数学を使って市場(FX・株・マーケティング)を攻略した西園寺の物語❻

LTCMではリスクを測定し、モデル化する技術が向上するにつれ、不確定要素と言うものを軽視するようになったのではないか。結果、不確定性を考慮していたら決して許されるはずのない、多額のレバレッジ取引を行った。LTCMは許容量をはるかに上回るレバレッジをかけていた。モデルに欠陥があることを認識せずベルカーブのファットテールを顧みなかった

ージョージ・ソロス

 

ソロスは不確定性を強調した。

 

マーケットには、不確定要素が存在する。この不確定要素が、時として大きな影響を与える。

これは確かにそうだろう。

 

私は、統計確率論が嫌いだ。

神はサイコロを振らない

といったアインシュタインの言葉に、共感をしてしまう。つまり、「逃げ」を感じる。

 

不確定性を語る上で、一度、物理の世界にスコープを移したい。

物理の世界で、不確定性原理と呼ばれる崩し難いとされてきた地盤は、今、揺れている。

ミクロの世界で時間と空間を同時に特定できない、というのが不確定性原理である。

 

εqηp≧h/4π

不確定性原理はハイゼンベルクによってこの数式で示されている。この不等式が破られているケースが見つかったが、これを日本の小澤が新たな見解で指摘している。

εqη+ σqη+ σpε≧ h/4π

小澤の不等式が示す測定誤差(左辺の第1項)の下限は、ハイゼンベルクの不等式が示していた測定誤差下限よりも第2項、第3項の分だけ小さい。このことは、ハイゼンベルクの不等式が示した限界よりも精度の良い測定ができる可能性を示唆しており、実際にそのような小澤の不等式を実証する実験結果が2012年に発表された。ゼンベルクの不等式の限界を超えて精度よく測定することに成功したと発表された。

ちなみに、日本の学問は世界的に見て順位は軒並み低いが、

物理だけトップクラス

であることは補足しておこう。

 

 

 

統計・確率論がどのようにして生まれたか。

フェルマーとパスカルは、どのようなやり取りの末に生み出したのか。

わかりやすく例え話を出そう。

 

目の前に、3歳の赤子がいる。

この子の将来はどうなるだろうか?

  • パイロットになるかもしれない
  • 弁護士になるかもしれない
  • サラリーマンになるかもしれない
  • 犯罪者になるかもしれない

幅は広い。

 

では、目の前に45歳の中年がいたとしたらどうだろうか?

流石に、今更総理大臣にはならないとわかるし、パイロットも無理だとわかる。年齢制限があるからだ。

余生の範囲で人生を動かせるとはいえ、

  1. 余生が限られている
  2. 分岐のパターンが限られている

ということがわかると思う。

 

私と賭けをしよう。この45歳が、現在、年収500万円未満で、この先死ぬまでに一度でも良いから年収1億円を越えるか超えないかについて当てよう。当たった方が、外れた方に、1000万円を渡すとする。

私は、1億円を超えないに賭ける。あなたは、超えるに賭けることになる。このゲームに参加するか?

もし、あなたがこれを断るなら、この確率は50%:50%じゃないと見込んでいることになるだろう。

(ちなみに、今の年齢を、「自分の年齢」に当てはめてほしい。そして、自分の年齢の人間が「そうならない」の方に賭けるのであれば、そして貴方がまだ自分の人生に期待しているのならば、現状の努力や行動の矛盾に気づくかもしれない。自分の人生を外部観察者で捉えた時と、当事者として主観で捉えた時にギャップがあるのなら、それが「バイアス(自分可愛さ=自己保存)というものだ」)

 

 

高校数学で習ったように、確率とは場合の数でもある。考えうるパターンを全て書き出して、相対的にどれが起こるか・起こりやすいかを考える。

前提にあるのは、

  1. 時間が限られている
  2. パターンが限られている

ということである。そして、これまでに、時の歩みを進めた結果としてのこれまでの過去と、現在地があるということである。

 

確率とは、範囲を限定して、

どれか?(which)

を考えることでもある。

 

 

 

わざわざ、統計学が、「統計学」というお題目を与えられて、数学の親戚という形で「分家扱い」されているのには理由がある。

 

私のような「マーケット・プロフェッショナル」から言わせると、統計学は本当に「当てにならない」というのが正直なところだ。どちらかというと、メインというよりはサブのアイテムになる。

  1. 仮説を立てる
  2. マクロの大枠を捉える

という点では役に立つが、統計にあぐらをかいていると痛い目を見る。

卑近な例では、

「まぁ、100人に声をかければ1即ぐらいは・・・」

というスタンスでナンパをした時に限って坊主になる、みたいなものだ。

 

個人的には、本当に大切なことというのは高校数学課程に降りてくると感じる。元々、微積分は大学で習う内容だったという。これが高校に降りてきたのはそれほど重要だということだ。日本の学校数学教育は微積分を頂点にしたピラミッドになっている。一方で、高校で教えていた行列を大学に棚上げしたということは、線形代数を軽視しているということなのだろう。統計学も基本的には大学で扱う。線形代数は流石に重要だと思うが、微積分がとにかく数学の王様なのは否定できない。

 

