自由と平等は両立しない

昔、THE庶民だったとき(今も庶民ですけど)、こんなことを漠然と思ったことがあります。

年収1億、10億、100億っているのか。世の中には強欲な金持ちがいるものだ。彼らのお金を、庶民に再分配すればみんながハッピーになれるはずなのに・・・・。

今思えば、昔の私は心が優しかったな、と思います。

 

このテーマには、重大な概念的議論を見出すことができます。つまり、「自由と平等の両立」です。先に結論から言ってしまえば、自由と平等は両立できません。

世の中で自由を担保すればするほど、平等は失われていくのです。

これが現実です。

 

資本主義社会においては、競争が常につきまといます。そして、誰かが勝てば誰かが負けるという構図があります。例えば、Amazonのせいで書店は潰れまくっているし、スティーブ・ジョブズのせいで日本の大手メーカーの携帯事業はやられまくりました。

しかし、この勝利のおかげで世の中には新しいサービスや商品が供給されるし、それと同時に新しい雇用が生み出されたりします。周辺産業も生まれます。

 

市場原理、自由競争を認めれば認めるほど、勝者・敗者が生まれ、不平等も生じて来るのです。金持ちと貧乏が生まれてくるのも当然です。また、そうやって世の中がいびつなピラミッドになるから、下の人たちは上を目指して頑張るワケです。それが経済の動力源にもなっている。競争と成長があるから、資本主義は発展している。

共産主義の崩壊の歴史と照らし合わせればよくわかるのではないでしょうか。

 

機会の不平等は是正されなければなりません。

しかし、結果の不平等なんてどうでもいいんですね。というか無理な話です。結果が不平等であるということは、それだけ自由な社会が担保されているということです。

それだけ、自由競争だってこと。

というか、人間社会に平等を求めるのが無理な話で、民間の間で平等性を担保するために、国家権力に再分配の権利を持たせれば持たせるほど、今度は国家権力が肥大して腐敗することを歴史が証明してしまいました。

 

でもねー、日本では結構、うまいことバランス取れていると思いますよ。

だって、稼いでも稼いでも税金取られるからね。

 

稼ぎに対する「率」としては、高額所得者からのお金の回収ぶりは半端ではないです。大きなお金を稼ぐ人たちは、その入りを創造するために出て行くお金は大きいし、あらゆるリスクを背負っています。にもかかわらず、国家はそう言った事情を考慮せずに横暴なまでの定規杓子ぶりで、稼いでいる人間から金を取っていくものです。

 

大学生年代の時、法学の学習にちょっとだけ身を捧げたのは、そういった哲学的な問いに対し、一定の思考の補助線を得るという意味で、非常に有意義でした。法はある意味、社会的価値観と倫理に根付いているものです。そして、歴史的には哲学との関係も深い。だから、世の中に対して思う漠然とした悩みや不思議に対して、法学は一定の思考の補助線をくれるものです。

 

ロバートキヨサキが「法律と会計と市場と投資がファイナンシャルリテラシーだ」って教えてくれて、それを愚直に受け取り、勉強した若かりし頃の私を褒めてあげたい。学生時代の勉強は有意義でした。

 

歴史的に、人間社会には「支配者」「権力者」というのが存在したんですね。それはのちに国家と呼ばれるようになった。国家はむちゃくちゃだった。そのうち、市民は自由を求めるようになった。

これは「国家からの自由」と呼ばれました。

しかし、一市民が「国家からの自由」を手にし、支配者や権力者からパワーの移行が一市民レベルへと行われると、今度は一市民の間で競い合いが生じ、そのうち、絶大なパワーや資本力を持つ「民間人・民間組織」が生まれるようになった。そして、とんでもない格差が生まれた。庶民階級は、もっと虐げられるようになったらしいです。うろ覚えでしたが、そんな感じだったと思います。

民間人にパワーを持たせると、その競争で勝てない最下層はもっと最悪なことになったワケですね。

まぁ、今の社会もだいたいおんなじ感じですよね。公務員世界の一番キツイ最下層階層にいる人と、民間世界の一番キツイ最下層階層にいる人、どっちが辛い思いしているかって言ったら多分、民間なんですよね。いつの時代も、民間の最底辺では、結構ひどい待遇が存在するものです。

 

あ、歴史の話に戻りますけど、公的な存在、国家に権力があったのが、それが民間にパワーシフトすると、今度は民間レベルでの競争により、そこで最底辺に虐げられた人間たちがひどい扱いを受けるようになったワケです。国家や王のような絶対権力者が横暴なまでの支配をふるっている方が、実は意外とマシだったっていう話ですね。

そこで、今度は大衆が「国家による自由」を求めるという矛盾に走ったワケです。

 

ものすごいわかりやすく例えると、

警察に反発して粋がっていたヤンキーが、

何か危ない目に遭った時に警察に泣きつくような構図でしょうか。

(西園寺の昔の友達、これやってた)

 

あるいは、

めちゃめちゃこわくて厳しい先生が揃う学校から、

先生たちが消えて生徒たちが自主的運営をはじめると、

先輩たちが後輩をいじめまくるようになるようなものでしょうか。

(どんなに怖い先生でも、いてくれるだけありがたいんですよね・・・先輩ほど無茶苦茶な存在はないですからね・・・)

 

あるいは、

親に反発して親から離別をしていった子供が、

家を出て行って社会で一人では通用せず、親に泣きつくような構図でしょうか。

(みんな、大人になって親のありがたさに気付きますね・・・)

 

