経営の神様と言われた和歌山県出身の松下幸之助が立ち上げたパナソニック。
日本を率いる大企業として、そして関西屈指の名門として昭和の日本の代表格でした。
このパナソニックがやばい。
そこで、新卒でパナに入ったものの、その後に外資系企業を転々とし、パナソニックに返り咲いて改革を進め、注目を集めるのがプロ経営者樋口泰行氏です。
パナソニックは、日本の企業の中で雇用している従業員数の多さでベスト5に入る大企業です。ですから樋口さんが日本社会に与える影響は大きい。
私は、彼の著書を愛読書として前々から読んでいます。
大阪発想をやめなければならない
と本社を東京に移転したり、社内コミュニケーションの方法を開拓するなどして注目を集める樋口氏。
パナソニックへの就職・転職を考える人、株を買おうか迷っている人、時事ニュース・経済ニュースに興味がある人、キャリアアップや起業について考えている人、必見です。
樋口泰行のここがすごい!学歴・職歴がやばい!
1957年兵庫県生まれの樋口泰行さんですが、学歴・職歴がハンパないです。
まず、学歴は大阪大学工学卒。理系ですね。
80年にパナソニック入社。
91年アメリカハーバード大学のMBA修了。
92年ボストンコンサルティンググループ入社。
94年アップル入社。
97年コンパック入社、02年にHPとの合併に伴い日本HPの執行役員、03年に同社社長。
05年にダイエー社長。
07年にマイクロソフト入社、08年にマイクロソフト日本法人社長。
そして2017年にパナソニック復帰。
凄まじい経歴でしょう。
特に45歳で6000人規模の組織の社長になっている点が素晴らしい点です。
高偏差値大学を出て、しかも理系で、JTC新卒入社で、ハーバードMBAも持っていて、外コン経由で、アップル、ダイエー、マイクロソフト・・・・
と経験値がやばいのです。メーカーもリテイラーも、JTC(日系)も外資も知っていて、国内外に認められる高学歴。
なぜ阪大工学部だったか
樋口さんは、大阪の大学に進学し、大阪の企業に一生勤めようと思っていたそうです。何か大きな夢や目標があったわけでもなく、手が伸ばせば届きそうな選択肢から自分に合ったものを選んできただけに過ぎないのだそうです。
阪大の工学部に進んだのも、数学が得意で、親が理系だったから。
大学に入ってもほとんど授業に出席せず、アルバイトに明け暮れていた。
実家はそれほど裕福ではなかった模様。
弁当配達員、建築現場の作業員、テレビ局のアルバイトスタッフ、旅行会社のツアー企画を手掛けたこともあるそうです。
松下電器産業(現在のパナ)に入社できたのは教授の推薦があったから。
教授の推薦で就職が決まり、教授が就職枠を持っていた時代。
別に積極的に選んだ会社ではなかったが、名実ともに世界を代表する総合家電メーカーであり、大阪では抜群のブランド力を持っていて、理系の就職人気ランキングで上位、さらに松下幸之助という存在もあって、憧れはあった。
就職にあたり、両親や知人からも拍手を贈られた就職先だったそうです。
現在の年収は1億5700万円
樋口泰行氏の現在の年収は1億5700万円で、役員報酬が高い上場企業役員ランキングのTOP406位に位置しています。
思ったほど高くない印象です。
外資と日系がわかる強み
樋口さんは、自著の中でこのように語っています。
