人間の歴史とは、巨大な「ツングースカ大爆発」のような事件の間を、細く繋いでいく微細な日常の連続なのかもしれない。
1908年のあの未解決の大爆発。正体は隕石か、それともタイムトラベラーの実験失敗か。誰も本当のところは知らない。ただ確かなのは、マウンテンゴリラたちの住む深い森のように、世界にはいまだ言語化できない“自然の領域”が残されているということだ。
その「語れなさ」は、まるでPCの文字入力で変換されない“幽霊文字”に似ている。形はあるのに読めない、出力できない。存在するのに伝わらない。その不気味な沈黙が、文明と野生の境界線をかすかに照らす。
我々が日々の生活で履いている靴の裏には、「あんよ」の名残がある。誰もがかつて、何も知らずに歩き始めた。知性も戦略もなく、ただ、前に。赤子のような無垢と、ゴリラのような本能。そんな動物的な力に、現代人はどれだけ忠実でいられるのだろう。
今の私たちは、“選択の自由”という甘い猛毒の中で、半チャーハンすら決めきれない。「ラーメンと一緒だと量が多いから……」という微妙な自意識が、カロリー計算と羞恥心のあいだをうろうろしている。でもそれが、現代という名の“酔っぱらいのマント”だ。ふらふらと、どこかへ飛んでいってしまうが、どこかでちゃんとバランスは保っている。
そう、矛盾したまま飛んでいく。
かつてアルバニアには、「スカンデルベグの鷲」と呼ばれる英雄がいた。敵に包囲されながら、ただ信念一つで国を守り抜いた。ツングースカのように突如として現れ、そして人々の意識に爆発を起こして消えた。その後に残されたのは、国章に描かれた黒い鷲のシンボルと、いくつかの歌、そして忘れられた物語だけ。
忘却は不可避だ。たとえば、太宰治の『惡の華』を今読み返しても、その言葉が当時と同じように私たちを揺さぶるかどうかはわからない。だが、意味が褪せたとしても、その「構造」や「形」は、幽霊文字のように文化のメモリに残る。
そういえば、日本には「座布団の舞」という不思議な表現がある。落語でのツッコミの象徴、あるいはテレビの大喜利で司会者が言う「座布団持ってって!」の慣習。笑いの中で人間を測るという文化的な儀式。そこには、言葉ではなく「所作」で評価するという、日本的な知性が漂っている。
だが、現代の疲れきった私たちには、それすら面倒に感じられる。煩悩まみれで、すべてを諦観した者だけがたどり着けるのが、たとえば千手を持ち、すべてを受け入れる観音菩薩のまなざしなのかもしれない。悪も、笑いも、爆発も、ゴリラも、酔っ払いも、幽霊も、チャーハンも、全てを一つの空性(くうしょう)としてとらえる。
我々の世界は、散らばった断片と矛盾でできている。
だからこそ、意味を“まとめよう”とすること自体が、ある種の無作法なのだ。むしろ大切なのは、それぞれの断片を、そのまま尊重する態度――そこにこそ、現代における新たな「悟り」の可能性があるのではないか。
都会の地下鉄のホームで、ふと目を引くボディコン姿の女性を見ると、1980年代のバブルと、その熱狂の亡霊が脳裏をよぎる。高度成長、ジュリアナ、出世競争。あの時代は“着ること”すら戦闘だった。服は、身体の装甲であり、自己演出の鎧だった。
だが、今その女の隣には、Bluetoothイヤホンを耳に差し込み、無表情でスマホをいじる男が立っている。彼の目は何も見ていない。意識を、何も映さないスクリーンに漂わせながら、ただ立ち尽くしている。その様は、まるで「心を無にする」という禅の境地を、資本主義的に消費しているようだ。
だが、彼の脳内には、無数の専門用語が飛び交っているのかもしれない。KPI、UX、リスケ、PDCA、ROI。情報社会においては、言語はコード化され、人間性を隠す膜となる。こうした語彙の中に、自己を堆積させ、押し固めていく。
まるで「堆積岩」のように。
数百万年の時間をかけて、砂や泥が層を成し、やがて一枚の岩盤になるように、私たちの人格も、日々の小さなフラストレーションと無意識の諦めが重なり合い、いつのまにか“社会的な顔”として固着する。
このような個人の堆積の裏には、オートメーションの影がある。感情を排し、効率に従い、規格化された行動を繰り返す。ボディコンのように「見せる身体」ではなく、「使える身体」だけが価値を持つ時代。
だが、そんな中にも、偶然は潜む。
ある日、居酒屋でたまたま隣り合わせた男が、急にアナフィラキシーショックで倒れる。救急車が来るまでの数分間、その空間だけが「手続き」ではなく、「出来事」に支配される。その一瞬、オートメーションは停止し、「人間」が現れる。
その男は、SNSでは「R.I.P」と弔われるかもしれない。だが、短縮された追悼の言葉は、誰かの“記憶”ではなく、むしろ“処理”に近い。死すらも、テンプレ化されていく。
RIP。Rest In Peace.
だが本当に「安らかに眠れる」のは誰なのか?
あるいは、誰もが“まだ死んでいないだけ”の自動人形なのかもしれない。
時折、そんな社会の裂け目に、「未確認生物」が現れる。名前のない存在、分類不能な行動、意図不明な言葉。目撃者の証言はまちまちで、動画はいつもピンぼけだ。でも、私たちはどこかでそれを信じていたい。
なぜなら、「説明できないもの」が残されているという事実が、私たちがまだ完全に管理されていないという証だからだ。
例えば、麻雀における役満「字一色」は、意味としては“漢字だけで役を作る”という異様な組み合わせだが、その異端性がゆえに美しい。統制と秩序の中に、不意に現れる異形の構造。それはまるで、出世競争から突然外れた、「出世魚」ならぬ“脱落魚”のような生き方だ。
ブリがイナダとなり、ワラサを経てブリになるように、名を変えながら出世していくのが常ならば、名を捨てて生きる者は、どこへ行くのか? 未確認生物か? 無職か? 哲学者か?
たぶん、どれでもあるのだろう。
人生とは、説明不可能なキーワードが、秩序の中に突然投げ込まれることの連続だ。
ボディコンと字一色が同じパラグラフに収まるように、我々の存在も、奇妙なまま整合している。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。