統計学があてにならないポイントは3つだ。

  1. 断面・静止画であるということ
  2. 母集団に歪み、変化・変動、構造的変化(結合など)が起こる場合に困る
  3. 「なぜ」がわからない

 

 

ここに、ある空の箱があるとする。その中に、ビー玉を何個か入れるとしよう。そしてそれをブラックボックスのままガシャガシャと降る。そして開ける。その際、ビー玉の配置がどうなっているかについて、本来、降るたびにランダムであるべきだ。ところが、実際は何か偏りがあるという場合には、

  • 中が歪んでいる
  • どこか窪んでいる
  • ひっかるポイントがある
  • 何か引っ付くポイントがある

ということになるだろう。これが確率的な偏りに対する「なぜ」の部分になる。

もっと言うと、人生ゲームのような、サイコロ・ルーレットで確率的に歩みを決めるようなボードゲームにおいては、「どのマスに止まるのか」というのは、「今どのマスにいるのか」ということに影響を受けることになるだろう。

これは既に触れた、

「子供が内閣総理大臣になる確率と、45歳底辺中年がこの先総理大臣になる確率では前者の方が高い」

という考えに似ているかもしれない。

 

つまり、

わからないの中にもわかるがある

ということだ。

 

 

 

εqηp≧h/4π

これが

εqη+ σqη+ σpε≧ h/4π

になったということは、そういう進歩だとも言える。

雑にいえば、解像度が荒かった、ということだ。

 

 

マーケットも同じことで、不確定だと言われているものの中にも、よーく調べていけばわかることはあるのだ。

野球のスコアボードだけを見て、試合の動静を観察し、3点が加点されたらスリーベースを打ったことよりホームランを打ったことの方が尤度が高い。

 

45歳の底辺おじさんのこの先に未来がないのは、

  • 過去の実績からの予測
  • 未来の余生の短さからの予測

だろうか。おそらく両方である。人生は、生きた時間の長さと余生はトレードオフにある。生きた時間が短いことは、余生・将来が長いことを意味する。生きた時間が長いことは、余生が短いことを意味する。

赤ちゃんの未来がわからないのは生きた実績も少なく、余生も長いからだ。共役変数である。

 

さらにもっと言うと、

「45歳のおじさんを選ぶなら、若い方を選ぶ」

という傾向もあるだろう。

45歳のおじさんを選んだ、ということは、そのほかの若い人を選ばなかった、ということにもなるはずだ。45歳のおじさんもヤングも選んだ、という排反性なしの場合は単純に人手不足で拡大している領域ということになる。昔の元気な頃の日本はこの構図が国全体であり得たのだろう。

 

 

一般に、未来は、

明日より10年後の予測の方が難しい

とされる。

しかし、明日の新宿駅の利用者数を予測するより、10年後の20歳の人口を予測する方が精度が良いかもしれない。10年後の20歳とは今の10歳のことである。成熟した日本経済では、10歳まで生きた人は、その先10年でそうそう簡単には死なない。

 

 

人生において、

「まだ決まってない要素」

を持ち出して、

「まだわからない」

という言い方をする人たちがいる。文字通り、不確定性(undefined)を強調している。しかし、不確定で不確実(uncertainty)であったとしても、わかることはある。

 

 

ソロスの言う不確定性とは何か?

株式マーケットから金が引き上げたとしても、行き先は債券か、現金だ。コモディティ、不動産のマーケットはそれほど大きくない。

そして、後は消費だ。耐久財、生産剤、消費財。

金はどこかにある。

確かに、金の居場所を時間と共に特定することは難しいのかもしれない。

 

お金が粒子だとして、このお金がどこかに移動する、飛び交う。これを、一般にチャートとして、波・波形として捉えている。これは捉え方の違いと言える。

 

1ガロンのガソリンが一定の価格で販売されているとして、その価格に基づいてガソリンを購入する際に、1セント単位でまるめられることで不確定性が生じるという例もある。

例えば、1ガロンのガソリンが10ドルとしよう。この場合、1ドルあたりのガソリンの量は1/10ガロンであり、つまり0.1ガロン。しかし、実際の支払いでは、金額を精密に1セント単位で計算することは難しいため、通常は金額が近い値に丸められる。

この丸められた金額に基づいてガソリンを購入すると、実際には1セント単位でまるめられた金額によって買えるガソリンの量が変化する。つまり、購入するガソリンの量には不確定性が生じる。例えば、10ドルで買おうとしても、実際に購入できるガソリンの量は、10ドルに最も近い金額に丸められた金額によって決まる。その結果、1セントの差異が実際に購入できるガソリンの量に影響を与えることになる。

このように、金額の精度が不確定性を生じさせ、購入できるガソリンの量に変動をもたらす例えが、不確定性原理におけるガソリンの例えとして考えられる。

 

結局は、スコープなのだ。

 

本来、確率論はマクロに適用されるためにある。ミクロでの不確定性は、結局スコープの問題なのかもしれない。

 

 

金融市場は物理のアナロジーで捉えられる。

値動きは、確かに、ティックチャートだったり、個々人の取引次元にまで落とし込んで捉えようとすると、よくわからなくなるかもしれない。

 

 

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。