「もう俺の人生このままなのかな・・・・・・・」
「このままつまらない人生を過ごすのかな・・・・・」
「このままでいて良いのかな・・・・」
「将来が不安になってきた・・・・」
「人生を変えたい・・・・」
「大逆転できるものならしてみたい・・・・」
そんな悩みをお持ちですか?
20代で人生は決まるのか?
ハタチは強烈に焦る。自分の将来がひどく大事だからだ。
22歳は激烈に焦る。人の将来が決まっていくように見え、周りが道を決め出すからだ。
24歳は異常に焦る。人の社会的ステータスが決まってくるからだ。
26歳は若干諦める。いわゆる「late 20s」になってしまうからだ。
28歳はほぼ諦める。いわゆる「arround 30」になってしまうからだ。
・・・・・そして30歳になる。
もしかしたら、15歳からすでに焦る人もいるかもしれない。もう中学が終わってしまう、もう高校が始まってしまう、もう大学が始まってしまう・・・・。
高校受験で人生が決まってしまうように感じ、そして大学受験で人生が決まってしまうようにも感じてしまう。
18歳の時点で人の人生のシナリオはほぼ確定しているように見えるかもしれない。
性欲の交差点、男女の交差点
男女の性欲は、30代で立場が入れ替わるするという。男性のピークが20代前半。そこから緩やかに低減するのに対して、女子は30代に向けて上がっていき、30代はぐんぐん「ヤリタイ」気持ちが増すという(本当かどうかは知らない、アラサーの股が緩いのは性欲の賜物なのか、経験値なのか知らない)。
この現象のごとく、
何も考えずに20代を遊びまくっていた人
が、30代に突入していい感じに仕事人間にシフトするかもしれない。そして、20代の大半を「将来を憂う」ことで埋め尽くし、意気消沈してしまった人間を追い越すかもしれない(この現象は十分に起こりうる)。
Look Up, 20s
「人生は20代で決まる」などとよく言われる。
決まる決まらないはとりあえずどうでも良いとして、Look Upしてみよう。
困った時ほど、遠いところを見なさい。ー孫正義
世界を見渡せば、「異常な20代」を送っている人間に溢れかえっている。
私も、困った時は思い切り遠くを見るようにしている。そうしないと、目の前の景色が変わらない。
世界一お金持ちで、イケメン
ビルゲイツ老けたなー。
世界一のお金持ちといえばビルゲイツだ。なんか、歳をとったけど、風貌が良い。カッコイイおじいちゃんだ。髪型がボサボサなのが良い。
若い頃のゲイツは、
- スピード違反の常習者
- クレイジー(女の子ばかりの授業に入れるように高校の授業スケジュールのプログラムをハッキングする、高校時代プログラミングのスキルを学ぶために大型のごみ収集箱に潜り込む)
だった。
捕まっちゃった♡(21歳)
Bill gates was arrested in New Mexico in 1977 for jumping a red light and driving a car without license!
なぜか記者の前で椅子を飛び越えるパフォーマンス。
↑ウマイwwwwwwww
さぁ、彼は20代の時、何をしていたのだろう?
