元日本兵レベルのマインドを受け継ぐ。俺はJAPANESEだ!見てろよ、世界!

歴史ドキュメンタリーを見るのが好きだ。

この俺様には確固たる持論がある。

Nowに囚われていると成功しない。過去と未来を意識すると成功する。「今の世の中」「今の年齢」に囚われていると、成功しない。なぜか?甘ったれたことを意識して、標準・平均に埋もれてしまうからだ。

 

船坂弘氏をご存知だろうか?

かなり有名人である。知る人ぞ知る有名人だ。

 

渋谷のど真ん中にある大盛堂書店の創業者である。

そして、元日本軍兵士である。最終階級は陸軍軍曹。

大盛堂は、渋谷のど真ん中のスタバの隣にある。

 

この男は、伝説すぎる伝説を持っている。wikipediaによると、こうだ。

その白兵戦におけるあまりの戦果から、個人名としては唯一「戦史叢書」に名前が載っている。

特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道教士六段居合道錬士銃剣道錬士など、武道射撃の技能に習熟していた。

おそらく、当時の日本兵の中で、最強兵士である。リアルスネークだ。

 

彼の凄さを一言で言えば、「不死身・不屈の化け物(モンスター)」である。もちろん、畏敬の念を込めている。

wikiにはこうある。

1941年3月、宇都宮第36部隊に現役入隊し、直後、満洲に渡って斉斉哈爾第219部隊に配属される。斉斉哈爾第219部隊は、宇都宮歩兵第59連隊を主体とした部隊であり、仮想敵であるソ連軍の侵入に備え、部隊はノモンハン付近、アルシャンノンジャンハイラル一帯の国境警備隊として活躍していた。弘は第59連隊第1大隊第1中隊(通称石原中隊)擲弾筒分隊に配属され、アンガウル戦時には15人を率いる擲弾筒分隊長としてこれを指揮していた。

剣道銃剣術は当時から有段者であり、特に銃剣術に秀でていた舩坂は、斉斉哈爾の営庭で訓練中に、陸軍戸山学校出身の准尉からも「お前の銃剣術は腰だけでも3段に匹敵する」と保証されるほどの腕前だった[1]。また、舩坂は擲弾筒分隊長ではあったが、一方中隊随一の名小銃手でもあり、入隊以来、すでに射撃については30回の賞状感状を受けていた。斉斉哈爾第219部隊に於いて、「射撃徽章と銃剣術徽章の2つを同時に授けられたのは後にも先にも舩坂だけだ」と専ら有名であった[1]

戦況の悪化により、1944年3月1日、第59連隊にも南方作戦動員令が下る。アンガウル島に到着したのは同年4月28日であった。南方動員令が下ったとき舩坂は除隊を目前にしていたが、戦況の急はそれを許さず、大隊主力と共にアンガウル島に上陸することとなる。当時、舩坂は23歳であった[2]。中隊では一番の模範兵と目されており、部下からの人望も篤かった。

アンガウルの戦い(Battle of Angaur)は、第二次世界大戦におけるパラオ – マリアナ戦役最後の戦いであり、この戦いで舩坂は多大な戦果を上げることになる。擲弾筒および臼砲にて米兵を100人以上殺傷したといわれる。水際作戦により中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。

3日目には、舩坂も米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやくやって来た軍医は、傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を手渡して立ち去って行ったという。

瀕死の重傷を負いながらも舩坂は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、数日で回復しているのが常であった。 これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。

舩坂は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で2人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺すなど、奮戦を続けていた。実際、舩坂の姿を見た部隊員たちから、不死身の分隊長と形容する声が聞かれるほどであった[3]

しかし、食料も水もない戦場での戦いは日本兵を徐々に追い詰めて行き、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相を醸し出していた。弘自身も腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を図ったが、手榴弾は不発であった。舩坂は暫し茫然とし、自決未遂という現実に、なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのかと、深い絶望感を味わったという[4][5]

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。

舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。

米軍の動揺を尻目に船坂は司令部目掛け突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている[6]。当初船坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で話題となった。舩坂の無謀な計画に対し、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。

wikipediaにはサラッとまとめられているが、本当にヤバい。やばすぎる。とてつもない男である。

この男が残した事業は、今も渋谷の地で残り続けているのだ。

何気ない普通の書店。

しかし、その背後には凄まじいストーリーがあるのである。

 

