80歳まで生きるつもりなら、40歳までは、自分が正しいなんて思うと危険だと思いながら

西園寺は昔から人生30年計画というものを掲げている。まぁ、大体30年くらいで大抵の面白いことは終わるだろう、というもの。根拠は、縄文弥生くらいまで人間の寿命が30年だったとか戦前まで寿命は50年ちょいだったとか(要するに今の寿命の常識は急激に老後が引き伸ばされただけ)、現代でも30歳ぐらいまでで大まかに人生の方向性が決まってくることだったり、30以降はなかなか新しい経験を得ることが無いこと・・・・・などを根拠としている。もちろん、仕事とか、社会的活動とか、学問や研究などにハマれば、寿命はいくらあっても足りない。しかし、「童貞を卒業し、免許を取り、学校を卒業し、親元を離れ、職を得て、自立・自活していく」というプロセスを考えれば、大体そのぐらいの年齢で、「一個人」としては一通りのサイクルを完結させることになる、基本的な次元は。

人生80年と「当たり前のように考えている」人もいるが、40歳以降は常識的に考えて健康上のリスクも高まる。80年のうち、半分の期間が健康的に危ういなんてどう考えてもおかしい。こうやって考えると、人生80年という感覚は微妙だと考えてきた。故に、人生30年という発想である。別に40年でも良いけど、厳しめに考えた方がお得そうなので。

こうやって考えると、30年のうち、初期の15年くらいは色々と学習に捧げて、残りの15年はその学習を通して得たものをベースにして積み重ねていく生き方をするのは何らおかしく無い発想。山登りのようなもので、「登山」と「下山」のセットで考える。下山は登山してきたルートを下るので楽である。これまでのプロセスで得た情報をベースに進んでいく。人生、いつまでも学びなのは間違いないが、いつまでも登山していると下山している時間がない。寿命をどの程度と考えるのか、ピークをどこに持ってくるのか、これらは人生運びの基本と考えてきた

事実、私は15〜6歳ぐらいから、あんまり根本的な思想というか興味関心が変わっていない。

つまり、

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誰もが経験するであろう、

「一定の年齢以上」になったら繰り返し大人から問われる

「将来何になるの?」という問いにどうやって答えていくか。

自分自身、どうやって体現していくか。

勉学、スポーツ、その他を含めて、自分の才能の限界やなれなさそうなものの見極め(選択肢の減少)をしていく中で、

経済性などの現実問題や
自己実現などの内的な問題を考えながら、

いかにして自分の道をつくっていくか

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という課題を、「資本主義のルールの中」でどうクリアしていくか。

そしてそれはそのうち、

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「現実」の社会をまじまじと突きつけられ、

このまま行けば、

労働者階級として大した人生を送れなさそうな自分がいることがわかってくる中、

いかにして「階級シフト」を行い、

広範囲において満たされた人生を実現しうるか?

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というテーマへと変わっていった。

私は15〜6歳ぐらいから、そこに興味関心の重点があることはそれ以降もずっと変わらなかった。実際、16〜7歳ぐらいから、「雇われるのはやめよう」という決意を胸に生きてきた。そういう意味では、人生30年計画で言うところの初期の15年で、ある程度世の中のパターンを学習したのである。どれだけスケールが大きくなろうと、「雇われて働くことにつきまとう不遇というか理不尽さ、辛さは大なり小なり全部同じだろう」という判断をしてしまった。

今思えば、それは非常に矮小・狭窄な視点だったかもしれない。すごく真面目に頑張って、仮に東大とか行って、豊富な選択肢を持ったまま、何かしらのエリートサラリーマンキャリアを選んでいたら、また違った心境が待っていたかもしれない。あり得ないけど。

