#2 俺の死生観 人間は結局、最後は一人なのか?

看護とか介護の現場で、命の灯火が消えかかっている人を散々見ている人と話をする。すると、生きるとか死ぬことについて考えさせられる。

例えば、余命宣告された患者と、その家族。あるいは、自分一人では生命を維持できず、ただただ生かされている人の心境。死にたいと思うが死ねない人たちのリアル。

 

チームとは何か?チームプレーとは何か?

チームとは何か。チームプレーとは何か。人が人と手を組むというのはどういうことか。

協調性がどうとかそういう話ではない。

それは、同じ夢を見るということに他ならない。

サッカーで例えるとわかりやすいかもしれない。各々が自分のチームでプレーする。その際、各々のサッカー選手たちにはキャリアがある。それぞれのキャリアがある。だけれど、チームのために戦わねばならない。もしかしたら怪我するかもしれないリスクがあるけれど、チームのために頑張らねばならない。

代表選手は、それぞれが別のチームでプレイしていながら、特定のタイミングで招集をかけられ、集まる。その時には、チームとして同じ夢を見る。協働する。

繰り返すが、協調性なんかじゃない。

 

結婚も会社も、全部チームプレイ

結婚も会社も、全部チームプレイ。

夫婦のかすがいは「子」になっていて、会社員のかすがいは「無リスク」「互助会的職場」「生活」的なもの。

勘違いしていけないのは、決して自分という人間を全て包み込んでくれるような場所が見つかったなどと思わないことだ。そんなことを思って結婚でもしてみたら、きっと、別れる時にダメージを受けるだろう。あるいは些細な場面で怒るだろう。落胆するだろう。死別した後が大変だろう。人はおそらく、そういう精神的極楽浄土というか、天国を求めているのだろうけれど、そんなものは無いと私は思う。

多分、ここに対する謎の希望?期待?が、逆にコミュニケーションを狂わせる。

私なんか、そこに関する完璧な諦観を持っていて、しかもひねくれてもいないから、侘しいBARでグラスを傾ける事もないし、スナックでママに泣きつく事もないし、酒に溺れる事も、友達にすがる事もない。加藤ミリヤの曲に酔った恋愛病の人のようにもならないし、インターネットで「女なんて!!」みたいな書き込みもしない。完全に景色と戯れている。人間社会とは無縁の世界を見て、純粋に、「おー」とか思っている。やばい。

自分という人間を、ありのままで、人間として包容してくれる世界について、希望も期待も持っていなければ、最初のうちは凄まじい恐怖と孤独感が押し寄せるけれど、いつか悟りの境地に達する。

 

まぁ、普通に、実家帰って「ママー」とかすがりつけばそういう感触にありつけるのかもしれないけれど、どこか気持ち悪い。っていうか普通に気持ち悪い。

「甘えたーい」っている子が多い中、たまに母性発揮して「甘えて欲しい」とか「辛い事も受け止めてあげたいの」的なことを言うキャッチャータイプの女性と出会っても、「うーん、今更どうしよう、甘え方とか忘れちゃった」としか思わない。

散々嫌なことや孤独な世界を体験して、今更、「心が病んでて、誰か、うううう」みたいなことになることは無いというか。まぁ、ある事もあるけれど、少なくとも、それを女性に向けるとしてもセックスでごまかそうとしてるだけ。

心の部分は、普通に夜景を見に行く。一人で考える。一人で音楽でも聴いて「えんえん」泣く。

 

ただし、それらを捨てられないタイプもいる。そういう人と結婚している人はどうやって上手いことやっているかというと、例えば嫁の側が「そう信じて」いて、夫の側がそう「信じさせていて」、そしてそのまま死別の時まで、そしてその後までそれが続いている。それは多分、リーダーたる旦那の努力の賜物だと思う。

だけれど、当のリーダーは孤独なのだ。内閣総理大臣も、大統領も、社長も、トップに立てる器というのは、「精神的極楽浄土は無い」と悟っている。これがトップ・リーダーの悲しい宿命である。フォロワーは心の拠り所がある。トップ・リーダーは寄られる側であって、自分の心の拠り所は存在しない。

人間は、くっつく時はくっつくし、離れる時は離れる。

夫婦に子供がいる、子はかすがいと言われるのは、同じ夢がいるからだ。でないと、結び付けられない。お互いがお互いにベクトルを向けているパターンは怪しい。危ない。

 

