オークションに、極めて珍しい品物が出品されたとする。
その価値を理解できる収集家は一人しかいない。その収集家は、心の中ではかなり高い金額を払ってもよいと考えている。
しかし、他に入札者がいなければ、価格は上がらない。
反対に、どこにでもあるような腕時計でも、欲しがる人が大勢いれば、入札は競り上がっていく。
希少性が高い方が、必ず高く売れるわけではない。
高値がつくためには、価値を理解する人がいるだけでは足りない。その価値を理解し、実際に金を出す買い手が、複数存在する必要がある。
この原則は、人間の能力にも当てはまる。
博士課程で高度な専門性を身につける。
他の人には読めない文献を読み、扱えないデータを扱い、まだ答えのない問題について考え続ける。研究計画を立て、仮説を作り、検証し、反論に耐えられる形で結果を提示する。
能力は明らかに上がっている。
ところが、能力が上がった結果、その能力を評価できる人が減る。
買い手が減るのである。
能力が高いのに、値段が上がらない理由
市場価値は、能力の高さだけでは決まらない。
その能力を必要とする買い手が何人いるか。
買い手同士が、その人材を獲得するために競争するか。
能力を使うための予算があるか。
その能力によって、買い手がどのような利益を得られるか。
これらがそろって初めて、能力に高い値段がつく。
ある研究領域で、非常に高度な知識を持っている人がいる。
その知識を正確に評価できるのは、同じ研究領域にいる少人数だけかもしれない。その人を雇いたい組織も限られ、募集時期や勤務地まで限定される。
この状態では、一人の研究者に高い価値があっても、買い手同士の競争は起きにくい。
一方、専門性はそれほど高くなくても、多数の企業が必要としている能力を持つ人には、複数の買い手が現れる。
どの会社でも使える。
複数の業界へ移れる。
条件が悪ければ、別の買い手へ移ればいい。
こちらの方が、価格交渉力は強くなる。
高度な専門性は、能力を上げる。
しかし同時に、適合する市場を狭くすることがある。
能力が上がったのに所得が上がらないという現象は、必ずしも矛盾ではない。
能力の深さが増える一方で、その能力に入札できる買い手の数が減っている。
別の変化が同時に起きているのである。
博士号は、どの市場で価値を持つ資格なのか
博士号は、高度な研究能力を一定の形式で証明する。
しかし、あらゆる市場で同じように価値を持つわけではない。
論文、学会発表、研究テーマ、所属研究室などは、同じ分野にいる人には重要な情報である。その人が何を研究し、どの程度の方法論を扱え、どこまで自立して研究できるかを判断する材料になる。
ところが、その研究領域の外にいる人には、価値の読み方が分からないことがある。
論文の難易度が分からない。
研究テーマの重要性が分からない。
研究で培った能力が、自分たちの問題にどう使えるのか分からない。
結果として、能力が低く評価される以前に、評価そのものが行われない。
価値がないのではない。
値段をつけるための尺度が共有されていない。
博士号を取ることによって、学術市場の中では自分の能力が以前より正確に認識されるようになる。
一方、学術市場の外では、「非常に専門的な何かをしてきた人」という粗い情報に圧縮されることがある。
本人は何年もかけて能力を細分化し、高度化してきた。
しかし、外部の買い手から見ると、その違いを判別できない。
能力の解像度は上がった。
市場からの解像度は上がっていない。
ここに断絶がある。
専門性は、深くなるほど高く売れるとは限らない
専門性を高めれば、代替されにくくなる。
これは正しい。
他の人にはできない仕事ができれば、その人の希少性は高まる。
だが、代替されにくいことと、高く売れることも同じではない。
世界で一人しかできない仕事でも、それを必要とする人が一人もいなければ、価格はつかない。
必要とする人が一人だけなら、買い手には他の選択肢がなくても、売り手にも他の選択肢がない。
買い手と売り手が一対一になる。
売り手は希少だが、買い手も希少である。