とはいえ、そうやって若さゆえの拙速・稚拙な判断や見切りは、早め早めの意識改革や下準備に繋がってくるという意味ではメリットはある。一長一短である。

この視点で行くと、世間的に言われている「大学はなるべく行った方が良いよ!」というのも人生80年を前提にしているものだと思う。地方のマイルドヤンキーなどは、ある意味死生観が達観しているというか、重大なライフイベントを前倒し的に持ってきているし(結婚、出産、育児、どれも早い)、若くて綺麗で元気なうちに、いかに恋愛活動や夫婦生活、家庭活動に莫大なエネルギーを注ぎ込めるかみたいなところに重点があり、都心のキャリア組とはキャリアなるものに対する価値観もだいぶ違うと思う。

西園寺も元々、「キャリア」なる概念がぶっちゃけよくわかってなかった人間である。

人生30年計画は、荒い。荒々しい。18歳まで童貞だったコミュ障には理解できないと思うが、もう少し詳しく解説する。すなわち、人間の生活における基本的なポイントは、

  1. 食べる (生命を維持するエネルギーを供給する)
  2. 寝る (生命を維持するために休息する)
  3. エッチする (生命を後世に残す)

の3つのポイントからなっており、「童貞卒業・処女卒業」は人生におけるターニングポイントである。これを経験する前に死ぬのは人生損している(多分、誰もがうなづくだろう)。逆にいえば、これが前倒しだとなんとなく、「やることやってしまった感」がある。将来に対する楽しみがない。いちごショートケーキのイチゴを一番最初に食べてしまった感があるのである。西園寺は童貞を15歳〜16歳で卒業し18歳までにはキスもエッチも同棲まがいのことも相手の父親に緊張して会うことも全部経験してしまっていた。しかも、当時、交際相手は成人していた(20代に入ってももちろん何度か交際の機会に恵まれたが全て既視感があった)。飲酒もギャンブルも夜遊びも全部やってた。もちろん、これらの犠牲として学業が大変おろそかになっていたことは言うまでもなく、高校卒業後は一転して鬼勉強に転じることになる。

だから、私は昔から、「まぁ、これ以上特に、何かはないだろうな!」ってのはずーっと、感覚としてあったのである。それが、ある意味、「生き急ぎすぎ」の人生観につながっていた。昔から、「20代を我慢して、老後を充実させる生き方の何が面白いのだろう?」というタイプだったのも大きい。

 

・・・・た、だ、し。

ここまで述べてきたことは、ある意味、人生で「最低限のこと」を達成するための考えである。つまり、「自分自身」という最小単位について、それについてある程度、そこそこの完成を実現させるための生き方。

でも、人生は一人だけの問題ではない。親の問題、将来作る家族の問題、社会との関わり、海外に出て行く可能性・・・・・こういうように、枠を広げていけばどんどんと肩の荷は増す。そして、その肩の荷が増せば増すほど、人生は長い目で見ていかないといけないし、登山の道のりが長くなって行くと思う。山登りが長くハードになっていく。そして、「人生のピーク」に対する捉え方も変わっていく。私が思うに、典型的優等生サラリーマンの生き方というのは、個人の人生としてはつまらないが、結婚相手には嬉しい話であったり、結婚相手の両親には歓迎されたり、地域社会や世間体という意味では素晴らしいものだと思う。また、定年退職後を豊かに暮らす(無難に)ことであったり、子供が成人するまでの20年間を穏便に過ごすために比較的、「成功確率が高い無難の手」なんだと感じてしまう。そういう意味で、私はサラリーマンというのは、「結婚のため」の手段のように感じる。

もちろん、それだけではない。

もしかしたら、自分が人生の中で「最高の喜び」を達成できるのは、もっともっと、大きな領域に関わった時かもしれない。もっと大きな器で生きることができたときかもしれない。何より、世界は物理的にも、精神・認識世界という意味でもものすごく広い。でかい。面白い人は沢山いる。刺激的な出会いは沢山ある。

