無能のまま「美味しい思い」ができる話は一生信じない。金融と人工透析。

本来、「報酬」なるものは、有能な人間がそれなりに大きな貢献をして得られるもの。金を得られるのも、美女を抱けるのも貢献の対価。例えばセックスなら、「笑わせてくれたから」とか「ドキドキさせてくれたから」とか「むしゃくしゃしててそれを忘れさせてくれたから」とか「優しくしてくれたから」とかいろんなパターンもある。金もそうで、「空腹を満たしてくれたから」とか「ワクワクさせてくれたから」とか「暇を潰してくれたから」とか「学ばせてくれたから」とかいろんなパターンがある。

「無能な人間」のまま「大した貢献をせずに」何かが得られる、という話が世の中に蔓延するようになった。それっていつからだろう。金融業の肥大と比例しているように思う。投機系かな。まぁ、そんなものは大昔からあるし、ギャンブル利権を国がガッツリ押さえていることなんかからも、この世の闇が見えたりするんだけどね。個人的に、書店に並ぶ、運用で金を増やそう系には違和感を覚える。お金の教科書とか、お金の増やしかたとか、ああいうのは全部、価値無しだと思う。あんなもので本質的な解決にはならない。絶対ならない。あの類に労力を投じるのは本当に無駄だと思うし、FXとか言語道断だと思う。

証券業とか、ぶっちゃけ、闇を感じる人も少なくないだろう。場合によっては銀行に対しても闇を感じる人もいる。何で、大企業とか国とかが、ああいうのに思いっきり関与して、「いかにも」な雰囲気を出しているのだろうか。エリートの職場になっているのか。実は、金融業には大きな社会的役割がある。それが、「金を回す」ということ。この役割は、実は無視できない。単純な財(=需要物)と金の交換(原始的な経済の最小モデル)が行き詰まってくると、金を回す人間たちの役割が重要になってくる。フォワードが点を決められなくなってきたら、ミッドフィルダーのパス回しやゲームコントロール、FKが重要になってくるかのよう。

金を使わなくなった人間たちに対して、国家権力を用いた強制的な収奪を除けば、使わせる方法は景気刺激策とか増税、新設の税とかになるけれど、効果は大して無い。むしろ逆効果になることもある。消費が減ることもある。そして、世の中に面白い作品、商品、サービスも出てこないとしよう。新しいテクノロジーも出てこない、大ブームも大ヒットも出てこないとしよう。そして、消費が活性化しなくなるとしよう。

すると、ギャンブル性のあるもの、酒、女(水商売、セックスワーク系)が存在感を増してくるなんてのはよくある話。特に、何らかの金融的なメカニズムを持つ何かが台頭してくる。金を回す新たなエンジンやポンプに注目が集まるようになる。それは、まるで人工透析のよう。

世の中が成熟して、基本的な需要が満たされていき、いろんなものがコモディティ化して行って、人々が金を回さなくなるとどうなるか。経済は停滞する。すると、政治家は景気刺激策を色々採用するんだけれど、まぁ、あんまり意味がない。そして、物が売れない。革新的なサービスや商品が売れない。世の中の人が金を使わないということは、才能が殺される、産業が破壊される。例えば世の中の人間が漫画に金を使わなくなったら将来の天才漫画家を殺すことになるし、ゲームに金を使わなくなったら将来の天才ゲームクリエイターを殺すことになる。もちろん、天才は死にかけたその商品カテゴリーを復興させるレベルの何かを起こすからこそ天才なのだが、ワンピの尾田氏、NARUTOの岸本氏がドラゴンボールの鳥山明に憧れてその道を志したように、あるいは本田圭佑が小学生の時からサッカーで億万長者になることを考えていたように、「憧れるの対象としての人や金」というのは、次なる才能の発掘に繋がっている。物事は連鎖している。

今なら、才能ある子供がyoutubeに向かうのだろうか。

経済が停滞すると、だいたいいつもおきまりのパターンとして、金融的メカニズムを持った何かが流行りだす。それを仕掛ける人間が現れ出す。そして、仕掛け人として潤った人間は、新たにリッチになった金持ち界のニューカマーであるからお金を当然のように使うようになる。ガンガンお金を使い出す。すると、世の中でまたお金が回るようになる。・・・・・・・面白い。そういう意味で、経済はよくできていると思う。結局、世の中で面白い商品やサービスが現れず、金回りが悪くなれば金融的なモノが人気を集め出す。ちょうど、火山が噴火のエネルギーをためていたようなタイミングで、何か新しい賭け事の対象が出てくるとブワーッと爆発する。