外資系企業の日本法人では全く異なる2つの側面・能力がリーダーに求められる。まず日本のお客様にものを売るにはものすごく日本的な営業力、つまり人間同士としての親密さや信頼を調整した上でのウェットの関係、そこに至るまでの情熱に基づく営業力を求められる一方で、本社とのやりとりや連携はきっちりとやっていかなければならず、そこは非常にアメリカナイズされたロジカルでネゴシエイトな世界だ。しかもアメリカ企業にしてもヨーロッパ企業にしても非常にタフな経営者が多いので日本法人のトップや経営リーダーもタフなやりとりができなくてはならない。外資系といえども日本法人は日本文化のウェットな部分を抱え込んでおり、現場の気持ちを忖度しながら変革しないとうまくいかない。破壊と創造で大胆に改革しても日本ではその後を丁寧に汲み上げて行かないと実を結ばない。それでいてウェットなところばかりに振り回されていてはシャープな実行力 は出てこない。そもそも外資系に限らず従業員は戦略的な思考を鍛えられてもいない。
この日本人に受け入れられるキャラクターや営業力と真逆のアメリカ人に受け入れられるキャラクターやアグレッシブさを両方持ち合わせていなければ日本法人の成績を上げられないのである。
なんだか、この動画を思い出しました。
https://youtube.com/shorts/P3wYLYC37gE?feature=share
日本的なところも理解しながら、海外本社・事業とも連携できるデュアルな能力。これは転職市場では価値が高いですね。
総合商社なんかだとこの逆パターンが求められるかもしれません。海外・外国の人を理解しながら、日本本社と折衝する能力。
実績を出さなければ米国本社から予算を充てられることもなければ、発言権も奪われ、厳しく締め付けられてしまう・・・。そういう環境の中で、本社サイドと客先の間に立ってうまく調整する能力など・・・・。
樋口流経営改革の手法
- 事実ベースでビックピクチャーを描く
- 事実の背景にある力を読み解く
- 全体像をマッピングし、因数分解する
- どのボタンを押せば効率的に目標を達成できるか考える
- 阻害要因、コスト、必要リソースなどを考慮する
- 優先順位を決める
めちゃくちゃにボタンを押すとフィジビリティが下がる、現場が混乱する。
出世の秘密
彼自身よく尋ねられる出世の秘密について、「愚直論」でこう語っています。
そうした質問を受けるたび、正直言って答えに戸惑ってしまう。なぜなら、特別なことは何もしてこなかったからだ。ビジネスの才覚が人より優れていたわけでも、キャリア戦略を描いて仕事をしてきたわけでもない。ましてや社長になるなど夢にも思わなかった。むしろ内向的で、話し下手で、人一倍不器用な人間だと思っている。
ただ一点、あえて長所を挙げるとすれば、目の前の仕事からは決して逃げなかった。
二十数年間のキャリアを振り返っても、苦しい仕事、辛い仕事がほとんどだった。日の当たる仕事をそれほど多く経験してきたわけではない。閉塞感に悩むことも多かったし、対人関係の悩みも絶えなかった。それでも自分の存在価値を示そうと、のたうち回るような苦しみを味わった。その積み重ねが、現在の自分に繋がっている。
特別な秘密は何もない、と。
ただ、私の個人的な感想を言わせれば、動画での樋口さんを拝見する限り、文系のバカに多いような押し付けがましい喋り方をするわけではなく、理知的で落ち着いていてスマートだし、合理的に見えるし、愛嬌もあるけれど迫力もあるし、見た目もスタイリッシュだし・・・・
と、結構、出世しそうな人特有のオーラは感じられます。
また、自著の中でマーケットバリューについて語っており、
若い頃は個人としての作業レベルや生産性が高いか低いかで評価され、それはすなわち知識やスキルでの勝負であるが、30代半ばになるとグループの生産性をどうやって引き出すかや人をマネージする力が求められるという転換点を迎えると語っています。
人材としてのマーケットバリューという意味では、最初の評価関門は30代半ばであると。
曰く、30代からは「人」をめぐる能力が求められるようになっていくとのことです。
