昔は、
- 彼女いないと寂しい
- 一人暮らし寂しい
と思っていました。
友達もいないと寂しいと思っていました。
いわゆる、普通の考えを持っていました。
人間が、孤独や孤独感を嫌うことは当然のことです。
しかし、ある段階であることに気付きました。それは、「寂しい」という感情を強く持ちすぎると、何もできなくなるということです。本当に何もできなくなる。
どこまで孤独感を感じるのか。
これは人によります。
寂しさを感じてきた度合いは人によります。
22歳まで実家にいた24歳の人が感じる寂しさ。
18歳まで実家にいた27歳の人が感じる寂しさ。
25歳で離婚して35歳の人が感じる寂しさ。
同じとは思えません。
例えば、小学校・中学校の段階で普通に生きれた人と、いじめにあっていた人、不登校になっていた人では、感じてきた寂しさのレベルが違います。
同じように、家庭円満だったのか、家庭で愛情が希薄だったのかによっても違います。
若い頃に恋愛をしてきたのか、してこなかったのか。
モテたのか、モテなかったのか。
それによっても違います。
寂しくない、彼女いなくても良い、結婚しなくても良い、という考えがある人を見ると、そもそも、
- 寂しい
- 彼女いない、できない
- 結婚できそうにない
という状態がデフォルトであって、その反対側にある世界を「知らない」「届かない」という思いの元に発している人が多いように感じます。
しかし、寂しくない、愛に包まれている、満たされているというような体験を一度経験してから、そこから抜け出してきているタイプもいるのです。
寂しいという感情は、
- 人との繋がりを失いたくない
- 人に嫌われたくない
- 人から外れたくない
- 人と違うことをしたくない
みたいなことに、最終的には繋がってきます。
私の知り合いに、「この人寂しさに弱そうだな」って人が今、頭に2名ほど浮かぶんですけど(20代と50代)、寂しいという感情の強さは、その人の行動原理を支配するというか、進路を決めてしまうんだな、と感じる部分があります。
率直な経験談を話します。
友達がいないと寂しい。友達と会っていないと不安だ。困った時やストレスがある時は友達と電話しないとやってられない。彼女がいないとダメだ。一人では辛い。一人で暮らすのは辛い。こういう心理状況に置かれていた時の自分を振り返ると、
何もできなかった
というのが率直なところです。
寂しいという感情に一度支配されると、パニックのようになるのです。
強烈に、自己否定的になるというか、自己嫌悪に襲われます。
寂しいというのは怖いもので、これを払拭できないと、主体的に、先進的に行動することができなくなります。
フリーズする。
とにかく、この寂しさを取り除くために・・・という形で、突発的な行動に出やすくなります。
お金が手元にゼロの人の就活と似てます。
孤独というのは何も、物理的な孤独だけを指すわけではなくて、精神的な孤独も意味します。
ぱっと見は、孤独じゃなさそうなのに、孤独感を抱えている人はたくさんいます。
例えば、世の中の主婦には孤独感が強い人がめちゃくちゃ多いのです。
身近に誰か人がいれば良い、という話ではありません。
そして、寂しいという感情は、私が思うに、ダイレクトに寂しさを感じている場合とはまた別に、「仕事がつまらない」「人生がつまらない」みたいな状態の時に感じる虚無感に対して追い討ちをかけるように感じることもあると思います。
虚しさ、というのでしょうか。
何も無い感じ。
例えば、好きでもない仕事で埋め尽くされている人が、例えば仕事もクリスマスで潰れてしまった時、幸せそうなカップルを見ると泣きたくなることでしょう。
(ちなみに、私がその経験をしたことがあるのですが、自分でやりたいことをやるためにリスクをとって止むを得ず忙しくしてクリスマスをスルーしてしまった時は寂しさのカケラも感じませんでした)
突き詰めると、寂しさというのは、生命の躍動のようなものに繋がってくるような気がします。
自分の生命が躍動しているのかどうか。
自分の生命の価値を感じられているのかどうか。
不思議な体験をお話しします。
私は昔、彼女がいないと、交際相手が途切れると、どうしようもなく寂しさを感じて死にたくなるくらい生きがいが感じられませんでした。
恋愛中毒みたいなところがありました。
しかし、それがパタッと途絶えたことがありました。
何かに没頭した時です。
目標を持った時です。
その時には、不思議と寂しさが消えたのです。むしろ逆に、彼女的なものがうっとおしく思えたこともありました。
20代前半ぐらいで、
「彼女いらねぇ」
「結婚しねぇ」
と言っている人に対して、
30代、40代ぐらいのおじさんが上から目線で、
「まだ若いから」
「いずれわかります」
「私も同じようなことを考えていた時期がありましたので」
みたいなことを言っているシーンを見かけます。
若いうちは、自分の価値と将来性に絶対の自信がある人が多いです。少なくとも、中高年よりは人生に行き詰まりを感じていない人が多い。当然ですが、そうなってくると、自分の価値に疑念がありません。ですから、生命はドクドクと躍動しているわけです。