こう考えると、あまりにも若いうちに下山をスタートさせるのも損ではある。

人間は物事をメタファーで理解・学習する。メタファー(metaphor)で理解・学習するとは、過去、自分が見聞きしてきたものと重ね合わせて物事を見るということ。人は、新しいものを前にすると、これまでの経験で得たものと擦り合わせて捉えようとする。固定概念に当てはめようとする。つまり、狭い了見しか持たない範囲で、あまりにも自我や自分の意見に固執しすぎると盲目的になる。何も見えない人間になる。人間が目の前のものを認識できるかどうかは、これまでの経験による。身の回りにあるチャンスや身の回りにいる面白い人・美女をGETできるかも「何が見えていて、何を感じられていて、何が言えるか」による部分がある。つまり、人生や仕事や恋愛などを、若すぎるうちに狭い了見で断定したら損する可能性がある。特に、生きる意味とか、仕事とは何かとか、人生とは何かみたいな重大なテーマに、20代そこらで本気でわかったフリして、自分の中で断定すると損する。他の知見を完璧に遮断したらクソみたいな人生送ることになる。もちろん、すでに述べたように「人生30年」と割り切っているぐらいの覚悟があるのならいい。だけれど、人生が長いことを忘れて、若いうちからあまりにも自分に固執し、愚策な手を打ち続けたらどんどん狭くなる。

自分の意見を持とう。

人の意見は無視しよう。

やりたいように生きよう。

老害は無視しよう。

そんなことがよく言われるようになったし、特に誰もが情報発信者になれる時代、ちょっとばかし目立つだけでフォロワーが得られるようになる。すると自己強化のプロセスが始まる。どんどんどんどん歪んでいってしまう。まぁ、本当に賢い人はそういうこともわかっていて、「若いうちから本は出さない」とか「ブログみたいな恥さらしツールには手を出さない」とか「SNSはバカ発見器だからやらない」とかポリシーを持って生きているものである。

80歳まで生きるつもりなら、40歳ぐらいまでは「自分が正しい」と思い込んでクソみたいなブログを書けば書くほど、自分の人生が終わる。そういう意味で、ブロガーなんて本当に命を削ってご飯に替えているようなものだと思う。

西園寺が自分で「性格歪んでるなぁ」「ふてぶてしいなぁ」と思うのは、恥を晒して生きていると感じることである。恥を晒して、沢山失敗をしながらも、前に進んで行く。感覚としては、自らが公害のような感覚。あちこちに毒や害を撒き散らして生きているような感覚。これはすごい、昔からある感覚。「自分が居ていいのだろうか」とか「自分が発言していいのだろうか」とか「自分と居ることでこの人は楽しいのだろうか」とか、そういうことは昔からやたら考える部分があった。もともと、自己否定的である。自己否定的であることとネガティブであることは、たまに良いように転ぶことがある。それは、平気で過去の自分を殺しにかかれること。成長は足し算ではなく引き算だと思う。進化は「変化」の一種類であって、前に進むためには必ず、過去の自分からの離反が必要。断捨離が必要。そう思っている。そういう意味で、自己否定的なのはちょっと役立つ。常に、「自分はおかしいのではないか?」「自分は間違っているのではないか?」と問いかけ続ける。とはいえ、これはやりすぎると明らかに精神を病む。正しい・間違っているに固執すると人生は面白くなくなる。とはいえ、心のどこかで、「自分only」で振り切れない自分がいる点にも気づかされるのである。倫理や正義の話は嫌いではない。大きなスケールの話は嫌いではない。小学生の頃に、偉人伝ばかり読んでいたからであろうか。ドラマティックなストーリーばかりが意図的に選択されている可能性があるが、偉人たちはそのほとんどが、不遇、貧乏、失敗、挫折を味わっていた。そういうストーリーパターンが頭に刷り込まれているのだろうか。社会的に大きな業績を達成した人間が「素晴らしい」という価値観が頭の中に刷り込まれているのだろうか。

 

「劣悪な労働から抜け出そう」

「不自由から抜け出そう」

「奴隷のような労働条件から逃げよう」

「雇われではなく自由になろう」

「ファイナンシャルフリーになろう」

これらのメッセージは過去の自分に物凄く響いた。実際、同じような感性を持っている人たちが沢山いるのも知っていた。だから道を引いた。自分の経験をシェアした。第三のキャリアを示した。可能性を提示した。理論的枠組みを提供した。テクニックを公開した。

