人間という存在が、ロシュ限界――すなわち「重力で自壊しないギリギリの距離」の中で文明を営んでいると考えたらどうだろうか。
近すぎれば崩壊し、遠すぎれば離散する。その絶妙な間合いの中で、国家も思想も、そして家族すらも成立している。
この「限界線」を象徴するかのようなパラドックスがある。
親殺しのパラドックスだ。
時間を遡って自分の親を殺すと、自分が生まれない。
では、自分が存在している今とは何なのか?
この論理的破綻をはらむ思考実験は、古代から現代に至るまで、数多の文明の自己矛盾を象徴している。帝国は往々にして、自らを生んだもの――例えば道徳、宗教、農業社会――を捨て、あるいは破壊することで“近代化”を遂げる。そしてその結果、崩壊する。
それはまるで、天文学におけるロシュ限界を超えてしまった衛星が、中心天体の重力で引き裂かれ、リング状にバラバラになるようなものだ。
歴史においても、この構図は繰り返されてきた。たとえば、アメリカが北ベトナムを封じようとしたタンホア鉄橋の爆撃。圧倒的な火力と科学技術の象徴だった橋を壊せなかったことは、近代文明の“限界”を可視化した瞬間だった。
また、科学の世界でも、ロマンと限界の交差点は存在する。
天文学者アーサー・エディントンが提唱したイプシロン(恒星内部でのエネルギー生成効率の定数)は、宇宙の安定性と崩壊のあわいを数式で示したものだった。世界の「存在可能性」のしきい値に、数式で触れようとした試みだった。
だが、こうした高度な数理や国家的スケールの話と、われわれの日常の「有限な身体性」はしばしば乖離している。
たとえば、「メープルシロップ尿症」――分岐鎖アミノ酸の代謝異常による先天性疾患――のように、ほんの数個の分子が正しく機能しないだけで、人間は正常な生を営めなくなる。
この“分子レベルでの親殺し”は、遺伝子のなかで自分自身の未来を壊してしまうという、静かなパラドックスでもある。
それと対照的に、冷戦期、アメリカCIAがネコに盗聴器を埋め込み、スパイ活動をさせようとした極秘プロジェクト「アコースティック・キティー」は、技術と生命の融合がどこまで許されるかという倫理の“ロシュ限界”に触れた話だ。猫は言うまでもなく任務中に車に轢かれ、計画は失敗に終わった。
まるで、神々の怒りに触れたイカロスのように。
倫理と技術、身体と制度。その間には、決して超えてはいけない刃のような境界がある。
日本刀のような美しい道具も、切れるままでは危険だ。儀礼用の刀などは、あえて刃を落とす。これが刃引きだ。
すなわち、「切れない刀」であることに意味がある。制御され、象徴として生きる。
その象徴性が極限まで高められるのが、たとえば日本における大喪儀のような儀礼だ。天皇の死という「国家の切断」を、最も“刃引き”された形で演出することで、分裂ではなく継承が可能となる。
そう考えると、神々の象徴「カドゥケウスの杖」――蛇が巻き付いた杖――は、知識と生命、善と悪、生と死の統合を示すものとして、これほどふさわしい象徴はない。
杖とは、本来は打つための武器だが、それが医療の象徴になったのは、「傷つけず、癒すために使う」という“刃引きされた力”のメタファーなのだろう。
そして最後に。
素数の中でも特別な構造を持ち、完全数を生むメルセンヌ素数は、整然とした秩序の象徴だ。だがそれがいかに希少で、美しいものであろうと、世界のすべてを支配することはできない。
なぜなら、
世界はパラドックスと限界、癒しと崩壊、意味と幽霊でできている。
そして我々自身が、そのすべての矛盾を身に抱えながら、歩くロシュ限界なのだ。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。