同床異夢

10代の頃、結婚に憧れていた(?)、自分も当たり前のようにするものだと思っていた。それが、20代になって一気に消沈した。理由は、結婚の正体というか定義が変わったからだった。若い頃は、ベクトルがお互いに向き合うものだったと思ったけれど、10代後半からハタチになるにかけてあることに気付いた。ベクトルを同じ方向に向けなければならない。

つまり、同じ夢を見る必要がある。

。。。とはいえ、人は同じ床にいても違う夢を見るんだ。

これは人間関係の真理だと思う。そして、いつの時代も人間関係で苦しむ人が絶えないのは、自分ベースで、「自分の寂しさ」なるものを埋められる、そこを埋めてくれる何かが外からやってくれると勘違いしているからだ。そんなものはない。人が結びつくためには共通目的とか同じ夢を見るほかない。ありのままの自分の心の渇きみたいなものを満たしてくれる何かと出会えることはまず無い。

会社が給料くれるのも、女の子がセックスしてくれるのも、お客さんがお金をくれるのも、自分(コチラ)のためじゃ無い。断言できる。

 

人生を変えたい、人生を旅したい、刺激的な生活を送りたい、変化に富んでいたい、成長し強くありたい、ロマンスに満ちていたい、感動的な人生を送りたい

人生を変えたい。

人生を旅したい。

刺激的な生活を送りたい。

変化に富んでいたい。

成長したい。

ロマンスに満ちていたい。

感動的な人生を送りたい。

充実したい。

達成感や充実感が欲しい。

生きている実感が欲しい。

退屈と同じことの繰り返しとは無縁でいたい。

熱狂と興奮が欲しい。

強くありたい。

こういう夢を共有できる、ってのはなかなか難しい。会社員生活でできるか?既婚でできるか?非常に難しい。どこか、刹那的で、旅情的で、快楽的で、デンジャラスな香りがする。

人は、2人以上集まったり、組織にエントリーすれば我慢や忍耐がいると言われるけれど、それは本質では無いと思う。本質は、同じ夢を見れるか?だと思う。

私はいろんなところに頭を突っ込みながら、

研究した成果をどこかに出したい、共有したい

みたいなところは確かにあるし、テロリストの資質があるのか、リーダーの資質があるのか、革命家の資質があるのかわからないけれど、割と高い視点から、社会問題などについて文句アリアリな気質があるので、一石投じて波紋を起こしてやりたいという気持ちはある。

ボケーーーーッと寝ぼけてしまった世界に、石をポーンと。

 

結局、人間は最後、一人か?否か?

結局、人間は最後、一人なのか?否か?

老後はどうなる?

結婚しても彼女がいても一人なのか・・・・?

 

これらの問いに対して、その背景にあるものが「自己保身」なら、答えは「YES」だ。人間は、生まれた瞬間から死ぬまで、別に誰にも「自分の利益」という点で共感されてないし、その意味での目的共有もなされていない。

結婚してようが、彼女がいようが、「本当の意味」で、自分の体や健康の心配がされているわけでも無いし、自分という人間が大切にされているわけでは無い。

この現実は、歳を重ねるにつれ、人生経験を積むにつれ、トラブルに出くわすにつれて浮き彫りになっていく事実だと思う。

 

病気になって、一人を痛感し寂しくなったとか、彼氏・彼女がいないとか、会社辞めたらつまんなくなったとか、そういうのを聞くたびに、「えええ、今更ぁ??」と思ってしまう。あと、中高年になってひとりになり、悲しいとか。

多分、小中高とそれなりのコースを歩み、友に恋に勉強に、なんやかんやして、そのまま社会に出て良いコースに乗り、結婚し、・・・・みたいなことをやっていると、しばらくの間は勘違いが続くのだろうな。

人間は(自己利益の意味で)ひとりでは無い、と。

いやいや、自己利益の意味ではひとりです、生まれた瞬間から死ぬまで。

純然たる自己利益は捨てる必要は無いけれど自分で満たす必要があるし、また、基本的には誰かと同じ夢を見ることで誰かと繋がれるし、報酬(セックス、金)とかはもう、完全に同じ夢を見ることで生まれる産物。

みんな、逆をやるんだよね。

自分一人で処理すべきことを誰かに求めて、誰かと共有すべきものを自分自分してさーーーー。

 