このとき、交渉力が必ず売り手側にあるとは限らない。
特定の設備が必要。
特定の研究機関に所属する必要がある。
特定の地域に住む必要がある。
研究を継続するため、その買い手との関係を失えない。
こうした条件が重なると、能力が希少でも、本人は簡単に別の市場へ移れない。
希少性が自由を生むのは、複数の買い手がその希少性を奪い合うときである。
買い手が一つしか存在しなければ、希少性は自由ではなく、その市場への依存を強めることがある。
「社会は博士を評価すべきだ」では価格は上がらない
博士号を持つ人の待遇が悪いと、「社会はもっと高度人材を評価すべきだ」という話になる。
主張としては理解できる。
長期間かけて専門性を身につけ、社会に必要な研究をしているのだから、それに見合った待遇が必要だという考えである。
ただし、個人の戦略として考えると、この主張には弱点がある。
現在の買い手に対して、「もっと高く評価してください」と頼んでいるだけだからだ。
買い手が少ない構造は変わっていない。
一つの大学、一つの研究機関、一つの専門領域の中でしか能力を販売できない状態のまま、価格だけを上げようとしている。
オークションに一人しか参加していないのに、その一人へ高く入札してくれと頼んでいる。
それで待遇が改善される可能性はある。
しかし、価格決定権は引き続き相手側にある。
本当に交渉力を変えるには、二人目の買い手を作らなければならない。
学術能力は、そのままでは商品にならない
ここで誤解してはいけないのは、「研究を企業向けに分かりやすく説明すればいい」という話ではない。
専門知識を簡単な言葉に言い換えるだけでは、市場への翻訳にならない。
企業や個人が買うのは、知識そのものではなく、その知識によって解決される問題である。
判断を誤る確率を下げられる。
技術選定の精度を上げられる。
開発の無駄を減らせる。
大量の情報から、重要な差分を見つけられる。
既存の方法では捉えられなかった現象を測定できる。
複雑な問題を、検証可能な仮説へ変えられる。
研究能力が、こうした具体的な結果と接続されたとき、学術市場の外にも買い手が生まれる。
逆に、「自分はこの分野を十年間研究してきました」と説明するだけでは、買い手は何を購入すればいいのか分からない。
専門領域は、本人の履歴である。
商品は、顧客に起きる変化である。
この二つを区別しなければならない。
研究者本人にとっては、専門分野が中心にある。
しかし、市場の買い手にとって中心にあるのは、自分が抱えている問題だ。
その問題に対して、研究能力がどのように機能するのかを接続する必要がある。
これは専門性を捨てることではない。
専門性を、別の需要単位で切り直すことである。
一般企業へ就職すれば解決するわけでもない
アカデミアで稼げないなら、企業へ行けばいい。
これも一つの選択肢である。
しかし、企業へ移るだけで問題が解決するとは限らない。
企業の中で研究職や専門職として雇われ、今度は一社だけが自分の能力の買い手になる可能性がある。
所得が上がっても、買い手が一つしかいない構造は変わっていない。
会社が研究領域から撤退すれば、仕事がなくなる。
上司や経営陣が専門性の価値を理解しなくなれば、評価が下がる。
社内で大きな成果を出しても、顧客、知的財産、商品、販売経路は会社側に残る。
大学から企業へ移った。
だが、価格決定権と成果所有権は、引き続き組織側にある。
所属先を変えることと、買い手を増やすことは別である。
大学に残るか、企業へ移るかという二択だけで考えると、どちらを選んでも一つの組織へ依存する。
必要なのは、所属先を決める前に、自分の能力が複数の需要と接続される状態を作ることだ。
二人目の買い手は、どこにいるのか
二人目の買い手は、必ずしも同じ研究分野にいるとは限らない。
研究テーマでは遠く見えても、扱っている問題の構造が近い場所にいることがある。
大量の観測から、原因候補を絞る。
不完全なデータから、妥当な結論を出す。
複数の仮説を比較し、反証可能な形へ変える。
既存研究を調査し、知見の強さを判定する。