Today, Microsoft co-founder Bill Gates is one of the world’s richest people, with a total net worth estimated at nearly $90 billion. But a little over four decades ago, Gates was a brash young software developer who was just getting ready to take center stage. In fact, it was this week in 1976 that a 20-year-old Gates was preparing to make a big speech — the opening remarks at the First Annual World Altair Computer Convention in Albuquerque, New Mexico. At the time, Gates was still technically a student at Harvard University, having taken a leave of absence after two years in school to form a computer software company with his high school friend, Paul Allen. That company, of course, would become Microsoft and Gates never finished his degree (though, he was granted an honorary one in 2007). ーhttps://www.cnbc.com/2018/03/29/what-microsoft-billionaire-bill-gates-was-doing-at-20-years-old.html
20歳のゲイツは、ハーバードの学生でありながら、ニューメキシコのアルテアコンピュータ・コンベンションにおけるスピーチの準備をしていた。
高校の同級生・ポールアレンと、マイクロソフトの前身となるビジネスを立ち上げていたゲイツ。大学に入って、すぐに学校を放棄して仕事にシフト。以来、ゲイツはハーバードを卒業していない。
これがゲイツの20歳。
あらあら。ハタチの頃から普通じゃないですね。もう少し見てみましょう。
Gates and Allen had worked together as computer programmers at software company Honeywell in the summer of 1974 following Gates’ freshman year at Harvard. That same year, the world’s first personal computer kit was released. The Micro Instrumentation and Telemetry Systems’ (MITS) Altair 8800 inspired Gates and Allen, and they started working on software for the computer. ーhttps://www.cnbc.com/2018/03/29/what-microsoft-billionaire-bill-gates-was-doing-at-20-years-old.html
ゲイツは、1974年にハーバードに入って、その年に世界初のパーソナルコンピュータであるアルテア8800がリリース。これがゲイツと相棒のポールアレンをインスパイアした。
そして、ゲイツは、コンピュータの「ソフトウェア」のために働こうと決心したわけです。
マイクロソフトは1975年に立ち上がります。ゲイツは55年生なのでハタチですね。そして、アルテア8800をリリースしたMITSという会社と仕事するために、ですね。
つまり、ゲイツの人生は18歳の時に、パソコンという新しいテクノロジーと出会ったことで動き出しているのです。
初期のゲイツは日本で儲けた
ゲイツはパーソナルコンピュータを販売する会社に、マイクロソフト製ソフトをバンドルする権利を売り、ロイヤリティを受けるという戦略をとります。
1979年には、売り上げの半分近くが日本からあがるようになります。1979年の日本といえば、「経済大国」だった時代ですね。
その時にゲイツとつながって儲けたのが西和彦氏です。
月刊アスキーの創業者です。昔、孫正義とバチバチやった人ですね。
ビルゲイツ、ポールアレンに次ぐ、マイクロソフト社の3番目の役員だったこともあります。
日本はパソコンでもケータイ(スマホ)でもアメリカにボコボコにやられてきた歴史があるのですよ!パソコン黎明期は日本の会社も色々頑張ってましたけどねぇ!
ちょっと、ゲイツ本人の弁も聞いてみましょうか?
