コイン投げ、勝てる確率は50%、さぁ、あなたは勝負する?

ここにコインがあります。表と裏が出る確率はフィフティフィフティで・・・・・

というコインを用いた例は、いろんなところで持ち出される事例です。しかし、「ベイズ主義」にのっとると確率の概念に対する見方は変わります。なぜなら、確率というのは不完全な情報に基づいて、人間が確実性の程度を定量化する

主観的概念

だと気づくからです。

世の中の成功している人間たちは、ここら辺を理数的にしろ直感的にしろ、非常によくわかっているのです。

例えば、「コイン投げ」というゲームは果たして、本当に「フィフティフィフティ」なのでしょうか。コインの重さ、コイントスの際のコインの位置、弾き方、・・・・つまり、コインを弾く人の技量についてのデータ次第では確率はどこまでも修正できます。

(サッカーの試合とかで、審判が弾いたコインを互いのチームのキャプテンが表・裏決めあってやるスタイルを取るのは、フィフティフィフティにするための修正対策でしょうね。)

 

要するに、全ての確率は「条件付き」なのです。

この条件について見破れる人、操作できる人にとっては、一般的な外野から見た「直観」には反した世界が、目前に広がっているのです。全ての確率は条件付きであるとわかっている人は、それを運と呼ぶのか、ツキと呼ぶのか、技能と呼ぶのかはさておき、

  • 見極める
  • 引き寄せる
  • 操作する
  • 勝つ

ということができるのをわかっています。

逆に言えば、たとえそのフィールド・領域について、周りが難しいだの、やめろだの、危ないだの言おうと、そこの世界に習熟して、自分なりに見通しが立っていたり、感覚がつかめていたり、「わかっている」という自信が持てるのなら、全然、足を突っ込んでも危なくない。

 

結局、何を知り、わかっており、できるのか。

その問題でしかない。

 

職選びに関しても、一生懸命、平均値などを見ても意味がない。平均値を見るのであれば、最大値、最小値、分散、中央値もしっかりと見る必要があるでしょう。

好きな仕事をやれ、得意な仕事をやれ、自分がやりたいと思ったことをやれ、後悔しない選択をしろ、というのはあながち間違っていません。続けること、自分に合っていることをやること、好きなことをやることは、明らかに勝負の条件を変えるからです。それらの成功訓は、ある程度、勝利法則の一翼をしっかりと担っているものなのです。

特に、シンプルな話として、続けるということの偉大さは、数学的リテラシーがある人にとってはとても「科学的な成功法則」だと感じるはずです。弾数を増やしていくことは、チャンスを増やすだけではなく、学習・習熟の機会も与えてくれます。また、「1発も当たらない」という確率が累乗的に縮小していくからです(もちろん、構造的な問題があるのなら話は別です)。

 

私、西園寺にとって、嫌なゲームは以下の通りです。

  • 大学受験、資格試験などのようにゲーム数と期間が決まっているもの、動かせないもの
  • 他人との協業、チームプレー (変数が増え、複雑化してきます)
  • 人海戦術、物的資源量、大資本がものをいうゲーム

===

西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。