#3 どうしようもない人向けのゼロからの再興講座

結局、いろんなことに興味を示し、考え、あれこれ迷ったけれど、「普通の道」に戻っていくという人はめちゃくちゃ多いです。

逆に、最初から「普通の道」に突っ込んで行って、そこで「何か違う」と思い、離脱してくる人もたくさんいます。

 

先日、私も、年商1兆円弱の企業で約6〜7年勤め上げた知人から、脱サラの連絡を受けました。

理由は、「出世しても夢が無い」「上司の生活ぶり、稼ぎを見ていて絶望した」「毎日同じことを繰り返していて、成長もなく、変化もなく、時間を無駄にしている気がする」「周りの意識が低すぎてダメになりそう」「年をとった人を見るとゾッとして、今しかないと思った」「今抜けないと一生変わらない」「何のために生きているのかわからなくなった」というようなものでした。

 

・・・・・・・そんなん、入る前からわかるじゃねぇか。

 

私がいつも不思議だなー、って思うことがあって、若い世代の人たちって、年寄りが書いた本とか、年寄り向けの本とか、全く読まないんですよ。

私は結構読みます。昔から読みます。むしろ、おじさん・おじいちゃんの語る内容を積極的に摂取してきたと言っても良い。

 

そうすると、少なからず、未来が見えるでしょ。

あー、おじいさんになったら、おじいちゃんになったら、こんなことで悩むのか、と。

 

結婚とか就活に関して、キラキラした何かを描き出している本を貪り読む、世の馬鹿な若者たちに、おっさん・おばさんが書いた本を読んでみろ、と言いたい。

誰もキラキラが継続されると言ってない。

就活、結婚の末路はこれか、と早いうちからわかることが重要です。

 

しかし、生きがいやライフワーク、仕事やお金に関してだけは、うまく行けば、 生涯、キラキラが持続するものだということがわかるはず。

好きなことや、面白いこと、やりがいがあること、チャレンジングなことをやっていると、人生はずっと輝く。

結局、夫婦円満とか家庭円満みたいなのも、各々が何か、キラキラできるものを持って、それをうまく行かせている場合のみ、です。

 

就職の時期に、先送りした問題や馬鹿にしていたことが、定年退職間際になってリターンしてくる・リバイバルしてくる人って結構多いです。

 

人間の頭には、選択肢がある。

いわゆる、一般解とされた無難な道。

あるいは、そうじゃない道。

 

一般解とされた無難な道について、よく知らず、テキトーな希望を持って突っ込む人は多い。逆に、そこに突っ込んだことなく、テキトーに批判している人も多い。一通り、雇われて奴隷になることを経験し、先人たちの声を聞きつつ、「あぁ、将来はこんな感じになるだろうなぁ・・・」という、「上限〜下限」がわかる未来予想図が鮮明に見えて、人ははじめて、このままじゃいかん、とか思うんだと思います。

 

「もしかしたら俺の人生、このままなんじゃ・・・・・」と思った人。

高い確率でそのままか、あるいは見通したもの以下になるでしょう。

 

俺の人生このままなんじゃね・・・・・・と思う人は、先行きが見えないことに賭けた経験が無い、自分の想定を上回るサプライズを起こしたことがない、望んだ高い位置の目標に現実を近づけた経験が無い。そして、そこから、自然と危機を察知しているわけです。

俺、やばくね、って。

はい、やばいです。その通り。

 

文豪ゲーテは、「若いうちは、誰もが自分を中心に世界が回っているものだと思い込みがちである」的なことを言っていました。私はそれに、「自意識過剰と、過剰な自分大好き・自分大切も若い人にありがち」というのを付け加えたいと思います。

あまりにも自分大好きで、自分大切が行き過ぎているから、何かに際していつも、リスクを恐れる。自分が何かを失うのでは無いか、と考えてしまう。

 

でも、考えてみてください。

最初から大したことないじゃ無いですか。

もはや、終わってるじゃ無いですか。

 

世の中で人気があるビジネスというのは、終わってる人間に「あなた終わってないよ」という気休めを提供するものです。だから、世の中の人は死ぬほど働いて、必死に家を買い、服を買い、ブランド物を買い、カフェに行き・・・ということを繰り返す。