でも、もはや、自分自身がこういったメッセージにあまりビンビン興奮しないような頭になってきているのを感じるし、ここにエネルギーを注ぎまくることもあまり意欲を感じない。

「自由」「金」「女」「成功」みたいな俗物的なワードにフックされて、ある種動物的に反応することで動いてきた自分のストーリーは、その先でいろんな紆余曲折があり、気がつけば自分を遠いところへ連れてきていた。始まりの動機と、経過過程における動機が同じである必要なんて無いと思う。生まれてこの方、ずっと同じような思考パターン・興味などを一貫していられるのはイチローとか本田圭佑のような化け物だけだと思う。人は変わる。良くも悪くも変わる。というか、もともと、私は資本主義社会の荒波に蹴落とされて、そこで揉まれる中で、反動的に「ここから抜け出さなきゃ!!」と金に固執してきたような感覚もある。

自分が何がしたいか?どうなりたいか?どこに向かいたいか?

これらはもはや、「自分ではなく他人に決めてほしい」ぐらいの勢いである。何故ならば、自分で決める限りは、「自分の世界」から抜け出せないから。今、自分が心底感動するようなものや、驚きは「他人に丸々乗っかった結果」「他人に強引に勧められた結果」「誰かに付き合った結果」得られるものが多かったりする。自分で考えないで、誰かに流されたり、誰かにねじ込まれたりすると面白かったりする。こういう心境になると、例えば、「節操無い勢いだけの若者に感性onlyの話をぐいぐいねじ込まれても」、悪い気がしないというかむしろ笑けてくるのである。今でも、JDに「ちょっとおじいちゃんっぽいところあるよね?」と言われるぐらいである。そして、気付く。ああ、感性や欲望の変化とはこういうことか、と。自分は食べないが、子供にパフェを食べさせて幸福を感じる女性。ヒモに貢いでしまう女社長。ガキンチョにクソ生意気なことを言われてもいつもニコニコしているおじいちゃん。世の中、よくできている。人間って、よくできている。欲望ステージや感性ステージが上がっていけば、自分自身の「美味しい」「気持ちいい」「楽しい」といったプリミティブな欲望を満たすだけでは全然面白く無い世界がある。秋元康さんが、本の中で、「最近の僕は、欲しいものがない」と言っていた。ものすごく気持ちがわかる。わかる。わかりすぎる。自分で自分を通して生きて来すぎた結果、他人に振り回されることもなく快速で目的達成ができた。その反面、デメリットも沢山ある。あまり他人が自分の中に入ってこないのである。他人の何かが自分の中にグイッと入ってくることがない。そういう意味で、狭い了見で生きている感覚はすごくする、それで物を言っている感覚がすごくする。それを広げようという努力、他人の話を聞こうという努力、外に出ようという努力はしているつもりではある。例えば、これはまぁ職業病なんだけれど、流行っているものを試すとか、女性向け商品を試すとかそういうこともする。外国人とも話す。近しい友人は大体、「真っ向から反対意見をぶつけてくる」ような奴らも多い。

他人に流される、他人に乗ってみる、グイグイくる人間にやられてみる。そういう高度な喜び、遊びもあるものだ。思えば、若い頃から「すごく器の大きいおじさん」にお世話になることがあって、器の大きいおじさんは「生意気なこと」を言っても、ニコニコと聞いてくれて、一緒に話すことを楽しいとまで言ってくれたりした。すごい人たちだった。それって別に、お世辞でもなんでもなくて、欲望や感性が高度化した彼らにとって、本当に「面白い」「楽しい」と感じるところがあったのかもしれない。実際、あまりにも上品で丁寧で、綺麗事と建前が横行する世界で生きている「品の良いおじさん大人」は、下品でトゲトゲした若者を「おもしろい」と思う人だっているのだ。人間は、自分とは逆の人間を面白いと思う感性があるのだと思う。

 