仕事は辛く苦しいもの
樋口さん曰く、仕事は辛く苦しいもの。
だからこそ乗り越えた喜びは大きい。
熱量と経験で成長は決まり、また、仕事に取り組むことでスコープ(視野)が広がっていく。
仕事やキャリアは、MKT(マーケティング)、R&D(研究開発)、HR(人事)、Sales、FA&A(ファイナンス)、PS(生産供給)などのさまざまな機能についてどれだけ広い範囲で、肌感覚としてそれを理解できる素地があるか。
これが重要。
技術職の場合は深さが重要。
スコープが狭い場合には解決策は限られているし、非効率、何より自分のスコープの狭さにも気づけない、と言います。
彼自身は尊敬する上司に勧められてハーバード留学をしたことが人生の転機であったと語っています。
配属ガチャに外れる
新卒入社のパナソニック(当時は松下電器)。
80年に845名の同期と共に入社、そのうち700が技術系でそのうちの一人。
8ヶ月の研修期間が終わり、溶接機事業部に配属。
人事からそれを告げられたときはかなり失望したそうです。当時の溶接機事業部が典型的な3Kだったから。
本当は中央研究所のような花形部署で最先端の研究をしたかった。あるいは当時流行だったエレクトロニクス分野で高度な知識を蓄えたかった。
おまけに組織図を見ると、本社ではなく子会社に属していた。
ここから樋口さんのキャリアは始まります。
地味な仕事に追われる
研究には専念できない。顧客からクレームが来ればすぐに飛んでいって修理する。製造ラインで事故が起これば駆けつけて一緒に手直しをする。部品の購買もやったし、製品の取扱説明書も作った。販売促進イベントの売り子もやった。
雑多な業務に追われた。
日々の仕事は想像以上にきつい。
朝出社すると、つま先に鉄芯の入った重たい安全靴を履き、通常の作業着の上になめし革製の分厚い防護服を着る。さらにその上に革地のエプロンを着ける。
溶接機の製造工程では指を切り落としたり、作業服に火花が飛び散って大火傷をする事故も起こりうるために格好を気にしている場合ではなかったという。
完全武装をするとまるで宇宙飛行士。慣れるまでは工場内を歩くだけで体力消耗。さながら蒸し風呂。
その格好で工場内を歩き回り、溶接実験や評価のために長時間アーク溶接を続ける。金属を溶接していると、ヒュームやスパッタと呼ばれる金属粒子が容赦なく身体を襲い、メガネはすぐダメになる。このメガネのためのメガネ手当が支給されていたほど。
一日中作業をすると全身が粉塵だらけ。真っ黒。夜帰宅しても昼間見続けたアークの閃光で目が焼け、涙が溢れて眠れない。
溶接機は一番軽いもので数十キロ、重たいものだと数百キロある。多くのものは人力で動かすために腰や膝を何度も壊した。
徹夜も日常茶飯事。
客先での焦り
顧客の要望に合わせて特注品を作るのも技術者の仕事。
商品が出荷されてから問題が起こることもあり、そういった場合には顧客先の工場にすぐ駆けつけなければならない。
あるとき、自動車会社に納入した特注品に不具合が見つかり、すぐに現場に赴いて担当者に謝罪、製造ラインが止まる昼休みに作業をさせてもらう。1時間の間に何十台と並ぶ溶接機のプリント基板を動作確認する暇もなく取り替えていった。細心の注意を払いながら大急ぎ。
始業のサイレンが鳴ってから製造ラインが動き出すのを見つめるとき、祈るような気持ちであり、震える思い。もし失敗すれば製造ラインが止まり、松下の信頼は失墜、最悪損害賠償。
無事、何もなかったが、緊張が解けて、その場にへたり込みそうになったそうです。
焦燥感との戦いとT字型人材
このように、入社当時・若い時代はかなり苦労している樋口さん。
そんな樋口さんも御多分に洩れず、
これでいいのか?