でも、どこか、心が満たされない。

ずっと空虚。

 

理由は単純。終わっている自分を直視してテコ入れしないからです。

本当に人生をエンターテインしたいなら、自分の現実をまず直視してから、テコ入れする必要があります。

 

自分のことを大切に思うあまり、「不幸な結婚したく無い(ハズレを引きたく無い)」「不幸な就職したく無い(ハズレ企業に入りたく無い)」と一生懸命になる。必死になって掘り出し物を探る。だから疲れるんです。しかし、こういう人は、自分自身がハズレであることに全く気付いていません。

不幸、疲れる・・・・の源泉は、自分がハズレであること。

ハズレな人間は、「当たりな人間」がどういう生活を送っているかわからない。他人のセックスは(覗く機会が無いので)わからない、と良く言いますが、人生全般に言えることですね、それは。当たりな人間はいつもハッピーそう。なぜかというと、なんで幸せそうなのかというと、「そういう必死さとは無縁」だからです。本人が当たりだから、選べるものも当たりがたくさんある。

 

考えてみてください。

そもそも、自分自身に高い価値・魅力があったら、そんなに深刻に悩むんですかね。いろんなこと全般について。悩まないでしょ。

 

なぜ、人はそんなに自己否定を嫌うのか。

親から愛情をたっぷり受けなかったことが問題じゃないでしょうか。まだ、子供のステージを脱しきれていないことが原因ではないでしょうか。温かい親族の中で、すくすくと育てなかったからではないでしょうか。

子供のうちに、散々、「自分」というものを近い人たち、身内に「君はOKだよ」と承認してもらえていたら、そのうち、それが飽きてきます。そこから飛び出したくなる。恋をしたい。友達を作りたい。みんなに認めてもらいたい。そういう感じになってくる。自然と、親元を出たくなる。

言わずもがな、世間は身内よりも厳しい。でも、だからこそ、喜びはひとしお。いい歳になって、母親から慰めの言葉をもらって感動する人っているんですか。あ、いますよね、そういう人。私は「全くありません」。親に励まされても、褒められても、優しくされても、1ミリも心が動かない。

普通だったら、赤の他人である女の子に、好意を寄せられたり、褒められたり、励まされたり、優しくされて感動するようになっていくでしょう。全く知らない赤の他人と、うまく連携プレーができたりするときに、喜びが芽生えてくるでしょう。それが大人ではないでしょうか。

 

「自分」「自己」というのは、往々にして、その構成要素のほとんどが親、親族、学校の先生、友達などの近い人間ばかりです。その環境にべったりだから、それにフィットした自分ができているし、そこにフィットした自分でい続けることで周りとうまく協調でき、自分の存在に対する承認が得られ、安心感を覚える。

だから、そこから動けない。

だから、「自分」をよその他人に攻撃されたり、否定されると嫌になる。

私は、10代の早い頃から家に帰らず年上の彼女と良く一緒にいたり、働いていたり、目標を持ってからは友達付き合いを整理したり・・・・というのをやってきたので、なんていうか、近い人間にべっとりしないマインドセットが普通になっています。

 

そもそも、人は、自我が芽生えていくと、親に隠れてコッソリ、恋人と電話したりするもの。

親には見せない顔を、友人や恋人の前で見せるもの。

親と離れる、古くからの友達と離れる・・・・ということをやっていく中で、本当の自分の自我が芽生える。

 

こんなことはやってはいけない!!と思ったとき、そのやってはいけないという思いはどこからくるのかというのをよくよく掘っていくと、父親とか母親の意見だったりするのが人間の不思議なところです。

将来、親からたっぷり財産を相続できて、それで遊んで暮らせていけそうな人や、親の仕事の基盤を引き継ぐ予定の人なら、親とべったりしてても良いでしょう。しかし、大方の人はそうじゃないでしょ。

 

私は、ニーチェの「神は死んだ」というセリフが大好きです。

神に対する盲目的な信仰を捨てることから、現実を視ることが始まるってやつですね。

 

私は、これを自分流に解釈して、「親は死んだ、古くからの友は死んだ」と思っています。実際、交流頻度や濃度も、どんどん薄くなっています。そもそも物理的に離れまくっているし、私があちこち転住するので。