これまでの20年間は、信じられないような冒険の日々だった。まだカレッジの2年生の頃、友人のポール・アレンとハーバード・スクウェアに立ち、「ポピュラー・エレクトロニクス」誌のマイコンキットの記事を読んだのがその冒険の始まりだ。ーp9
記者たちはマイクロプロセッサが汎用コンピュータに進化するとは思ってもいなかったのだ。ーp33
ちっぽけなチップがこれだけパワフルになりうるのなら、巨大で扱いにくいマシンに終わりが来ることは、私たちの目には一目瞭然だった。でも、コンピュータ・メーカーはマイクロプロセッサが脅威だとは考えていなかった。吹けば飛ぶようなチップが「本物の」コンピュータにとって変わるなど、想像もしていなかったのだ。ポールと私は、この新しいチップの先にあるものを夢見ていた。全ての人々にとって完璧な道具となる新しい種類のコンピューターパーソナルで手頃な価格の使いやすいマシンを。ーp36
ハードウェアの大部分は、日本の会社とIBMとが生産することになる可能性が高い。しかし私たちなら、革新的な新しいソフトウェアが開発できる。しかし私たちなら、革新的な新しいソフトウェアが開発できる。そうなってはいけない理由がどこにある?マイクロプロセッサは産業構造そのものを変革するはずだ。そしてそこには、私とポール、2人の居場所もあるかもしれない。ーp37
実は、この「ポピュラー・エレクトロニクス」をアメリカで読んで、衝撃を受けていた人間がいます。
孫正義ですね。
よく言ってますね。
アメリカで科学雑誌を読んで、マイクロチップに衝撃を受けた、と。
父親が血を吐き、母親が泣いて止める中、アメリカに行った孫さんが、アメリカで出会った転機がこれですね。
ゲイツとジョブズが1955年生まれ、孫正義は1957年生まれですから同世代のようなものです。
実は、孫正義とゲイツの人生は、根本の部分で少し似ています。衝撃的な、世の中を変えるテクノロジーとの出会いをきっかけに、人生が大きく動いているわけです。この時代の波に乗ろうと決意したことが大きかった。
孫正義は日本一、ビルゲイツはアメリカ一ですが、彼らが一代で成り上がれたのは世の中を大きく変える何かと出会えたのが大きかったでしょう。
ただし、この2人が違う点は、
- ゲイツはプログラマー
- 孫正義は違う(彼はコンピュータソフトウェアの流通業に手を出す)
という点です。
はじめてプログラムを書いたのは13歳の時だ。ーP14
- 1981年(昭和56年)9月3日 – 孫正義のユニソン・ワールドと明賀義輝の経営総合研究所の折半出資により日本ソフトバンク株式会社(現 ソフトバンクグループ株式会社、資本金:1000万円)を創立[5]、パーソナルコンピュータ用パッケージソフトの流通業を開始。設立から3カ月を過ぎた頃、孫正義が預託金3000万円のゲームソフト会社ハドソンとの独占販売契約を推し進めた為、経営総合研究所との資本関係を解消。
- 1982年(昭和57年)5月 – パソコン機種別の専門雑誌「Oh! PC」「Oh! MZ」を創刊し、出版事業に進出。
- 1983年(昭和58年) – 孫正義が重い慢性肝炎を患っていることが発覚し、病気療養のために孫は会長に一時退く。社長には、日本警備保障(現セコム)の副社長だった大森康彦を招聘。
- 1986年(昭和61年) – 孫正義が社長に復帰し、大森康彦は会長に就任。
- 1987年(昭和62年) – 株式会社日本データネット(孫正義出資会社)、フォーバルと共同でNCC-BOX(世界初のLCR)を開発[6]。フォーバルが全国の中小法人に無償配布し、新電電からのロイヤリティで莫大な利益を出す。この資金を基にソフトバンクは急速に成長していく。
ーwikipedia
破天荒な、「我らが偉大なる神」の彼は何をしていたのだろうか?笑
スティーブ・ジョブズは、ゲイツとは違って小さい頃からプログラミングなどしていない。機械いじりが得意だった父親の影響を受けて、エレクトロニクスには詳しかった方だけれど、18歳〜19歳あたりは散々自分探しをしている。
1972年の春、高校も卒業というとき、ジョブスはLSDを試し、麦畑がバッハの曲を奏でるという幻覚体験をし、それを素晴らしい体験であると感じた[17]。2013年の伝記映画『スティーブ・ジョブズ』にも、LSDを服用し麦畑で指揮者になるという場面が登場する[18]。後には、人生でトップクラスというほど重要な体験であると述べ、お金儲けではなく、歴史という流れ、人の意識という流れに、いろいろなものを戻すことを気づかせたとしている[17]。
1972年、オレゴン州のリード大学へ進学。大学時代のジョブズはユダヤ・キリスト教・イスラム教・アニミズム・太陽神・思想・坐禅・食事・ヒッピー文化に心酔し、裸足で校内を歩き、一時は風呂に入らない時期もあったという。また、かなりの音楽ファンであり、ビートルズやグレイトフル・デッドなどを聴きまくっていた。 映画「スティーブ・ジョブズ」では「ビートルズは嫌いじゃ無いけど連中はボブ・ディランとは違う」と発言。 ジョブズは大学に半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり、「両親が一生をかけて貯めた学費を、意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた」ために中退した。しかし中退後もリード大学のキャンパスを放浪し、コカ・コーラの空き瓶拾いや心理学科の電子装置修理で日銭を稼ぎながら、哲学やカリグラフィー(西洋書道)など、興味のあるクラスだけを聴講するもぐりの学生として過ごし、合計18ヶ月をリード大学に費やした。
