教養がない人間は個性を作り出そうとするんだよね。
教養がある人間が考える個性とは全く違う。
ヒトラーの電動ノコギリ(グロスフスMG42機関銃)で教養がない人間の「個性」を撃ち殺してやりたいね。
これは結構大事なポイント。
そもそも、同じ言葉でも意味するものが違う。
自分勝手な芸術にある自己表現。そしてそのロシアンルーレット性。
それじゃあ、生き残れないよ。芸術のデリンジャー現象。通信を乱してしまう。
小林秀雄も、岡潔も、その類の人間を酷評したね。
小林秀雄は、「感想を語るな、物を見ろ」と言った。
岡潔は、「情緒がわからない人間は、何を学んでもダメだ」と言った。
つまり、彼らに共通していたのは、「見る」という態度だ。
自己表現ではなく、対象への真摯な注視。
自分の中から何かをひねり出す前に、世界をよく見る。人をよく見る。
そういう感性を持て、と。
教養というのは、そうやって世界を“見る”能力と深く結びついている。
逆に言えば、教養がない人間というのは、自分しか見ていない。
「私はこう思う」「私はこう感じる」――そういう“私”にしがみつきすぎている。
だから、教養のない人間の「個性」は、ノイズになる。
誰にも届かない電波。歪んだ自己投影。
現代アートやSNSを見ていればよくわかる。
評価がバズで決まり、内容が空疎で、他人に届くどころか、
「誰かに見てほしい」という欲求だけが肥大化していく。
それは、芸術ではない。ましてや、個性でもない。
単なる未熟な欲求だ。
“声がでかいだけの凡庸”――そう言い換えてもいい。
本当の個性とは、むしろ教養によって磨かれたものだ。
千利休の「わび」も、岡倉天心の「茶の本」もそう。
知識の累積と、厳しい省察と、対象への沈黙の凝視の果てに、
ようやくにじみ出てくる「静かな狂気」――それが個性になる。
つまり、個性とは出そうとするものではなく、
消そうとしてもなお滲み出てしまう“におい”なのだ。
この違いは、決定的だ。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。