心が寂しいとき、その寂しさの心理や気持ちの裏にあるのはあまりにも根深い

寂しいという気持ちは、簡単な問題ではありません。

側に人がいれば良いという話ではない。

パートナーがいても寂しい思いをしている人はたくさんいる。

楽しそうな輪の中にいても寂しい人はたくさんいる。

 

なぜか?

純粋に対人的な問題だけでは無いのですよ。

 

周りに人がいなくても、全く寂しさを感じない人がいます。クリスマスを一人で過ごしても、全く寂しさを感じない人がいます。

その人の心にあるのは、神かもしれない。熱中できる使命かもしれない。どハマりしている何かかもしれない。

 

もし、寂しさというものが、「疎外感」「孤独感」だとしたら。それは物理的に、対人的に、賑やかな中にいれば良いというだけではありません。

心の問題ですから。

ニートをやっている人が、週末の街並みの中に行けば寂しさを感じるかもしれない。仕事が無い人が、サラリーマンでごった返す中に行けば強烈に寂しくなるかもしれない。

 

もし、自分の抱えている問題や悩みが、高度な知性が故に出てくるものなら?

それを人に相談して、

「パーっと呑もうぜ!」

「一緒にカラオケ行こうぜ!」

というもので解消できるのでしょうか。

 

あるいは、寂しさの源泉が、自分が置かれている立場によってもたらされるものだったら?この立場をわかっている人じゃないと、体験したことがある人じゃないと、理解してもらうことは難しいかもしれません。

 

例えば、ここにある専業主婦がいるとしましょう。

この専業主婦は、旦那が仕事に行っている間、テキパキと家のことをやり、子供の世話やら学校行事やらに参加します。

友達と久しぶりに連絡を取ると、その子は働いていて、社会人として活躍している友達と、社会人の現場から降りた自分とのギャップを感じさせられます。旦那は超絶お金持ちというわけでも無いし、将来は不安がある。生活も不安がある。老後はどうなるかわからない。

こうやっている間に、自分と社会との距離は開いて行く。

どんどん寂しくなります。

一人の社会人として認められていると感じる機会はあまりなく、普段、子供と接してはいるものの、大人と話す機会はない。ママ友ばかりと交流しているが、それではどうも寂しさを癒せない。

家に旦那が帰ってきて、寂しさをぶちまけるかのごとく、いろんなことを話す。しかし旦那は、

疲れてるから

ということでテキトーにあしらう。そして、同じ屋根の下、空間に人間がいるのに、心も体も寂しさを感じたまま、四面楚歌になってしまう。実家は遠い。

 

・・・・・・。

 

こういう感じの人が世の中にいっぱいいるわけですね。

 

他にも、氷河期世代で、運悪くファーストキャリアを逃して、食いつなぐためにあれこれと仕事を続けているうちに歳をとってしまい、気がつけば同級生たちは結婚をし、子供を授かり、家を買っている。幸せそうに見える。自分は狭い部屋で、コンビニで買った惣菜をチンして食べている。仕事はつまらない、辛い。苦しい。希望は無い。プライベートの充実もない・・・。

みたいな人もいるわけ。

 

自分が抱えている寂しさを人に打ち明けたとき。それが「わかる相手」と「わからない相手」がいたりします。そして、そのわかる・わからないは、相手の知性レベルや人生経験に根付くものだったりします。

人の悩みや問題の複雑さは、程度があるのです。

 

崇高な理念を持った人が、何かしらの難しい仕事に就き、その仕事を現実に行っていく中で、理想と現実のギャップに打ちのめされ、「本来、社会制度はこうあるべきなのに・・・・」という思いを抱えながら、日頃の業務の中で殺伐とした心境にさせられ、虚無感を感じている・・・・みたいな状況にあるとき。

この人の深い心の闇を、話がわからない人が癒せるとは思えません。

キャバクラに行って、風俗に行って、友達とカラオケに行って、ウェーイとやっていれば一時的には気晴らしになるかもしれませんが、それでも解決しないかもしれない。

 

寂しかったら彼女を作れ。

結婚しろ。

友達を作れ。

よく言われます。

 

でも、周りに人がいるからこそ、余計に寂しさを感じることがあるのです。

パートナーがいるせいで、逆に寂しさがハイライトされることがあります。

 