実は、日本のみならず、世界では戦争から帰ってきた男たちによって焼け野原の中創業されたビジネスがある(あるいは戦争前から創業し戦争中もなんとか生き延びた)。いくつもある。

焼け野原は何もない。

だから基本的には何かを起こすしかない。

戦後生まれの人間であっても、厳しい環境にいた人間、就職できなかった人間はなんらかの起業に辿り着いていることが多い。

私はこれは、メンタルの強さが成せることだと思う。戦争を見てきた人間にとって、事業を起こすことなど容易だからだと思う。

日本のドキュメンタリーでも、悲惨な体験を味わった元日本兵兵士の映像などを見ると、豊かな暮らしをしている人が多いのだ。そして、彼が戦後何をやったのかについて追って行くと、何かしらの事業を起こしている人が多い。

頭のそばを、砲弾や銃弾がかすめて行く世界を生き抜いた男たちにとって、事業のリスクなど、なんてことは無かっただろう。

今、私たちは平和な世の中に生きている。

そしてそのど真ん中にいるのが日本人だ。

しかし、株式会社や保険のルーツは、大航海時代に、リスクを背負って海に出て行った人間たちのための資金調達やリスクヘッジにある。その時代から脈々と受け継がれてきた制度が今の世の中にも息づいている。

ただし、制度だけ残り、その背後にあったベンチャースピリットは失われているのではないか?と思う。

特に今の日本には、ひ弱なことを言っている人が多いのだ。

 

歴史を辿ると、やはり、世界の転換点として深く刻まれているのは二度の世界大戦だと思う。

激動の時代を生きてきた人間のストーリーに触れると、開いた口が塞がらない。

そして、戦後の焼け野原から、何かをやってきた人間のストーリーもそうだ。戦争が終わった後、兵士たちはずっと兵士をやっているわけではない。なんらかの仕事をやるわけだ。兵士としての活動を終えた後も、自らの糧を得て、食っていかねばならない。生きていかねばならない。

「生命力」という点で、昔の人間には学ばされることが多い。

キャラクターの濃い奴が多すぎる。

登場人物が濃い。

戦場でルンルンで絵を描いていた奴、火薬の匂いが好きだったと語る某国首相、伍長から国家総帥レベルまで這い上がる奴・・・・・・とんでもない。

アメリカ、ドイツ、ロシア、イギリスに脈々と受け継がれる血は、とんでもないものなのではないか?と思ってしまう。実際、私がポストしたこの記事を叩いたキーボードは、アメリカで「Think different」「Change the world」のスローガンを掲げていたクレイジーすぎる男が立ち上げたビジネスに供給されたものであるし、きっと、この記事を読むにあたり貴方が経由してきたであろうGoogleというサイトはロシア系移民の人間がアメリカで立ち上げたものだ。そして私は今、戦時中でもなんとか事業を存続させたアディ・ダスラーが立ち上げた会社の服を着ているし、なんたって「英語」を使っている。

 

大戦後、アメリカの傘の下でずっと平和に暮らしてきた日本とは違い、西洋・欧米の奴らはかなり無茶なことをやり続けている。

元兵士、元特殊部隊隊員のドキュメンタリーでは、1960年代、70年代、80年代、90年代、2000年代に至るまで、過酷な試練を乗り越えた男たちの事例に触れることができる。

そこに触れる度、ブルブルと武者震いする。

一度、ポーランド人の前でヒトラーの話をしてしまって凍らせてしまったことがある。明らかに「名前を言ってはいけないあの人(ウォルデモートはヒトラーの扱いを参考に考案されたもの)」がやらかしたことはとんでもない、だけれど彼の書物の中に残されていた言葉に引っかかるものがある。

 

全ての生物のうち、強いものしか生き残れない。生きる資格がない。種を残す資格もない。種族として繁栄もできない。

大自然においては、生命はポンポンと生み出されるが、自然の厳しい環境の中で淘汰されて行く。つまり、多産多死であるということだ。

これに対して、人間の場合は産むかどうかの前に熟慮をし、産んだ後は死ぬ気で生命を守ろうとする。何としてでも生かそうとする。

もし、人間の命を、親が何らかの手段を講じて必死に守り抜こうとした場合、短期的には生き延びるかもしれない。しかし、長期的に見れば、弱い命は確実に、強い試練を生き延びた別の生き物、種族によって滅ぼされる・・・・というのだ。これがヒトラーの洞察であった。

これは個人間でも、国家間でも根底に流れる原理だという。

・・・・・・・・どうだろうか?

