昔、運とか波動とか気とか言っている奴が大嫌いだったんだけれど、今は相当、考えが変わってしまった。運とか波動とか気みたいなものはあると思う。まぁ、それをロジカルに説明する方法はいろいろあるんだけれど、人生を楽しくハッピーに生きている人間ほどそういうものを体感的に掴んでいると感じる。不確実なものだらけのこの世界で、ハッピーに生きるためには信念が必要。少なくとも、信じる者は救われる効果はある。そういうものを信じることで、気分が上向く。前向きな行動が続く。自己啓発に騙されて人生を決めてきた人間としては、騙されることほどありがたいものは無いと思ってしまう。人は騙されることを恐れるけど、一体、騙されることの何がそんなに怖いのだろうと思う。仮に騙されて取った行動の結果に満足しなかったとしても、その経験が次回、別の文脈でスライドされて用いられるのだからそこにリスクなんてない。私は昔、付き合っていた彼女に騙された経験があるけれど、その時の経験の上にたくさんのハッピーな運が降ってきた。人生観が深くなると、騙されることの効用を見出してしまう。生きていると、いろんな人を見るんだけど、人生の振り幅を大きくしていろんな人と触れていると、本当にハッピーそうに生きている奴から、悲壮感漂いまくっている奴までいろんな奴と接することがある。で、悲壮感漂いまくっている奴を見ていて思う。こいつらには運が無い。運は、「運ぶ」と書く。彼ら・彼女らには、自分を遠くへ運ぶ力もなければ、何かを自分の元へと運ぶ力も存在しない。要するに、人生は何がしかのきっかけで切り開かれている。出会い、接点、巡り合わせでできている。本当に感動するような出会い、衝撃的な出来事、大恋愛、大成功などを経験した人は、人生の不思議をよく感じているはず。人生って、すごくカオスだってわかっているはず。今の自分をつくっているものの原因を求めると、ほんの小さなきっかけだったりしていて、そのきっかけはアホだった頃の自分の判断に依拠してたりする。結婚、就活、起業なんてものは騙されなきゃやってられねぇぜ。そして、それが人に幸せを運んだりするのだから誠に不思議。ね。
外国人と話す時、自然と「Luckily」「Fortunately」を使っている自分に気づく。
そして、人を見て、気を読み取れるようになっている自分に気づく。明らかに、昔より「人災」が減っている人生。ほぼゼロと言ってもいい。
ラッキーだしハッピー。
当然、出会う人の中で、ラッキーでハッピーな人からは積極的に良い影響を受けようと思う。そして、不運そう、不幸そうな人にはなるべく助けになれるようなことを考えるようにする。
人生、マジでメンタル。本当に土壇場の世界、プレッシャーかかる世界では気持ちの勝負といっても過言ではない。最終的には、意識とか気持ちのところで差がつくってわかる。わかってる。精神を壊してしまった人、気落ちしてしまった人がどんな風になるのかもそこそこの年齢になっていくといろいろ見るようになるし、自分自身の気持ちに関してもそう。ちょっとでも、自分の信念を疑っていた時期なんかは本当に不幸だった。何より、ハッピーかつラッキーに生きている人を見て、良い影響を受ければ受けるほど、ガサついた心ではいけないと思う。
全ては気から。
気分のためにお金を使うこと、気分のために時間を使うことは侮れないと思う。特に、体が資本だ、人材が資本だ、自分こそが財産だ、頭で勝負している、って人ほど気分には気をつけた方が良い。
とにかく、私はもう、気が向いたら働かない、気が向かないならやらない男だからね。そうやって自分の気を大事にすればするほど、ここぞという場面では頑張れるんじゃないかな。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。