親世代に中途半端に裕福に暮らさせてもらって、「贅沢の味」や最低限守らなければならない生活ラインの「ようなもの」を植え付けられてしまっている。社会や周りに、あるべき論・あるべき姿を学習させられてしまっている。そしてその基準が、本人の実力や器に見合わないレベルで高い。本来、飯が食えるレベルではない人間、贅を尽くすことができるレベルの人間ではない人間が、なんとなく、親や環境、会社の力でそれなりのものを与えられてしまっている。
だから人は必死に「何か」にしがみつく。
実力不相応のものを手にしたところで、人間は不幸である。
会社のおかげで食わせられているという自覚があれば、首根っこ掴まれたまま必死に会社にしがみつき、自分に見合わないレベルの異性とパートナーシップを組めていると思えばその異性に執着して不安に苛まれ、実際は大して頭が良くないにも関わらず学歴という指標で社会的にそこそこ「頭が良い」とみなされてしまった・タイトルが与えられてしまった人間はそこにしがみつく。資格などにしても同様。
死や人生の有限感がないまま大人になってしまう。大して貧乏や命の危機すら遭わない。キャリアの危機や人生の底すら経験しないままなんとなく生きている人が多い。昔は、日本全体が右肩上がりを信じられたから良かった。国民の幸福度は、今の豊かさよりも将来、どんどん良くなるかで決まる。人間は「差」しか認識できないから。だから、日本よりも貧しい新興国の若者とかの方が、イキイキとしていたりする。
人生は有限。そして、本来生きている意味などない。生物学的に特段意味はない。だから、自分で作り、考える必要がある。つまり、自分で哲学する必要がある。自分で人生哲学を持つ必要がある。
努力をすれば必ず成長する。そして成果は約束されない。チャレンジすれば必ず失敗する。でも、それらには後付けで好き勝手に意味をつけられる。実際、失敗や挫折は後々、良いようにいくらでも転ぶ。だから結局、自分が「どういう生き方・生き様」をしたいかでしかない。これがないまま、なんとなく「年収」とか「安定」とかいう指標を追っていても意味はない。これは、本当にどん底に落ちた経験がある人間、振り幅のある人生を送っている人は必ず知っている。
どう生きたいか。
どういう生き様で人生を終えたいのか。
学校教育ではこんなことを教えられないし、教えられる人もいません。普通に生きてりゃ、周りにそういう話ができる人もいません。接点もない。でもそんなもんです。
私は昔からずっと、戦争映画を見るのが好きです。
そこでは必ず、「生死」というテーマが突きつけられます。
生きるとは。死ぬとは。人生とは。
人生観とは死生観であり、生き様とはそこに根付くものであり、働き方などもその上に成り立つものではないでしょうか。
私はそう思います。
生きてることと生かされてることは違います。ただなんとなく、生かされているという感じ、ただ日々を流しで生きているという感じがあればあるほど、人生は不幸になる、鬱っぽくなる。生きる喜びをなかなか味わいにくいシステムがあちこちにあるよね、今の世の中は。
本当は食事なんかも、誰かに作ってもらうのではなくて、自分で野菜を育てたり、狩猟採集してきたり、・・・・とかの方がよっぽど生きる喜びを味わいやすいんだと思います。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。