スマートフォンに入っている画像フォルダを漁っていると、本当に昔の写真が出てきた。そこには、当時の自分が何に興味を持ち、何をやっていたかの微かな残り香がある。
今の自分と何が違うのだろう、と考えた時、やっぱり昔はちょっと、Dreamyで、Sweatyだったんじゃないかと思う。いや、違う。うまく言葉が当てはまらない。なんというか、とにかく、何もしていない。今の自分から見ると、何もしていない。そう感じられる雰囲気が漂っていた。一体、何が違うのだろう。
決定的な違いとして感じられたのは、やっぱり、時間に対する感覚だったのでは無いかと思う。今の時間は物凄く早く過ぎるし、物の捉え方がロングタームだ。それに比べて、昔はもっと、刻一刻とした時間を生きていた感じがする。そして、そのときの思い出は濃密で濃い。
時間には2種類あるのではないかと思ってしまう。たとえば会社でプレゼンをする。パワポで資料を作る。そこに1時間かかったとしても、実際のプレゼンは10分で終わったりする。1時間かかったものが10分で消費されたりする。
最たるものは映画だ。
映画は2時間で観終わるけど、2時間で作られたわけじゃない。そんな話聞いたことない。
人生も同じことで、鑑賞者として生きているとき、多分、たくさんのものを見ることができるけど、実演者として生きる中ではひたすらに何かをやらないといけない。多分、今感じている昔との差は、この感覚の差なのでは無いかと思う。もちろん、今、手を休めて、何もせずに鑑賞に浸っても良いかもしれない。でもそうすると、漠然とした不安に駆られてしまう。その不安はおそらく、鑑賞者の感覚に戻ってしまう不安。鑑賞者としての人生にはもう飽き飽きしたはずの自分が、そうやって、遠ざける。
でも、そうすると思うのは、少しつまらないってことだ。やっぱり、消費している方が楽しい。いや、楽しいというより、楽な気分でいられる。産みの苦しみは苦しい。世界に対して、受動的で、身を任せている方が心地よい。安らぎを感じるというのだろうか。アドレナリンが出るような場面と、安らず場面では自ずと感じるものが違うけど、そんな感じだ。
人生は、走っている限りはあっという間だ。
人によるけれど、生活に必要なコストは年々上昇していく傾向にあるだろう。小学生より高校生が、高校生より20代が、20代より50代が必要なお金は膨らんでいるはず。そう考えたとき、若いときの暮らし方の感覚は、甘い傾向にある。特に親元にいるときはそうだ。言わば、本来なら有り得ない感覚に浸っているのが、子供の頃だ。そのときの感覚を羨望するようでは、生きていけない。つまり、捨てないといけない。
子供の頃へのノスタルジーは捨てなければならない。親がくれた愛は忘れなければならない。
いわば、『普通』を書き換えていかなければならないのだ。そして、その中で幸せを探していかなければならない。きっと、また10年後には、『あの頃は幸せだった』と今を羨望することになるだろう。別にこれは後悔の類ではなく、鷹揚な暮らしの中でふと思う単なる『あんなこといいな、できたらいいな』というものである。それが夢。でも、渦中の時にはそれほど良かったか。否だ。
夢は見るものではなく叶えるもの、というのは、過去に浸るのではなく、今生きろよ、ということなのかもしれない。
それにしても、今を生きるにしても、どうも、未来を生きているような気がしてしまう。今を楽しむことがどうやら下手なようだ。流れに身を任せる、というような生き方は荒廃的に感じられてしまう。
ユダヤ人が1週間のうち、1日くらいは何もしない時間を作りなさいと言っていたのは、今を生きるためかもしれない。仕事は割と未来のためにやっているとのだから、空白を開けないと、人は今を楽しめなくなる。まあ、今なんてぶん投げて未来にロングパスをしないといけない時期もあるけどね。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。