と自問自答する日々があったそうです。
仕事場は全国と言っても、自社工場か顧客先の工場に限られ、その狭い世界で重たい作業服に身を包み、危険な作業を続ける自分。溶接機に必要な技術は既に成熟化していて、開発への魅力も乏しい。
同期入社の他部門の人間と飲みに行くと出てくる「デジタル技術用語」についていけない。
すると、
何年この仕事が続くのだろう
技術者として手遅れにならないだろうか
と焦ってくる。
この焦燥感は毎日襲ってくる。
そのため、最初の2年間は毎日逃げ出したくてたまらなかったそうです。
22〜24歳頃の話でしょうか。
しかし尻尾を巻いて逃げ出して仕舞えば、他で何もできなくなる人間になるという不安、恐怖、焦りもあった。
毎日葛藤に苦しむ。逃げるべきか、今の場所で頑張るべきか。
先輩、両親、母校の指導教授にも相談したそうです。
樋口さん曰く、ここで逃げ出していたら違う人生も拓けていたかもしれないが、そうすれば、何か困難があるたびに逃げている人生になっていたかもしれない、と語っています。
個人的にはこれはすごく共感ポイントでした。
樋口さんは言います。
何かに見切りをつけるとき、前向きなやめ方と後ろ向きなやめ方があり、今の場所で出来ることはやり尽くした、成長できる余地がない、と心の底から思えるのであれば卒業であるが、そうでなければ逃げに過ぎない、と。
そして、悩み抜いた分だけ、想いをぶつけるように仕事に打ち込んだそうです。
またこの頃から休日を利用して情報処理や英語検定の勉強を始めたり、異業種交流会を開催するようにもなったそうです。閉塞感があるのであれば、自分で世界を広げていけば良い、と。
この時期に樋口さんを支えてくれたのは、研修の時に幹部が話してくれたT型人材になれ、という話。
つまり、強みとなる領域の深掘りと、幅広い知識や人脈をバランス良く伸ばすという考え方。
部署ハズレへの向き合い方
樋口さんは、溶接機事業部は人員が少ない分だけ新入社員といえども即戦力と見なされ、仕事の内容も設計以外に多岐にわたるが、大きな事業部だと2〜3年経っても純粋培養されるという違いに目をつけます。
考えようによってはデジタルよりアナログの技術の方が深い。
まずは自分のいるアナログの世界で縦の深掘りをして、横は後からやれば良い、と考えたのです。
再び仕事に熱中すると次第に技術者としての成果が表れるようになる。25歳の時にはインバータ式CO2アーク溶接用電源に関する特許を取得。溶接機の電気容量を調節するトランス(変圧器)を小さくするための要素技術の特許であり、これは20年以上経った後でも使われて、ニッチ領域とはいえ長く使われるような技術を発明した、という
技術者としての功績
を持っているのが樋口さんのすごいところ。
なんと結局彼は、溶接機事業部にいた5年間で、6つの特許を取得します。
27歳くらいまでにはそのぐらいの技術者になっていたのです。
すごい。
完全に発想の転換を成し遂げたのです。
傍流で小さい事業部こそ、全て若いうちから一人で担える。
大きな部署に行ってしまうと、一人の技術者が開発全体を実感を持って把握することが難しい。
理系の樋口さんは溶接機事業部でコミュニケーションを学んだ
樋口さんは典型的な理系人間だったと自分を振り返ります。しかし溶接機事業部でビジネスパーソンとしての骨格を作る中で、コミュニケーションには正解がたくさんあることを知ります。
人はそれぞれ違う。
ビジネスでは異文化を理解し、異文化間コミュニケーションが出来てはじめて成り立つ。
彼は言います。
どんな仕事でも、どんな相手とでも、そこから逃げ出さずに全身全霊を傾けることにより、学べることはいくらでもある。それが時間の無駄なのか、将来の財産になるかはリアルタイムではわかりにくいものである。
米国流マネジメントへの憧れ
樋口さんは研究を突き詰めたいという思いから配転願いを出し、IBMのOEMを担当している部署に行きます。