歳をとって寂しくなるというのは、自分の価値を信じられなくなるということでもあります。将来性だとか、ポテンシャルのようなことはある程度削がれていきますし、生きる時間が長くなると良いことも悪いことも含めてわかることが増え、現実が見えてきます。今自分が乗っている路線に限界を感じたり、自分自身に変革の余地が無いと思ってくるかもしれない。そうなってきた時に、寂しさを感じ出す人も多いわけです。
あるいは、ある程度、落ち着いてきた。自分が一心不乱にやっていることが落ち着いてきた。余裕が出てきた。(精神的な)忙しさから解放され、ふと顔を上げると、周りには何もなかった。急に寂しくなった。そういうパターンもあると思います。没頭すると周りが見えなくなりますが、いい意味で落ち着いてきて、没頭から解放された人が寂しさを感じるパターンもある。
経験上、周りに人が溢れていたら寂しく無いというわけでは「無い」ということを嫌という程わかっています。
それを若いうちに悟ったのは、契機だったと思います。
周りに人が溢れているのに。
騒いでいるのに。
こんなに楽しそうな場にいるのに。
彼女もいるのに。
どこか気が晴れない。自分の心がポツンとしている感じ。満たされない感じ。心が踊らず、生きているつもりが「息だけ」している感じ。ただ日々の消化試合を送っているような感じ。そういうことを感じていた時がありました。周りに人がいれば良いというわけでは無い。そういうことをハッキリと感じた。寂しさというのは、対人的なものに限らない。対物的なものでもあったりするし、対概念的なものであったりもする。
要するに本質的には、自分の心が踊っているのか、です。人は、何かに対して働きかけを行い、その反射を受けて嬉しい、楽しい、悲しい、ムカつく、イラつくということを感じています。常に外部に働きかけている。その対象が人の場合もあるし、物の場合もあります。寂しいという言葉とセットに出されるのは、常に人です。しかし、人に恵まれていても寂しい人がいるのです。逆に、周りに人は全くいなくても、何か物や概念や、精神世界や、神秘に魅了されて虜になっている、寂しさを全く感じていない人もいます。
私から言わせると、
本や活字
というのは、人以外で、人が寂しさを晴らせるもの代表のように感じます。実際、幻冬社の社長が、学生時代に寂しさを紛らわせるために本に向かったということを話しているのですが、気持ちはわかります。
人は、人と気持ちを通わせられない時、「自分の言語」で交流できない時、自分が知っている物事について誰かと意見交換できない時にも寂しさを感じます。結婚しているのに、妻や旦那が、自分の心の深層部分に入ってくることができなくて寂しい人もいます。自分が思い悩んでいることについて、その高度な知識・知能レベルの部分で交流できなくて寂しい思いをしている人がいます。例えば、動物のように、美味しいものや睡眠などの原始的な欲求を満たす行為だけで満足する人もいれば、もっと知的水準の高いものを通して人と交流することで満たされる人だっているわけです。ここのギャップがありすぎる人が一緒にいたとしても、寂しさが紛らわされることはありません。
この人は私のことをわかってくれる
この人といると、話すと、寂しく無い
ということを人が感じるためには、実は相手に資格要件が求められたりすることがあるのです。人の悩みや苦しみ、問題には程度があります。種類があります。わかりあえない、吐き出せない、受け止められない相手というのがあります。もし、話をしたとしても、表面的なやりとりしかできないというか、「この人には通じない」という思いを感じることだってあります。そういったときにも人は寂しさを感じます。知的水準が高い、興味関心が高い位置にあるという人が、そうじゃない人の輪の中に入っていったとしても、孤独感を感じることがあるでしょう。
寂しいというのは、厄介な問題です。
彼氏彼女がいれば良いという問題ではありません。むしろ、彼氏彼女がいることによって、寂しさが加速する人もいるのです。この感覚は難しいと思います。彼氏がいる、彼女がいる、配偶者がいるということでドヤ顔してしている人のパートナーが実は強烈な寂しさを抱えていたりすることはよくあることです。
私はパートナーがいますから寂しくないです
と言っている人のパートナーが強烈に寂しい思いをしているのは、そのパートナーが寂しさの処理をしてあげて、相手は物理的にも精神的にも「一人じゃない」という思いを持ってルンルンで生きていますが、その処理してあげた人は高度な知性や品格、性格によってクッションになってあげたわけであって、一人ではものすごく寂しい思いを抱えていたりする。
この原理で、内閣総理大臣や大統領なども寂しさを抱えていることがあると聞きます。孤高、というものでしょうか。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。