私の身内や友達なんて、私が今何県に住んでいるかすら、わからないですよ。生きているか死んでいるかすら知らないと思います。

「えー、今、京都にいるの?東京って言ってなかったけ?前?」みたいな感じですからね。

 

心の奥底で、親や友達、恋人が助けてくれるはず・・・とか思っている人は変われないでしょうね。

 

自助独立。

己の人生は己で救うほか無い。自分の人生は自分で作るしか無い。

そう悟った人間は、あえて、ジャングルに向かって一人、旅立っていくものなのです。不意にぶっこまれた厳しい環境の中で、自立し始めるものなのです。

 

ポケモンのサトシも、「千と千尋の神隠し」の千尋もそうでした。

 

千と千尋の神隠し、いい作品ですよね。

宮崎駿監督は、あの映画の中で、「生きる力」を伝えたかったと言われています。

 

よかったら、もう一度見直してみてはどうでしょう。

映画の冒頭、千尋は、両親の車の後ろに乗っけられて、ふてくされた顔をしています。だらけた顔。いかにもニート予備軍みたいな顔。

両親は、子供のことを考えているようで考えていないような、自分たち本位の感じがうまく描かれています。両親が勝手に二人で盛り上がって、子供をそこに連れまわす感じ。子供は飼い犬みたいな。車はアウディ。そこそこ豊かな中流家庭、そしてそこで甘やかされている典型的現代っ子をうまく描いていますね。

 

千尋は、一人で向こう側に行き、バシバシとシゴかれます。

しかし、そこで出会い、困難、チャレンジ、達成がある。

帰ってくるときには、シャキッとした顔になっている。

 

生かされていた顔が、生きている顔になっている。

イキイキしている。

人間は、あの状態になってはじめて、本当の自立とか幸せを感じられるのだと思います。何より、人間は思った以上に強いんだぞ、と。

 

私は、現代日本における最大の癌として、長生きと、それに伴う「親がなかなか死なないこと」が挙げられると思います。

親は早く死んだ方が良いのです。

スティーブ・ジョブズは、死は最大の発明だと言いました。

 

余談ですが、

私は、小学生の時、学校でこんなことがあったのを覚えています。

「敬老の日なので、おじいちゃんおばあちゃんに絵を描いてあげましょう、好きなメッセージを入れてください。みんな、おじいちゃんおばあちゃんに長生きしてもらいたいよね!」って学校の先生が言ったのです。

みんな、テンプレのように、「はーい」と答え、おじいちゃんおばあちゃんの似顔絵の隣に、「長生きしてね」、と書いていました。

 

私は書かなかった。

直感的に、おじいちゃん・おばあちゃんに「長生きしてね」と言うのはおかしいと思ったのです。

何か違うと思った。

 

ちなみに、私は一生の間で、祖父・祖母に長生きしてね、と言ったことは一度もありません。

 

私は、

「おばあちゃん、好きだよ、いつもありがとう」

と書いたのを覚えています。

 

その祖母は、私がハタチぐらいの時に死にました。

私以外の孫から、たくさんのプレゼントをもらっていた祖母ですが、なぜか、私からもらったものだけを、病床でも握りしめて亡くなったそうです。

何で、でしょうね。

おそらく、孫たちがどっかのショッピングモールで、商業的なイベントとしてマーケティングされた「敬老の日キャンペーン」で売られていたものを買ってきて、そこに企業が考え印字した「長生きしてね!」というプリントシールのついた贈り物を散々贈られていたからでしょうか。

 

生前、おばあちゃんは、ひ孫を見て、

「子供の笑顔は、本当に笑っているって感じがして、癒されるねぇ」

って言っていました。

 

私は、その一言がやけに、頭に残っています。

 

そう。年寄りはボケてますが、伊達に長く生きていないのです。

私は小さいころ、親族で集まってご飯を食べている時、おばあちゃんに対して、私一人だけ、こんなことを言ったそうです。

 

「おばあちゃん、食べ方が汚い」

ちなみに、それは加齢と病気のせいです。

 

場が凍りつき、あとで、母親に叱られましたが、その時、祖母は「ごめんねぇ」と言いながら、ニコニコしていたのを覚えています。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。