世界中に友達というか、知り合いというか、そういうのができると、ある程度浅い関係で終わった人とかが2年ぶりとか3年ぶりぐらいに連絡してくると、全く覚えてない。
エッチしても覚えてなかったりする。
ひどくなると、同窓生すらも忘れる。記憶というのは相対的なもので、コンピュータと同じくキャパシティには限界がある。あまりにも出来事が多く、それがワンパターンでないなら自分の記憶力の悪さにびっくりすることが誰にでもくると思う。
私は、びっくりするほど覚えていない。自分のことすら覚えてない。
よく言うdéjà vu(デジャブ)ってやつは、経験豊富な人が、経験豊富な脳内ビッグデータゆえに、未知であるはずの光景を前にして、既視感のようなものを感じる現象だと思う。
企業経営の世界で、一人の上司が持てる部下は10名がマックス、みたいな話を昔、企業研修で聞かされたことがあるけれども、管理できる人数がそれであるなら、単なる交友だとどのスケールになるだろうか。
カラテカ入江の友達5000人は普通に考えて、もうどこの誰と繋がってるのかわからないレベルだよね。だからあの事件が起こったのだけれど。
逆に言えば、少し深掘りしていくだけで、関係は構築できる。
学生時代と社会人時代の決定的な違いは、いつまでも学生マインドの人は、「嫌われただろうか?」「好かれてるだろうか?」「なぜうまくコミュニケーションが取れないのだろう」などと色々悩んでいたりするけれど、そもそも社会人は
- 気づいてない
- 覚えてない
のレベルの世界である。
アットホームな小規模の会社で働き、地元の友人と交流して、だいたい同じような人脈の中で生きていくのをマイルドヤンキースタイルと呼ぶ。でも、グローバルレベルで交流して、あちこち動いている人もいるのだから、そもそも「覚えてない」のレベルである。
どっかのビジネス書作家が、クリエイティブクラスは移動距離が長くなり、交友関係も広くなる一方で、凄まじくローカルでnarrowな世界に生きる人も生まれてくると言っていたけれども、本当だと思う。
マジで、人によっては平気で3年、5年、10年、全く変わってない。
とりあえず、風俗とかキャバクラに行って、「覚えてる/覚えてない」のやりとりとかをやると、色々と視野は広がると思う。風俗嬢は一日5人相手してたとしたら、週4出勤で1ヶ月80人とセックスしてる。1年だと960人とセックスしてる。
このある意味、殺伐とした人間関係の感じを味わうのにもってこいなのが東京だと思う。
東京にいると、本当に、腐る程人がいて、やろうと思えばいろんな人と交流できる。その交流スタイルは、ローカルスタイルのものとは違う。この絶妙なサバサバ感が、しっくりくる人もいると思う。逆に、田舎のベタベタスタイルが好きな人もいると思う。
世界は広くて、70億人もの人がいるし、海外になんか出てしまうと、本当に凄まじいスケールで人と交流することになる。
東京にいると、ある意味で、そのカオスな感じが心地よく感じられたりすることはあると思う。
生きることが辛い人たちを見ていると、マイルドヤンキー的な傾向があると思う。もっと、心の中がカオスになるレベルでアクティブになると、そもそも悩まなくなるからオススメだ。悩むというより、そもそも、覚えられなくなる。キャパがいっぱいいっぱいになりながら、常に更新される感じだ。
ある意味、悩みが多い・深いというのは危険信号なのである。引きずっていることに関してもそうだ。ずっと同じルーチン・変化なしで生きている可能性が高いから。
Mr.six sigma
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。