そういう世の構造を考えたとき。

無能のままで美味しい想いができるということを考えていると、損をするだろう。世の中では、定期的に「無能なままでも美味しい想いができる」という話が人気を集める。あるいはそのブームに乗った人が注目を浴びるようになる。このサイクルは常にある。いつもある。残念ながら、マジョリティにとっては「無能なまま、怠惰なまま、貢献せず、楽して、容易に稼ぐ」というのが強烈なベネフィットであるのは今も昔も変わらない。ずっとそれは変わらない。そして、時と場合によっては、そういったものは金融業の本質的な社会的使命を担ってしまう皮肉な側面があるので、完全に社会からフェードアウトさせられることはない。国家権力が本腰を入れて根絶やしにすることはない。宝くじやっている運営母体がそんなことするわけない。そもそも、そうやって何らかの形で新しい「金の回し方」を(必要に駆られて?)誕生させるところが自由市場経済の凄さであり、ここにやたら政府が介入することは現代資本主義の根幹を破壊する。

生産できない人間は本当にできない。生産性が悪い人間は本当に悪い。生産する意欲がない人間はずっと意欲がないままだ。改善しようともしない。ただでさえ低い生産能力で稼いだ金の効果的な使い道を知らずただ貯め込む。こんな人間は常に大量に存在していて、時と場合によってこれらが一大勢力になることがある。時代により、彼らが特にプレゼンスを増すタイミングがある。金融が儲かるルーツは辿るとそこも大きな一因である。利益率が高いという事業構造もあるが、そもそも論として動く金が大きい(マーケットがでかい)からであって、それは見方を変えればどれだけの人間が生産できないか、生産性が悪いか、金の使い道がわからないか、消費しないか、ということである。もちろん、そういう人たちは、昔からどの時代においてもずーーーっと存在していて相当数いるし、年代別に見れば一定年齢以上の高齢者にはその割合が多い。日本のように労働市場が硬直した経済で、少子高齢化が進む問題はそこにある。年寄りが新たに企業組織にエンターできないので、新たなキャリアコースを描く経験を得ることは難しいだろうし、リスクをとって何かしらの事業を立ち上げることもないだろう。コンサバなのは当たり前。年寄りになってあらゆる条件が悪くなった状態で高付加価値生産、大量生産ができる能力やポジションがある人も多くない。今後、生産性の悪い世代が膨れ上がっていく。

だから、今後はシルバーマーケット向けに、何かを売るか、それとも何かのギャンブル的なものに熱狂させるか、あるいは生産させるかというメカニズムが働くはずである。

世の中が行き詰まりの空気で窒息死しそうな雰囲気になることがある。そんな人間たちが握っているマネーは循環させる必要があるし、そのマネーの持ち主である彼らも「そういう意識」のままでありながら、「お金もっと欲しい」「老後どうしよう」「お金増えないかな」という矛盾する考えで頭はいっぱいだ。書店にある「お金の増やし方」のようなものを、お金の代わりに自らが差し出す対価のことなど一切考えず、動物反射的に手に取ってしまう。「お金を増やす〜」「年収●●〜」「老後困らない〜」というフレーズにフックされて。自己保身、自己保身。貢献や自己向上、修練の意識は皆無だ。生産の意識は皆無。

金融屋が稼ぐのは、いわば、そういう人間心理の淡くも脆い点(現実)と、社会のメカニズム(現実)をわかっているからだ。その2点を上手に結びつけている。893が性風俗界で上手に商売するのとも似てる。ある種、変化球的だが立派に社会性があるのである。変化球的な三方良しだ。金には黄金ルールがある。動かない金は悪、金を動かさない人間は悪だ。そして金は動いて初めて意味を持つ。通貨を意味するcurrencyは流通、流行の意味も持つ。流れることで意味があるのである。金は血液であって、循環させないのは言語道断。新しい血液が入ってこないことも、古い血液を流さないことも、必ず問題を起こす。金融屋と投資家という人種は、いわば社会の金回りがそうやって「人工透析」に向いた瞬間に、その大きな流れに乗ることがうまいのである。枝葉末節に勝因を見出して自分の勝利の原因を勘違いしドヤ顔で枝葉末節のテクニカルな部分でセミナー開いている人は気付かないけど、基本的にキャピタルゲインで金を増やすというのは金の流れに乗るということであり、それは大きなお金の動きを見ること。ひどい場合には「バカでも儲かる相場」というのがあるのだ。それを賭けてる側の視点からは、アセットアロケーションと言ったりする。どちらにせよ、キャピタルゲインを狙っている人間も、それに携わる業務も虚業である。ここで言う虚業という言葉に、優劣的な意味合いとか、倫理的是非を問いかける意図はない。人工透析的なものを虚業と言っているだけ。実業と虚業のうち、虚業の社会的役割が大きくなって、虚業に勢いがついている時には金融屋や投資家の界隈からスターが出てくる。大きなトレンドの中で、枝葉末節のテクニック論を熱弁し、「自分は投資家としての技量があるから儲かったんだ」と言っているタイプやテクニカル分析などを熱弁するタイプは、まぁ、アレである。勘違いである。もちろん、その流れが今度は虚業ではなく実業に流れ込んだ時に、投資家はフィルタリングをかけられることになる(というのはなぜなら、その先では経済や社会、事業などについての理解が求められるからである)。虚業と実業のどっちに大きなマネーが流れ込んでいるかというトレンドであったり、特定のカテゴリーが盛り上がるいわゆるバブルというのはひどい場合3年、6年、10年と続くこともある。6年と言えばランドセルを背負って小学校に入学した可愛い幼子が、立派にちん毛を生やしてエロ本を部屋に仕込み始めるようになるまでの長い時間だ。そんな時間、一定のトレンドが続けば誰だってそこに根を下ろすし習慣を作るだろう。

