野心はどこから湧いてくるのだろう。
1つは拒絶じゃないか。
1つは高い世界を見た時ではないか。
そしてそこに、リアリティを感じた時ではないか。
私にとって、衝撃的な出来事は、己の身を使って労働しお金を得る経験。
そして、女性たちが、己の身を別の意味で使ってお金を得ている世界、それを知ったことと。
この2つだった。
私はそこに資本主義を見た。
何より、個人的な人間関係を通して、多感な時期にそんな世界に近接したことだった。いや、近接させられたことだった。
昔と今の自分の何が違うのか。
決定的に違う点は、昔は正しい生き方なるものがあると信じていた点だと思う。
私は、正しい生き方を信奉していた。
そして、その正しい生き方がことごとく粉砕される場面を見た。
いつからか、私の中で、正しさは消えていった。
少し、卑近な例を出させて頂くのを許してほしい。
ユーチューバーという仕事がある。
社会に迷惑をかけるような行為をアップしたり、公に人をディすったり、子供対象であっても大の大人が寄ってたかってネットリンチしたり、炎上芸に走ったり、とにかく、いろんなことが起こっている。
そして、それで大きなお金を得ている人たちがたくさんいる。
いわゆる真っ当な働き方をしている人たちよりも遥かに楽に、大きく。
似たようなことは、学校社会でも無いだろうか?
多少、人をいじめたりしても人気者になるオラオラ系の人。嫌味で人を見下すような態度を取るボンボンのエリート息子。ヤンキー。先生にゴマをするのだけがうまいずる賢い子。
なんとなく、『なんであいつが!!』というような理不尽を感じたことは、誰にでもあるのでは無いだろうか。
正しさなるものを信奉して生きている人間は、必ず、そういった対象に苛立ちを覚える。違和感を覚える。
社会に出ても似たようなことはあるかもしれない。
私に取って、転機となったのは、彼女だった。
どんな年齢でも、人は、人を想う。そして、恋をする。その年齢、その背丈なりの等身大の愛だって持つ。相手に対する思いやりから、おせっかいや、注意だってすることもあると思う。
私は、本当に想っていた女性が、
タトゥーを入れる
と言い出したことについて、ガチガチの喧嘩をしたことがある。
他にも、例はいくらでもあるけれど、彼女のためを思って正しいと思ったことのために色々と揉め事をした経験がある。
自分の中から正しさが消えた時、残ったものは何か。
『正しさが無いのなら、やりたいことを思いっきり追求したら良い』
いつのまにか、楽しさを追求するようになった。
白か黒か思考なのかもしれないが、正しさはやがて楽しさへと形を変え、そして快楽主義へと変化していった。正しさ基準に対するアレルギーを生じていた私は、自分の欲望を一定の社会基準でブレーキする術を失った。
気付けば、俗っぽい欲が留まることなく、溢れかえっていた。
そして、いつの間にか、私は俗っぽい人間になっていた。心なしか、友達も増えた。友達の幅も広がった。悪い奴から、ガリ勉な奴まで。
楽しさとノリが至上の価値になった。
そう、リア充やコミュニケーション上手というのは、正しさを押し付けない人なのだ。快楽的、享楽的で、『楽しさ』を人と共有する人なのだ。
正しさを教えてくれる『先生・教授』と酒を呑んで、一緒に遊びたい奴なんてどこにもいない。
気付けば酒に溺れ、
ギャンブルに溺れ、
女に溺れ、
仕事に溺れる。
正しさの手枷足枷を失い、資本主義が想定する欲望の塊となった私の心は、2つの魔物が支配するようになった。
魔神:強欲のグリード。
魔神:怠惰のレイジー。
つまり、Doing more with Lessの典型的なエコノミックアニマルへと成り下がってしまった。
小学校低学年の頃には警察官や公務員なんかになりたいと思って警察24時を観て正義が実行される映像にワクワクしていた少年は、
いつの間にか起業家・資本家になって酒池肉林をしたいと思うようになっていた。そしてなぜか、そのために落ちこぼれがペンを握って勉強し始めた。皮肉なことに、俗っぽい欲求が勘弁へと私を駆り立てた。
プロテスタンティンズムの倫理と資本主義の精神という有名な書物がある。
この本には、プロテスタントの禁欲倫理が、拡大再生産の思想や生活態度となり、文化となり、資本主義のベースになったということが説明されている。
資本主義は強欲が成したもの、と思っている人は多い。
一般にもそう解釈されている。
だが、意外にも、資本主義は勤勉と結びつくのだ。
意外にも、である。
でも、これは結構笑えない真理だ。
大人になって私の周りを賑やかしているエリート美女たちは、自分の美貌を自覚し、堂々と誇り、身体と女を武器にして男を振り回し、賢く世渡りをし、格下の仕事についた同性や異性を見下し、自分は勝ち組だと驕り高ぶり、実際に幸せな生活を享受している。