導師を求めてインドまで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。1974年2月にジョブズは実家に戻り、その日のうちにアタリを訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップであるノーラン・ブッシュネルを引っ張り出した。ブッシュネルに気に入られたジョブズは、40人目の社員として採用され、時給5ドルのテクニシャン(下級エンジニア)として働くこととなった。入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、ビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにもかかわらず、技術部長のアラン・アルコーンなどの同僚の大半から「無礼者」と認識された。
ジョブズはアルコーンにインドまでの旅費の援助を頼み、ミュンヘンでのゲームの修理を旅費込みで命じられて、ドイツ経由でインドへ渡ることで旅費を安く済ませる目処を立てた。ジョブズは仕事を済ませた後一度退社し、友人のダン・コトケと共にインドにたどり着いたが、すぐに赤痢にかかって苦しむことになった上、放浪の末に想像とあまりにもかけ離れたインドの実態に失望した[19]。結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、曹洞宗の禅僧である鈴木俊隆を導師としてサンフランシスコで禅を学び[20]、瞑想やスタンフォード大学の授業聴講などをして自分探しを行った後、1975年初頭にアタリに復職する。
復職後の夏、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロックくずし#ブレイクアウト)の回路の部品減らしを命じられた。「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ(ブッシュネルはこれを予測していた)、ゲームをしたり勝手に基板を改造していたウォズニアックに対してその片手間に作業を頼んだ。ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20〜30個も減らしたが、あまりに窮屈で難解な設計は、ウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられ、その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニアックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。
ジョブズは報酬の山分けをウォズニアックに提案し、アタリから受け取った「700ドル」のうち350ドルを小切手でウォズニアックに渡したが、実際には5000ドルを受け取っており、差額をオレゴン州の共同農場につぎ込んでいた。1984年頃、ウォズニアックはアルコーンに偶然出会った際、ジョブズによる報酬搾取の事実を知り、ジョブズとウォズニアックとの間にしばらく確執が生じた。ともあれウォズニアックは、後述のApple IやIIを設計する際に「ブレイクアウト」の部品減らしが、大変役に立ったと語っている。なおアルコーンはアタリを退職後、アップルコンピュータにも勤めていた時期がある。ーwikipedia
食生活を変えてみたり、ヒッピー生活をしたり、インド放浪したり、ドラッグにハマったり・・・・。
LSD(ドラッグ)はすごい体験だった。人生でトップクラスというほど重要な体験だった。LSDを使うとコインには裏側がある、物事には別の見方があるとわかる。効果が切れた時、覚えてはいないんだけど、でもわかるんだ。おかげで、僕にとって重要なことが確認できた。金儲けではなくすごいものを作ること。自分に出来る限り、いろいろなものを歴史という流れに戻すこと、人の意識という流れに戻すこと。そうわかったのはLSDのおかげだ。ースティーブ・ジョブズ
スタンフォードスピーチでお馴染みのように、大学を辞めた後に授業に潜り込んでカリグラフィーなどに触れたりと、散々「フラフラ」をしていたのです。いわば、そうやって精神性の領域で彷徨っていたからこそ、ジョブズは後に、コンピュータの世界をユーザーフレンドリーにできた。いわば、サイエンスとアートの交差点に立てた。
ビルゲイツや孫正義が、純粋にテクノロジーに感銘を受けてその業界動向に乗ってビジネスすることを若い頃から考えていたのに対して、ジョブズはもっと人間的だった。
18ヶ月でリード大学を退学したジョブズは・・・・