「自分のやりたいことをやろう!!」

「会社に出社なんてしてられないぜ!!自由になろう!!」

「お金持ちになって美味しいランチをして仲間たちと楽しもう!!」

なんていう、ある意味動物的なメッセージを聞かされて、餌をぶら下げられたワンちゃんのごとくヨダレを垂らして「ワーーーーーイ」と走って行ける人はそれで良いかもしれないが、そうはならない人間っていると思う。

 

年収いくら、とか、

いくら儲かる、とか、

自由になれる、とか、

そんなこと「だけ」ではどうもピンとこない人が、きっといる。

 

進路に迷った、恋愛に迷った、仕事に迷った・・・・・・・・・・・

そういう時に、

「好きな人と結ばれなさい」「好きな仕事をやりなさい」「行きたい方向に行きなさい」と言われて、すんなりと「そうですね!!!」とならない人間たち。

何をやるにしても、生きづらかったり、自分は病んでいるのかと考えたり、息苦しかったり、居場所が無いと感じる人間たち。

考えが深い人間たち。

そういう人間たちが、世の中には居るのかもしれない。

 

別に、自分が「考えが深いです!」とか「感性が高度です!」とか言いたいつもりではなくて、なぜ悩み、なぜ考え、自分がどうしたいのかなぜわからないのか、、、、ということを思った時、もっと新たな視点から捉えなおすと、自分の人生に対する見方が変わるかもしれない・・・・・・・ということでこの記事を書いた。

小学校1年生の数学は「1+1=2」で終わる。しかし、大学一年生の数学はそうはいかない。

これと同じことで、もしかしたら、「大人の人生」も、1+1=2のようなものでは終わらせられないのかもしれない。それで終わらせてしまったら、「コレジャナイ感」がつきまとうのかもしれない。

 

金があれば幸せか?

セックスできれば幸せか?

好きなものが買えれば幸せか?

ずっと旅ができれば幸せなのか?

この会社にいられればそれで良いのか?

・・・・・・・・。

そうやっていろんなことを考えるのは、贅沢というよりも、感性や欲望が次のステージに行っているのかもしれない。そして、それが前に進めば進むほど、「自分への執着」から解放されていくのかもしれない。ある意味、「流される」「合わせる」「何かに乗っかる」「大きなものに尽くす」というものを、心から楽しんで行えるような状態。

 

昔から、「金は使ってしまえ」と思っている。

その理由は、こんなところにもある。

人間は、欲望にも飽きる。学習する。前に進む。それは間違いなくそうだと言える。経験から言える。

 

ちんぽがビンビンで、射精したくてたまらない時期に、「社会貢献!!」とか言っている若者がいたら、胡散臭くて仕方がないだろう。そんな若者が経営しているNPOとか、なんか、金をなんやかんや、くすねてソープにでも行ってんじゃねえかと疑いたくなるだろう。

こうやって考えると、年相応のというか、その時々でやるべきことというのがあるという話や、年齢で人の役割を決めたり、年齢をベースにした統治があるのもわからなくもない。じじい国会議員よりも、若い国会議員の方が色欲関係でなんか悪いことしでかしそうな雰囲気はやっぱり感じてしまう。

こうやって考えると、

「自分が何者か?どうなりたいか?どこに向かいたいか?」

みたいなことについての決定は、どんどん先送りしても良いようにも感じてくるし、人生30年計画の浅はかさも浮き彫りになってくるような気もする。

 

どんどんどんどん、感性と欲望を進めた先に、もっと進化した自分がいたら。

そんな自分はもっと面白いことを思いつけるようになるかもしれない。

 

本当に欲しいものは手に入らない。

私はそう思う。これは、ずっと思っている。昔から思っている。

なぜなら、本当に欲しいものが手に入る時というのは、それが欲しいと切実に願ってヨダレを垂らすばかりだった感性を卒業している時だからだ。笑えない話だけれど、「金持ちになって●●買いたい!」とか思って金持ちを実際に目指し、金持ちになったら「●●がもはや欲しくない」なんて状態になってることはザラだと思う。そういう話は本当によく聞く。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。