未知の対象について、測定方法から設計する。
こうした能力は、研究対象が変わっても利用できる可能性がある。
ただし、「研究者には論理的思考力があります」という一般論まで抽象化すると、今度は誰とでも交換可能になってしまう。
専門的すぎれば、買い手がいない。
一般化しすぎれば、差別化が消える。
必要なのは、専門知識そのものと、誰にでも当てはまる能力の中間にある。
自分が持つ特殊な知識と方法によって、他の人より明確に解ける問題は何か。
その問題を抱え、解決に金を払える人は誰か。
その人が普段使っている言葉では、問題は何と呼ばれているか。
ここまで移して初めて、専門性が別市場へ接続される。
論文を書く能力と、買い手を作る能力は別である
研究者は、価値ある知識を作る訓練を受けている。
しかし、その知識を必要とする人を探し、接触し、取引を設計する訓練を受けているとは限らない。
学術市場では、論文を投稿する場所、研究成果を評価する人、業績として記録する仕組みが、ある程度用意されている。
市場の外では、それを自分で作る必要がある。
誰に向けて説明するか。
どの問題を入口にするか。
何を無料で公開し、何を有料で提供するか。
どの範囲まで責任を持つか。
いくらで提供するか。
取引後に、何を自分の側へ残すか。
ここで必要になるのは、研究能力の追加ではない。
需要へ接触し、取引を設計し、成果を蓄積する能力である。
さらに勉強することではない。
既に持っている能力について、別のオークションを開くことである。
博士号を捨てる必要はない
市場価値を上げるため、専門性を捨てて一般的な仕事へ移る必要はない。
博士号を隠し、自分を普通の人材に見せることが最適とも限らない。
それでは、長期間かけて蓄積した差分まで消してしまう。
必要なのは、専門性の撤去ではない。
買い手の追加である。
大学や研究機関を、一人目の買い手として残してもいい。
企業の研究職へ移り、安定した収入を得てもいい。
そのうえで、会社や大学の名前を通さず、自分の知識を必要とする人へ到達できる経路を持つ。
自分の名前で専門的な情報を発信する。
専門外の人が抱えている問題を調べる。
小さな相談や分析から、どこに需要があるかを知る。
自分の知識を、具体的な判断や成果へ変換する。
取引後には、守秘義務に反しない形で、方法、信用、読者、再利用可能な知識を自分の側へ残す。
そうすれば、買い手が一人から二人になる。
二人から三人になる。
すぐに大きな所得が生まれるとは限らない。
それでも、一つの組織だけが自分の能力へ値段をつける状態ではなくなる。
この変化が重要である。
博士号は、価値の証明ではなく「一つの市場への適合証明」である
博士号を取ったから、人生が自動的に安定するわけではない。
反対に、博士号を取ったから、市場価値が必ず下がるわけでもない。
博士号が証明しているのは、特定の形式で研究を行い、専門的な成果を作れることである。
その能力がどの市場で、どの問題に、いくらの価値を持つかまでは決めてくれない。
市場価値は、学位の中に保存されている数字ではない。
誰がその能力を必要とし、何に使い、何人の買い手が競争するかによって変わる。
能力を高めたのに、所得が上がらなかった。
それは、努力が無意味だったということではない。
能力を深く掘った結果、同じ深さまで降りてこられる買い手が少なくなったのである。
だから、さらに同じ場所を掘るだけでは解決しない。
掘り出したものを、別の需要へ運ぶ経路が必要になる。
社会に価値を理解してもらうのを待つ必要はない。
一人しかいない買い手へ、もっと高く評価してくれと頼み続ける必要もない。
作るべきなのは、二人目の買い手である。
博士号を取った人に足りないのは、能力ではないかもしれない。
自分の能力を競りにかけられる、二つ目の市場なのかもしれない。
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SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。