18ヶ月でリード大学を退学したジョブズは、1974年(19歳)にロスアルトスの実家に戻って仕事を探します。その頃、仕事を探すのは難しくなかった。1970年代は求人が多かった。
そしてジョブズは、ビデオゲームメーカー、アタリの求人広告を目にして、ぐしゃぐしゃの髪と汚い格好で会社を訪問、「雇ってくれるまで帰らない」という異常な直訴をして入社。
会社は、警察を呼ぶかどうか迷ったそうです。笑
今振り返ると、リード大学中退の人間なんて雇うのはおかしいと思います。でも、彼には何かを感じたのです。頭はいいしエネルギーに溢れているし、技術が大好きでした。ーアルアルコーン
「自分の人生はあらかじめ決まっている」と諦めている人に聞いてほしい、ジョブズの思想
アタリ社に入ったジョブズは、「裸足で歩き回る」「風呂に入らない」「臭い」などの理由で相当な悪評。あまりにも悪評なので、1人だけ深夜勤務になる有様。
しかし、会社のボスに気に入られます。
会社がゲーム業界で、「酔っ払った大学1年生」を相手にするようなゲームを作っていた世界だったのも関係しているかもしれません。
アタリのボスは、ジョブズと哲学的な議論をたくさんしました。その会社のボスは、決定論者でした。つまり、物事はあらかじめ決まっているというような思想です。
これに対して、ジョブズはまったく違う考えだったのです。
意志の力で現実は曲げられると信じていたのです。
若き日のジョブズは現代風に言うと、「自己啓発中毒のやばい奴」「カルト信者・宗教難民」
若き日のジョブズは、現代風に言うならば、自己啓発中毒のやばい奴です。
とにかく、
- 宗教
- 思想
- 薬物
- ライフスタイル(食生活)
- 自己啓発に近いもの
この辺りの精神世界領域で散々彷徨ってたのです。
自己啓発は、引き寄せの法則などに代表されるように、「願えば叶う」系のスタンスが多い。自分が思った通りに物事が動くというもの。ジョブズはこの発想の極みにいたのです。
しかし彼は運が良かった。
コンピュータ産業が大きく動いていくトレンドの中の「アメリカ」にいて、身近にはスティーブウォズニアックという天才的な技術者(高校からの知り合い)がいたからです。
- 本人が技術に対してオープンマインドであったこと
- 身近に技術者がいたこと(養父、ウォズ)
- 人間の思想に詳しかったこと、直観的センスがあったこと
- 大きな時代のうねりの中にいたこと
ジョブズの言葉を借りれば、点と点とがつながったのでしょう。
実は、エジソンの方が、カールマルクスとニームカロリババ(インド人グル)を合わせたよりも世界に貢献しているんじゃないかと思えてきたんだ。ースティーブ・ジョブズ
ゲイツがソフトウェア開発領域だとして、
孫正義がITの流通(ソフトウェアとネットワークのインフラ、電話通信の改革とネットとの融合)だとしたら、
ジョブズはその時代のITと人心を繋げたのです。
18〜19歳の頃に散々彷徨っていたジョブズは、25歳にして億万長者になっています。
彼の成功を決定づけたのは、確実に狂人コースでありながらも、新しい時代の流れを作る大きなパワーに融合していった・迎合していったことでしょう。
ビルゲイツ、孫正義、スティーブ・ジョブズは共通の交差点を持っている
実は、ゲイツと孫正義が衝撃を受けた、ポピュラーエレクトロニクス誌の「アルテア」を、ジョブズ&ウォズのコンビも見ていたのです。
ゲイツはここから、ソフトウェアビジネスの可能性を見抜いた
孫正義は、コンピュータが情報革命を起こして産業と人々のライフスタイルを変えていく未来を予見した。
そして、ジョブズの相棒だったウォズはそれを見て、「ダサい」と思ったのです。そして、自分ならもっとスリムにできると考えて、完成させたのがアップルI。この先のストーリーはかなり有名でしょう。
ここで、この三者のストーリー・運命は重なっていくのです。
ジョブズはUI/UXのプロ。しかし、技術革新の領域にオープンマインドだったからこそ。
ジョブズは、UI/UXのプロと言えるでしょう。User Interface、User Experienceですね。彼は、時代が大きく動く世の中にいて、身近に技術者がいて、そしてそれ以前に散々、「独特な人生のさまよい方と狂い方」をしていて、これを時代の波とぶつけたからこそ異常な化学反応を起こせた。
テクノロジスト界隈にいない異常な人間だった。異色のバックグラウンド、キャリアを持っていたからこそ、コンピュータテクノロジーが一般化していく流れの中で自分の居場所を見つけられたわけです。
外の世界に目を見開きつつも、自分の内面を磨くこと、そして前に行くこと
成功者の決定的な要因を一つ上げるのなら、「その時代の主要なトレンド」に乗っていることです。ただし、その主要なトレンドに乗るだけなら誰にでもできます。ここで、独自の視点や視座がいるのです。
これは、各々が自分の内面を磨くことによって実現できるものと言えるでしょう。
成功者は例外なく、数多くの失敗・挫折を抱えていますが、それでもめげない上に、軌道修正しながら前に進み続けています。何より、オープンマインドです。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。