その関係で、外国人と触れ合い、米国流マネジメントにカルチャーショックを受け、憧れを持ちます。
会議一つを取っても、IBMは前回の会議の論点整理や宿題の確認から始まり、続いてその日の議題を参加者全員で共有し、終了時刻を確認し、それから議題の検討が始まる。そして終了時刻が近づくとメンバーそれぞれに宿題が割り当てられて定刻にピタリと終わる。
対して日本企業の会議は参加者が揃うとなんとなく話が始まり、なんとなく終わる。会議の目的が必ずしも明確ではなく、話が進んでいるかどうかもわからない。前回の会議で討議済みのテーマが蒸し返されることもある。新たな議題が立ち上がっても担当者が割り当てられなかったりスケジューリングが曖昧なまま、課題がどんどん積み上がっていく。毎回の会議がただのブレインストーミング。
そんな中、
会社がMIT(マサチューセッツ工科大学)に毎年20人程度の派遣を送っていた枠に入りたいと部門長にお願いすると、
帰ってくる頃には32〜33歳になるから、それでは管理職になっていてもおかしくなく、どうせならビジネススクールはどうだ
と提案され、MBAへの道が拓かれていきます。
樋口さんのTOEFL攻略法が面白い
ビジネススクールの願書は、
- 大学の成績証明書・卒業証明書
- 推薦状
- TOEFL
- GMAT
- エッセイ
が必要で、樋口さんに取ってはTOEFLが厄介だったそうです。英文法や英文読解は猛勉強が通用するが、英会話だけはある日突然うまくなることがあり得ない。
留学予備校に申し込み、カセットプレーヤーを何台も買い込み家中に配置、書店で片っ端からカセットテープ付きの英語教材を買い込む。予備校の費用と教材費で家族のためにコツコツと貯めた貯金があっという間に底をついたそうです。
ヒアリング能力は一向に上がらない。そして焦りの中で過去問をこなすうちに3つのことに気付きます。
問題の引っ掛けにはパターンがあること。
試験会場によって音響設備の質や環境が異なること。
声質によって聞き取りやすい声とそうでない声があること。
本試験への時間が無い中で、正攻法は諦め、本試験朗読者と同じ声のものを何度も聞き、自宅から遠くても音響設備が良いとされる会場に出向き、そして問題のパターンに対応して、なんとギリギリで合格ラインを切り抜けます。
MBA→ボスコン→アップル→コンパック・・・
アメリカに渡ってからの苦労の日々は大変だった模様です。
まず英語が通じない、わからない。授業が厳しい。追われる課題がたくさんある。ハーバードのMBAはケーススタディ方式で発言が重視されるから、自分の意見を挙手でゴリゴリ言わないといけない。
そういった厳しい環境で煮詰められた後、BCGに転職。
ボスコンで学んだこと
樋口氏はBCGについてこう語っています。
外出すると誰もが当たり前のようにタクシーを使う。電車の中では守秘性の高い資料を読むことができないので、要は移動中も仕事をしろということだ。
戦略コンサルティングの手法は徹底的にファクトとロジックに基づいて戦略を構築していくのが特徴である。反論のしようのない事実を集めて、それを反論のしようのない論理でつなぎ合わせていく。そして導き出した最終的な結果がクライアントに提案する戦略となる。この方法論によりたとえコンサルタントの業界経験がなくても、「事実はこうだ。だとすれば論理的に考えてこうなる」と一つ一つの要素を積み重ねていき説得力と信憑性の高い提案を紡ぎ出すことも可能になる。
また「虚業」と揶揄されがちなコンサルタントの価値として、
- 外部環境を知らせる気象予報士
- 社内の派閥や部門の対立に対して外部の視点から客観的にレフリーをする
- 人材派遣業
- 情報機関
の4つを挙げています。これは素晴らしい視点ですね。
コンサルティングの仕事には正解がない。どこまでも追求ができる。だから折り合いをつけないといけない。時間は限られているので、全体のバランスをとりながらアウトプットを最大化する。
こういった、
- 目的
- 期限(時間)
- クオリティ
