたいなのは、結構、そこによる。
楽なことばかりするなよとか、若いうちの苦労は買ってでもやれとか、そーゆーことなんだと思う。残念なことに、産みの苦しみってのは凄まじくハードなので、起業にせよ、出産にせよ、人生で3回やったら上出来だわ、ってのはあると思うんよね。
何かを産み出すというのは、死にかけるということです。
私は何度も死にかけてきました。アイデンティティとか、基本的価値観とか揺らぐ感覚?手いっぱいになる感覚?頼れない、投げられない感覚?退路を断たれる感覚?孤独な感覚?
人間は、歳老いて人生の終盤になると、俺はこの社会に何を残したのだろうか、ということを考える心境になると言います。
個人的な経験としては、空虚さや虚無感を避けるためには、死にかけておくこと。これに尽きる。
人生には勝負どきってものが何度かあって、場合によっては数年単位で拘束され、責任がつきまとう場合があります。
そのときに、勇気を持って力強く進めるのは、過去に死にかけた経験の蓄積だったりするんですねぇ。
たくましく生きよう。
力強く生きよう。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。