つまり、結局のところは、「同じ夢」を見れるか?夫婦に大切なのは「思いやり」なんかじゃ無い。

いろんな人に、

「夫婦が長持ちする秘訣はなんだと思う?」

って聞いてくるのだけれど、多くの女性から、「思いやり」「優しさ」「包容力」「理解力」「パパみたいな人・・・・」みたいな答えが返ってくる。その度に、「こいつらは馬鹿だ」と思ってきた。

往往にして、彼女たちの言う優しさ、包容力、理解力などは自己都合的なものにすり替えられる。

お互いに矢印を向けあって、優しさを持ち寄ったり、牽制しあったり、近づいたり離れたりしてどうする?どうなる?

結局、矢印を自分に向けている時点で、自己中心的な概念が抜けない。

 

病床で一人。孤独。これは悲しいことか?俺はそうは思わない。

パートナーに先立たれて。

死ぬときは最後一人。これは悲しいことか?

俺はそうは思わない。みんな、こういうことを指して「孤独」だの「孤独じゃ無い」だの言っているのなら、実に浅はかだと思う。それから、「老後一人じゃ寂しいから」とか言って結婚する輩。お前らは猫でも飼っとけ。

最後、病床で一人であったとしても。

もし、同じ夢を見れて、それでやってきたのであれば、孤独に感じないのでは無いか?

例えばその夢というのが、子の成長とかだったなら。子が立派に大きくなって、世の中に出て行ったのであれば、それは共有した夢が叶ったことになる。そこにエネルギーを投じて、あれこれやって、それで良かったと思えるだろう。だけれど、ここでもし、ベクトルが自分に向いているのならば、「寂しい」と思うのだろう。

 

ワールドカップでベンチで、喜べるか?

サッカー選手なら、ワールドカップに召集されたからには、試合に出たいと思う。もし、自分が召集され、ゲームには出られないけれど、チームは快挙を成し遂げた。そういう場合、素直に喜べるか?

複雑な心境だと思う。

でも、それでも、同じ夢を見た仲間たちと一緒に、同じ夢に向かって頑張り、仲間が躍動している姿を見て、素直に嬉しいと思える。それこそが本当のチームプレイだと思うし、そこに協調性とか、つまらない概念はいらないと思う。同じ夢を見れたかどうかだと思う。

 

俺の統計じゃ、離婚するカップルはベクトルがお互いに向き合ってるぜ

俺の統計じゃ、離婚するカップルはベクトルが互いに向き合ってるぜ。相手を満たして、はい、自分も満たして、みたいな感じ?自分だけ尽くしてると、そのうち割りが合わないとか思い出す感じ?

そりゃ、そうだわ。

同じ未来、同じベクトルでの夢、共有目的があるかどうかだね。

 

人間は、夢で死ねる。そして俺はもう、死ねる。

10代の時、尾崎豊の曲を聴いて、「感動」「共感」と思っていた。どんだけ病んでたんだ。どんだけ息苦しいと思っていたんだ。

この話を大人になって他人にしたら、「そんな人、本当にいるんだ・・・・」と驚かれた。なんか、ああいう世界観に酔う人って、メディアの中だけにいる人だと思っていたらしい。現実世界で、それほど病んでる人とか息苦しい人ってそんないないだろ、って思ってたらしい。

それぐらい、いろいろ考えていた自分が、大人になって相当ハッピー。

それは、夢を見れたから。夢を見させてもらった。文字通り、夢中になれた。夢を見れること、がむしゃらになれることがこれほどありがたいことなんて。何かに熱狂的に、熱心になれること。狂信的になれること。それが、ここまで人生を飛躍させるなんて。

 

夢のために、生死を彷徨う。これこそ、人生冥利に尽きる。

ほんと、それ。

ぐわーって、たまに泣きたくなる。

ふと、思うんだよね。自分が過去に見た夢、その夢を追いかけた努力、その先に見えた景色。自分が何かをひたすらに追って、頑張ったことが、自分を遠いところに連れて行ったことに気づくんだよ。

うわ、気がつけば遠いところに来てる!!って。

さっき、動画観てて思ったよ。俺っていつから英語理解できるようになったんだって。びっくりするよね。こうやって神の講義に触れて、好奇心でボッキできるんだ。高校生の時、英語なんて自分には無縁だと思っていたのに。

本当に、遠いところまで来すぎた、俺は。

 

人生の旅路。

面白い。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。