そもそも、私から言わせれば投資家は2通りある。1つ目が今言ったようなタイプ。2つ目は生産に結びついているタイプである。本来的には後者が本流である。折れ線グラフや数字を見て、いくら投資すれば何%儲かりますよ的な話は前者の人間たち。パソコンぴこぴこ、スマホぴこぴこしてチャートを眺めたりするのは前者である。ここは怪しく、アングラ末端は詐欺も多い。なぜなら、本流であればもっと生産くさい話になるからである。看板がいくら、あのメディアのあの時間帯に広告を出すのにいくら、土地代がいくら、このメーカーのこの機械を導入するのにいくら、このツールが月間いくら、サーバー代がいくら、・・・・というように。つまり、実業に結びついている。生産に結びついている。忘れてはいけないが、私たちが住む部屋も、使う道路も、今朝行った吉野家も、いつも使う電車も、読んだ本も、使ったアプリも、誰かが投資して作ったものであり、それが本流である。本流の投資家の世界である。世界は資源、生産、デリバティブの三層レイヤーになっていて、デリバティブ領域全体は基本的に虚業であり、その中における特定カテゴリーに資金流入トレンドが起こっているとき、個人レベルでも成功者がポツポツ出て来る。例えばそれがそこそこのスパンであった場合は、そこに根ざすことを職業名として名乗るものが出てきても全くおかしくはない。ただしネズミ講性とdebt性、「買ったら売り抜けないといけない」「売ったら買い戻さないといけない」という原理があるから、限界は必ず来る。イノベーション、特に技術的イノベーションが無いと持続可能な上昇は描けない。最近流行りの人工知能運用のようなものは、マーケット全体で見たときにあちこちに散財した非効率な投機マネーの動きを一元的に集め、効率運用する技術イノベーションによって、多くの人間たちに果実を分配した形だと思う。すなわち、無人島で40人がバトルロワイヤルをして1人しか勝てないところを、40人のうちの10人がチームを組んで生き残ることに成功するというような形。大きく増えはしないがそこそこの運用成果を提供するものであると思う。その反面、そこに巣食っていた大勝ち組はもしかしたら減ったかもしれない。

デリバティブ界隈でのお金の流れや動きというものに賭け続けることは、別に悪いことでもなんでも無いし、実際にビジネスとして金融街に存在してはいる。「世の中の金を動かす」という本来の役割の上でさらに派生的に、金を動かす(盛り上げる)ことに一役買っている人たちがたくさんいて、それがプロの職として成立している。デリバティブのデリバティブである。一般用語として、デリバティブは株や為替、金利などの原証券や通貨売買の在来の取引手法から「派生した新しい金融商品」を指すが、デリバティブ(=derivative)というのは英語で派生物を意味し、本質的には株・為替・金利や、広い意味では通貨まで「デリバティブ」と呼ぶことができる。小学生は原始的な経済モデル、例えばお花屋さんや本屋さんなど、わかりやすい商品とお金の交換モデルは簡単に理解できるであろうが、そんな彼らが理解できない産業は大体、私の言うデリバティブ産業である。

何を持ってスキルというかはわからないが、一般的に、スキルとは資源または生産ジャンルに根ざすもので生産や生産性向上に直接的または間接的に貢献し得るものを呼ぶのが元来のあり方。それを野球のプレーヤーたちの投球スキル、走塁スキル、打球スキルとするならば、そのスタジアムがテレビ中継されているBARで勝敗について、賭けをやっているのがデリバティブな生き方・働き方である。もちろん、ここにドップリ浸ってスキルにする人もいるし、そのBAR経営自体が仕事になってる人間もいるというのがややこしいところではある。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。