強欲の限りを尽くす彼女たち。しかしながら、彼女たちは驚くほどに勤勉なのである。
ホテルディナーに舌鼓し、SNSにリッチな旅行の様子を乗せ、ネットに低年収の男の文句を書き込む、そんな連中が都心のど真ん中でバリキャリとして活躍していたりする。そして、意外なほどに、血の滲むような努力をしていたりする。
ハンガリーがあるのだ。
根底にあるのは欲望だ。
危機感かもしれないし、反発心、復讐心、ルサンチマンかもしれないけれど、とにかく強烈な動因があり、ベクトルは資本主義への迎合へと向かう。
これに対して、『THEいい人』の真ん中を行くような連中に限って、政治に頼りきり、実家に入り浸り、いつまでも地元の友達とつるんで周りがどうにかしてくれると考え、オールドな結婚観やいい加減な人生計画で生き、テレビを観て、学ばず、ただ時間を消費している。他責で、他力本願で、出る杭を叩き、後進に人生の甘くなさを伝え、著名人を叩く。
少なくとも、多少の勤勉さは無いと、贅を尽くすこともできないのだ。
エゴの塊ゆえに、はじめた行動習慣。
しかし、はたから見ると、
『頭でも打ったの?』
とばかりに、勤勉に豹変した私がいた。
微積分のプリントを殴り捨て、
マルクスの資本論をバイクの上で読んでいる
くわえ煙草の謎の青年が誕生した。
初めて金で買った女に、ペニスをしゃぶられた時。
罪悪感と、悲しさと、繊細な青年のキャパでは受け止められない現実、目の前の見知らぬ女に対する不必要な想像力などが胸を張り裂いてしまいそうだった。
しかし、同時にそれをはるかに超越する快楽が全身を支配した。
本当に気持ち良かった。
そして、戻れない一線を超えてしまったような気がした。
『今日から俺は』
資本主義の立派な構成員となった。
大人になった。
清濁を併せ呑んだ。
自らの心に許しを与える契機となった。
いつしか、金で谷間が覗く光景を買うこと、股間から全身に染み渡る快楽を買うこと、そういったものはなくなり、金持ちへの嫉妬は憧れへと変わり、野心は煙たいものから、肯定されるものへとなった。何より、その野心の渦中にいるのが私になった。
欲しいもの、愚直に、正直に。
我慢せず、正直に。
大人になればなるほど、子供の頃に観ていた綺麗なビジョンや、普通の概念、理想は崩れていく。
順調に、『普通の幸せ』なるものに対する認識も、私の中で変化していたことも大きいのだと思う。
恋愛への絶望も反比例に左右していた。
多分、いつの時代も、夢と、野望と、欲望と、ロマンをポケットにいっぱい詰め込んで、背伸びして、自分を大きく大きく膨張させて、勢いと若さに溢れた若者がいると思う。
口からは、超えたいあの人、成したい理想、なりたい自分、、、、
恥ずかしげもなく、どんどん出てくる。
それはまさに己に許しを与えている状態であり、
制約を、節制を課していない状態であり、
素直で、愚直で、若い。
何より、可能性を信じている。
自己啓発を読めば読むほど、
自分にはできると感じられた。
自分はすごいと思えた。
こんなにもひたむきに、上を向いているのだから。
欲望が頭を支配した。
金。女。物欲。食欲。ステータス。自由。
餌を目の前に出された犬のように。
頭の中でヨダレが垂れた。
欲しいものは全て、資本主義社会で成功することにより、手に入る。
あらゆるものがプライシングされている。
信じられないと思ってたことが平気で売買されている。
そしてそれに追い打ちをかけるように、ネットや本を通して、若年で成功した人間たちの情報が飛び込んできた。彼らは、尖った欲望を隠さない。常識を恐れない。ストレートで、ギラギラしていた。そこに強烈なシンパシーを抱いた。
やるぞ。
やってやる。
絶対に成功する。
If anyone thinks I’m superficial or materialistic, go get a job at fuckin’ McDonald’s, because that’s where you belong!
(俺のことを拝金主義者だと思うのなら、お前らはクソマクドナルドにでも行って働け!そこがお前らの職場だ!)
ーウルフオブウォールストリートより
ただ、そんな、はりちぎれんばかりのエゴの塊になった程度で成功が降ってくるほど世の中は甘くない。
己の野望が形になっていくのは、
もう少し後のことになる。
とにかく、夢や野望や、ロマンに溢れている自分、
そしてまだ若い自分は、
それだけでも誇らしげな気持ちでいた。
オトナの前で、威勢良くビジョンを漏らせば、みんな、褒めてくれるのだから。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。