戦後70年を超えて、今の世界を鑑みるに、大して間違ったことは言っていないのだと思う。

個人ベースで見ても、この考え方は的外れとは思えない。ただし、この思想が危険なのは、あまりにも「優越」「人種」「敵味方」の区別が強すぎる閉鎖的な匂いがするからだ。戦いがベースにありすぎる。

日本の少子化や人口減について、色々言われているけれども、私はシンプルにこう思う。シンプルに、日本人は相対的にも、絶対的にも、落ちているのでは?と。ヒトラーの予言というか思想に照らして考えてみると、そう思ってしまう時がある。政治がどうこう、じゃないのだ。社会制度がどうこうじゃない。新興国が成長し、世界のパワーバランスが変わる中で、当然、強い人種、強いビジネス、強い個人が生き残るのは当然のことであろうと思う。

 

結局、英語圏の人間たちや、英米が推し進めた資本主義・民主主義というのは、厳しさや問題を抱えながらも、チームワークや連携、自由取引、私有財産やそこに根付く社会経済システム、合議制の概念を世界に広めて、世界を統一したといっても良い。

ここにはまだ、オープンマインドや共存共栄の思想があるのだ。その思想が世界に行き渡る中で、今日、私たちの生活がある。

 

結局、アメリカ、ロシア、ドイツ、イギリスは強いのだ。大国なのだ。

第二次世界大戦中、ヒトラー率いるドイツがヨーロッパ大陸を猛烈な勢いで手中に収めて行った。ベルギーも、ノルウェーも、フランスも、一気に支配下においていった。

海の向こう側のイギリスは危機感を覚えていた。ドイツには敵わないかもしれない。ドイツと和平交渉を結んだ方が良いのでは?イギリス国内でも、ナチスドイツと和平交渉すべきだ、という意見は強かったのだ。

しかしイギリスは、ヒトラーの野望は止まらないと考えた。長い歴史を持つ我が国がドイツに奪われるのは許されないと考えた。アメリカという強力な後ろ盾がいたからだけれど、イギリスの意思は固く、徹底抗戦したのであった。なぜ、イギリスはそこまでやったのか。それはイギリスのイデオロギーというか、DNAに根付くものだと感じる。アメリカに関してもそうだ。アメリカが戦後の世界でもあれだけ悲惨な犠牲を払い続けたのは、彼らのイデオロギー、DNAに基づく。きっと、世界の中で最も優れた地位を確保したという自負がある国には、そういう強い意志があるのだろうと思う。

そして、長い歴史の中で繁栄を誇っていたことがある中国が、今、野心を燃やして積年の鬱憤を晴らそうとしているのかもしれない。

以前、アメリカ系ロシア人に面白いことを教えてもらった。

Race(人種)とRace(競争)は同じスペルだ、と。

うまいことを言う。

世界の中で、大国と呼ばれる地位を確保してきた国や、世界の歴史の現実を直視しその中でうまくやってきた民族には、もしかしたら「強くなければ生き残れない」というのが強烈にインプットされているのかもしれない。

 

戦争は決して褒められたものではない。しかし、そこを生き抜いた人間には、いつの時代をサバイブするにあたっても必要な「覚悟」「強さ」「魂」を感じるし、そこから学ぶことが多いと思う。

戦争を体験してきている人間は、なぜか、成功している事業家が多い。

どん底、戦争、地獄、貧乏、投獄、大病、震災、・・・・なんでも良いけれど、一度、恐怖のバロメータが狂うぐらいの経験をすると、人生観が変わるのだろうと思う。

あなたが日本人なら。

強烈な経験をした遺伝子を引き継いで、今を生きているのだ。

きっと、目覚めることができる。

やろうと思いさえすれば。

 

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マイルドヤンキーでもなく、意識高い系でもなく、「ハードニート」@西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)@僻地で生きる





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お仕事は、無職です。
「0」は無限だと信じたい。賽は投げられたのだから。


Lose Yourself , Change Yourself.
(我を忘れろ、クソな自尊心を手放せ、お前の全てを何かに捧げろ。そして己を変えろ。)





「遊び心」「粋」「真面目に不真面目」

(組織と他人に縛られるのが大嫌いな人)


"強くなくては生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。"

"世界は変えられなくても、人生ぐらいは変えられる。"

"悪貨が良貨を駆逐する中、悪貨に転じないことが「恥」や「損」であるならば、清濁併せ吞み、仮面を被った「良貨」であり続けるのみ。"

説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-20、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。