を意識した、自己管理型のプロジェクトの進め方はホワイトカラーに求められるもので、コンサルワークを経験するとかなり磨かれる・鍛えられるものです。生産性を意識しながら、一定のラインを担保する。
樋口さんは勘所がわかってきたのは1年半が経った頃で、それまでは働いているのにアウトプットの質が出せない苦しみを味わったそうです。過労とストレスで過換気症候群にもなったとか。
また、自分の伝えたいメッセージを極限まで煮詰める重要性も学んだそうです。
中途半端な発言は許されないのがコンサル。頭が整理されていない、論理的に物事を考えていないと思われたら致命的であり、自分が伝えたいことは何なのか、それが何故なのかを徹底的に考える。
頭の中で咀嚼整理する。
そのためには仮説、本質、構造が頭の中で描かれていなければならない。
BCGでは2年程度働き、多くの戦略コンサルにありがちですが「提案だけで終わるのに不十分な気がした」「実行に携われない」という思いからアップルへ。また、何より30代を折り返して、業界に広く知見が出来ても自分の強みとなる主軸が定まらないことに不安を抱いたそうです。
Appleへ
アップルに移ってからは、アップルのカルチャーに刺激を受けて、「仕事が楽しい」と感じられたそう。ただしアップルは新卒で入社したパナとは違い、自分達の強みだけに特化してあとは外部を巻き込むスタイルであり、基本的にはマーケティングの会社で生産面(生産管理、品質管理、サプライチェーン)などについては弱みを感じたそうです。もちろん、彼がいた時代のアップルはジョブズ復帰前のアップルである、という時代性も付け加えておく必要があります。
社内には自由闊達な雰囲気が漂い社員は皆ジーパンにTシャツやポロシャツ姿で勤務していた。それまで経営コンサルタントとして濃紺のスーツに身を包んでいた私は戸惑いながらもカジュアルな格好で勤務するようになった。私が2カ月間の米国研修から戻ってきて言い渡されて役職プロダクトマーケティング本部ニュープロダクト部の部長だった。
パソコン業界は売上に対して原価の比率が高く、基本的な機能が同じで量産による規模のメリットが出やすいことから価格競争に陥りやすく、華やかなイメージとは裏腹に社内では常に経費削減の圧力をかけられていたそうです。
そのため、人員に余裕がある部署はほとんどなく、社員は汲々。新入社員を採用して一から育てる余裕もない。樋口さん自身もチームリーダーとして朝から晩まで走り回っていたそうです。
1年半のニュープロダクト部での経験の後、コンシューマPCのマーケを担当するようになり、全国の小売店イベントに足を運んで、現場の指揮やビラ配りなどもしたそうです。
またこの頃から、「将来、自分の会社を持ち、経営してみたい」と思うようになり、そのために営業の経験を積むべきだと考え、営業部への異動願いを出したそうです。この時点までで、樋口さんは、製造→戦略立案→開発→マーケとキャリアを積んでおり、自分に不足しているのは営業だと考えたのでした。
そして、異動先の営業部で、パソコン流通の大手であるキャノン販売の担当責任者になります。
キャノン販売の要望に傾け、「オリジナル商品が欲しい」と言われれば、古巣のプロダクト部を説得、時には米国本社とも折衝する。そういうことを通して関係各所に揉まれながら、客先からの信頼を得ていく・・・・。
産業構造の変化を掴む視点
樋口さんはアップルの営業部を経て、今度はディベロッパーリレーション本部の本部長に異動します。ここではマッキントッシュ向けのソフトウェアを開発している会社との関係を構築するものですが、当時、ソフトウェア会社はシェアの大きかったマイクロソフト向けを優先開発していました。
ソフトウェア会社を回って必死に説得しても業界全体の大きな流れに抗えない。業界標準化の波の中で、ニッチプレーヤーとしてシェア低下の苦悩を味わい、個人の流れではどうしようもない構造の中で足掻いたのは良い経験になったそうです。
- 標準化