親と子の関係で例えるとわかりやすいですね。親元にいると、不自由さを嘆く人は多いです。親からの刷り込み、強制、叱責などに反発する人も多いです。

しかし、いざ親の庇護から脱すると、はじめていろんなことに気付く・・・・というやつね。

会社を辞めた凄腕営業マンが、「●●会社 営業部 主任」みたいな名刺を失った瞬間、自営では全くモノが売れなくなる・・・みたいなものと似ていますね(こーゆー人、世の中の怪しいビジネスの詐欺的な営業手法を批判しまくったのに、いざ自分が実際に独立すると、全く売れず、焦りから詐欺的な営業手法を実践して、それでも全く売れないことに気づいて、いきなり詐欺師をリスペクトし始める人多いですよね・・・・)

 

国家から解放されたい、

国家からの自由が欲しい。

 

人々は、歴史的に、支配者からの解放を求めました。

しかしそれがいつの間に、「国家によって」自由を確保してほしい、担保してほしいという構図になっていったという歴史的ルーツがあります。

 

自由を求めて会社を辞めた人間が、外の世界であまりにも不自由になってしまい、「自由」を求めて再就職するようなもの。

国家(絶対的な力)から自由になりたかったのに、国家(元絶対的な力)によって自由にして欲しい、と人々は泣きつくようになった。

そんな感じのことを法学から、昔、学びました。

 

その時、私は人間社会の真実を見たような気がしました。

真実を知ったような気がした。

 

人は、複数人以上集まると、そこで何かしらの社会を形成し、そしていつの間にか序列意識や支配関係、敵対関係などが生まれるものです。

そして、そこではどうしても不平等さが生じる。

いや、不平等さが拡大する。

 

なぜなら、人は自由を求めるからです。

そして、自由と平等は両立しないのです。

 

近代の人間の歴史というのは、

「自由」という概念を大事にしてますよね、どこも。

 

みんなに不自由を強いれば、平等は達成されますよ。

(ただ、みんなに不自由を強いる権力者が調子に乗って自由を謳歌しますけど。学校社会の中における学校の先生みたいなポジションね。)

 

でも、みんな自由を求める。

そうしたら、不平等になるんです。

結果の平等なんて無理なんです。

 

だから、今の「国家(権力者)」の役割は、

基本的には自分たちの権力を抑えて、

民間人・市民に自由に行動や統治をさせつつも、

そこで生じてくる不平等の解消のために、

強者の頭を押さえ込み、弱者に対して救済の手を差し伸べて引き上げる。

 

そういう役回りをやっています。

 

わかりやすい例として、高所所得者はガッツリ税金取られまくっているわけですね。

 

世の中で「平等平等」言われるのは、真実が不平等であるからでしょうね。

「差別、偏見を無くそう!」と言われるのは、真実が差別・偏見に満ちた世の中であるからでしょうね。

 

共産主義の崩壊と資本主義の成功であったり、上記したような歴史的な物語を知れば知るほど、落胆させられることは多い。人間とは悲しい。人間とは恐ろしい。社会とは難しい。

でも、学生時代を思い出せば、わかるもんです。

どんな学校社会でも、リーダー格やボス猿のような人間が現れます。群れや仲間意識ができる。序列ができる。敵対が生まれる。そこに異性からのモテなどが関わってくる。スクールカーストが生まれる。いじめが生まれる。

(西園寺はスクールカーストで登りつめた経験は皆無です)

 

動物園で猿を観察すると、猿社会にも色々あるんだと思わされますが、実際のところは人間社会も変わらないもんです。大人になると、みんな、人目を意識したり、倫理や常識を意識し始めるから一見マイルドになりますが、そういったものが出てこない学生時代・学校社会を見ているととてもわかりやすい。

幼稚園児でも、おもちゃ奪い合ったり、派閥組み始めたり、争い合ったりしてますからね。

人間社会の縮図がそこにある。

 

この世界で、

価値があるとされているものは

すべて一部に集中します。

 

これは、私たちの普段の行動を振り返れば、悲しいほどに一発で実感できます。

 

スマホを買うとき、Iphoneに飛びついてませんか。

パソコンを買うとき、apple製品に飛びついてませんか。

外でコーヒー飲むとき、スタバにばかり行っていませんか。

日用品の買い物は、ほとんどamazonで済ませていませんか。

登山といえば、富士山って感じになってませんか

 

そのコインの裏側に、超絶リッチな人たちがいるのです。

No.1に群がるのです。

 

自分たちの行動を見れば、世の中に不平等が存在する理由、超絶格差が生じる理由は一発でわかるでしょう。

 

私は、人生の正しい攻略法は、

学生時代の部活から学べると思います。

 

自分のポジションで競争に勝てないのなら、ポジションを移るのです。

それが無理なら、学校を映る、それが無理なのなら参加しているゲーム自体を変える。

 

どんな世界でも、勝ち組の席は限られていますが、

顔をあげて周りを見渡せば、どこかに自分が座れる席があるはずなのです。

 

結果の平等なんて存在しないのだから、

私たちは大いに競うしかありません。

 

ただ、競うゲームや競う場所、競い方などは選べるはずなのです。

 

今、あれらしいですね。

学校の徒競走で「みんなでゴールしようね!」とかあるらしいですね。あとはモンスターペアレントが、学校でやる劇とかについて「なんでうちの子が主役級じゃないの!」みたいなね。もう、末期、末期。コワイコワイ。そうやってクレームつけている親が恋愛市場で位を意識しながら今の旦那を選んできたり、あるいはそういうお花畑な運動会を主催している学校の先生が校長という権威に媚びてヘコヘコしてたりするはずなのに。

人間社会には差が生じて当然。

上下があって当然。

 

しゃーないですね。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。