例えば、結婚しているAさんがいるとしましょう。このAさんが、心に抱えている寂しさを、配偶者であるBさんに相談したとします。そのとき、Bさんから返ってくる返答次第では、Aさんは、「自分は孤独である」という現実を強烈に突きつけられることになります。あっ、この人に話をしてもわかってもらえないんだという状態になります。自分の現実的な状況を強烈に自覚してしまう。メタ認知してしまうわけです。そして、これがきっかけで、諦めてしまうというか、一気に冷めて愛想を尽かすかもしれません。身近に人がいるのに、その人が全く自分の孤独感を理解しない。これは、行くところまで行くと、諦めになります。そして、一線を引くようになります。そこから始まる関係は、「仮面の関係」ということになります。仮面の関係は、演じれば演じるほど、心にどんどん闇を落としていきます。寂しさが加速するのです。

しかし、その配偶者であるBさん側は全く寂しさを感じていない。物理的にも精神的にも満たしてもらうことができ、ハッピー。そんなBさんは、会社で後輩たちに、「お前らまだ結婚しねぇとか言ってんのかよ!」「俺も20歳の時は同じことを考えていたぞ!ガハハハ!青いな!!」と講釈を垂れているかもしれません。そんなBさんが、ある日、お家に帰ると、食卓に手紙が・・・・・・・。

 

さようなら。

花子を連れて、実家に帰ります。

印の押された離婚届と共に、手紙が一枚。

 

おお・・・・・・・。

 

これぞ熟年離婚・・・・・・・。

 

そもそも、寂しさというのはどういうことなのでしょうか。若いうちに、端正なルックスでチヤホヤされていた人が、歳をとってチヤホヤされなくなったらこれもまた寂しいという感情かもしれません。長年勤めていた会社を定年退職する時、寂しいという感情が押し寄せるかもしれません。ずーっと住んでいた場所を離れる時、これも寂しいという感情が押し寄せるかもしれません。

若いうちは、自分の価値に疑念があまり無いです。もちろん、そうじゃない人もいますが、若さ故に様々な可能性はあるわけです。将来性や希望というものに根ざした自分の価値に対する確信。やってやるぞという意気込み。明るい未来に対して思う気持ち。こういったものは、人を前向きにさせます。頑張ろうという気にさせます。何かに向かって人が没頭すると、忙しくなります。忙しいというのは心の状態です。心が忙しくなると、人はあまり寂しさを感じません。しかし、こういうものが無い場合には寂しさを感じるかもしれない。良い意味でも悪い意味でも落ち着いてしまった。天井が見えている。余裕が出来てきた。快適さを感じている。そういった状態では、何となく物足りなさを感じてしまうことがあるかもしれません。

 

何かを研究すると人生は短く感じると良く言います。

一芸を極めるに当たってもそうです。

日本には、武道、華道、剣道といったように、「道」とつくものがありますが、それらは、それをやり続けることによって精進していくという世界ですが、もしかしたら人生の空虚さを埋めるものなのかもしれませんね。

人間は何で仕事をするのか、趣味を持つのか、結婚をするのか、宗教に入るのか、そういったことを考えていくと、結局のところ、何処かの誰か、何かと精神的な結びつきを持ちたいのでは無いでしょうか。そして、その心の満足というか躍動を感じられる対象というのは、実は「誰でもいい」とか「何でもいい」というわけではありません。結婚しても寂しさを全く埋められない人がいます。オウム真理教などにハマった女性の話を聞くと、結婚してもどこか埋められない寂しさがあったのだということがわかります。それは、この人がバカだ、愚かだというそういう問題ではなくて、パートナーが不十分だった、もしくはこの人自体が恋愛や結婚の類で満足が収まる器では無かったのかもしれません。

 

寂しいという気持ちは、辛いです。

だからこそ、何かに対して、関心を開いた方が良いかもしれない。何かを探した方が良いかもしれない。

誰にでも「寂しい」という気持ちはありますが、その寂しいというものが心の穴だとしたら、世間一般で広く採用されている穴の埋め方が自分に当てはまるとは限りません。自分にはしっくりこない、すっぽりはまらない場合があるのです。寂しいという言葉だけが一人歩きし、そして寂しさを埋める手段も暗黙の了解のように、「これで埋めるのが普通」みたいなものがシェアされています。それをやってても、どうもしっくりこないなーという場合は考えられます。

 

ちなみにイケメンなことを言うと

西園寺さんは17歳の時に22歳の女を抱きながら、相手はスヤスヤと寝ているのに、一人で窓から差し込む月光の光を見ながら「寂しいぜ・・・・」と思っていました。

(やばい、ちょーかっこいい)

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。