- 規模の経済
- 価格競争
- 低シェア
という構造的な問題。
後にダイエーでの経験からも学びますが、「マクロの戦略観」は企業の生命線。その視点の高さが問われる。自社を取り巻く環境をどれだけマクロに捉え、社内の経営資源を考慮した上で、自社ならではの戦略を俊敏に打てるか。それ次第で戦略の有効性が左右される。
環境の変化に対応できずに退場を余儀なくされた企業の例は枚挙にいとまが無い。
マクロ動向に目を向けていなかった。
社長になりたい夢を叶えるべくコンパックへ
規模や肩書きにこだわりはないから、ある程度完結した組織の長として働きたい。収益責任を持たされた上で、自分の思うような職場づくりがしたい。
そして当時、シェアも利益率も高いナンバーワンメーカーであったコンパックへ。アップル一緒だった元上司がコンパックに移っていて、自分の意向を汲み取ってくれる形で転職が可能になったそうです。
樋口さんはコンパック時代のことを、パソコン市場の相場師のようだった、と語ります。
一般消費者向けのパソコンは今売り上げが良くても3ヶ月後、半年後には調子がいいと限らない。新商品の投入サイクルが短いため、売れ残ったら叩き売らなければならない。ところが原価率が高いため、値引き販売を続けるとこれまで蓄えた利益が全て吹き飛ぶほどの損失が生まれる。かといって在庫を恐れて生産台数を少なく見積もれば売り上げ拡大が見込めない。規模の経済が効かなくなり、原価はさらに高くなる。研ぎ澄まされた感覚で数字をにらみ、売り場に足を運び、迅速に決断しなければならない。1回の発注ミスが、致命傷になりかねない。自分の責任で事業を背負い四六時中気を張っている経験は、濃厚でスリリングな時間だった。その意味で何十億円も動かす相場師のようなものである
ダイエー社長時代の泥沼
1年半でのダイエーでのトップ経験を通して学んだこととして、樋口さんは、大規模な設備投資を必要とする産業や業態では、そのビジネスモデルが崩壊したときに同業と一体化して整理縮小し再編、効率化を図っていくほかない、と言います。
要は、構造不況、抗えない時には、その中で何をやっても無駄なことがある、ということでしょう。
小売業は、
- 人口減少(少子高齢化)
- 過当競争
- 固定費率の高さ
という難しい問題を抱えている。
小売業は商圏内の人口規模で市場の大きさが決まってしまうため、人口が減れば売り上げの減少はダイレクトに効いてくる。特に日常の食料品を取り扱うGMSやスーパーにとって高齢化による一人当たりの食品摂取量の下落はインパクトが大きい。
そして、パイは縮んでいるのに、これを巡って競争は激しくなる。オーバーストア状態。単位売り場面積あたり、一社あたり享受できる利益がどんどん小さくなる。
コンビニエンスストアであったり、カテゴリーキラーがやってきて、GMSは追いやられる。好調と思われるイオンやセブン&アイも別の事業で儲けているのであってGMSの厳しさに変わりはない。
そして固定費が高いために、売り上げの低下が与える利益減のインパクトは大きい。
ダイエーはイケイケブイブイだった時代にいろんな事業に手を出してしまっていましたが、樋口さんはそれをリストラしていきました。
一方で本業に集中すればするほど、小売業はコモディティを扱う業態であるために差別化が難しく、他社と二倍・三倍の差になることは無く、ましてやお客さんが何キロも離れたところからやってくることがない。
つまり打ち手が限られる。
戦略の自由度を取るか、スリム化・選択と集中を取るかというトレードオフがあったようです。
著書、変人力では、
北は北海道から南は沖縄まで、一つ一つ店舗に電話をかけて直接店長と電話のやりとりをしたり、飲みニケーションをしたりして、社内の風通しを良くするとともに、提案を吸収したり、社員のモチベーションアップを行うなどしていたようです。
===
"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。