マーケティングは客選ぶし、そのためにコミュニケーションから価格からなにもかもいじる。これって差別。全体を相手にしない以上は、当然不満を訴える人や批判を招くだろう。シカトも平気でするしね。意図的に何かを批判して相対化をはかったり、訴求する対象の層に強い共感を求めていったりという意味で、ビジネスライクに自分のポジショントークを変えながら仕事していかないといけない自分に変な感覚を覚えて苦しくなることもある。
そもそもビジネスとしては変じゃないと価値が無かったりするし、時代よりも先に動いて時代が後からついてきたりするって意味で、常にオカシイ。創業経営者にオカシイ人が多かったり、社長なくせがあったりするのも当然かな。
常に世の中の正しさや常識とズレてることだってある。何より、究極の話がお客さんに押し込むのではなくて求められることを望むっていう哲学。これってやばくないか。
自己本位、自己中心的な世界の見方しかしていない人間を理解して、その人間が自ずと求めて動く状態を志向していくということ。ここには闇がありすぎる。この闇ととことん立ち向かった市井のマーケターはほんと、数える程しか見てないな。
もうね、それ自体がある種のカオス。人間の現実を直視したときに、あまりにも人間が、バイアスのかかった世界を見て、しかも自主的にバイアスをかけまくることに気付くだろう。恋愛の悲しみとマーケティングの悲しみはそういう意味で似ているかもしれないね。
例えば本当の愛と思いやりが相手からの誤解を招き、反発を招き、怒りや失望、悲しみ、別れを呼ぶとしたら。そして逆に偽物の愛が相手を悦楽のステージに引っ張るとしたら?酔狂する相手を見てむしろ逆に冷め切ってくるかもしれない。純粋さが相手からの無理解を呼び、不純さに『あなたには理解がある、あなたは私を理解してくれる』という評価がついてくるとしたら?
一番好きな人とはうまくいかない、二番手の人とならうまくいく、みたいなものにも似たような闇を感じる。
尊敬するマーケターは客は自分で自分に嘘をつく、真実は常にマーケターの側にある、と。なぜならそれは、この世界でNOとされている『他者を尊重しない』から離れて、他者を尊重し重んじるから。これは形式上の意味ではなくて、深いレベルでね。たしかに。嘘をついているのは客の側だって。これは非常に深遠な哲学。だってそうじゃん。セールスマンじゃないんだから。セールスしないで、客が自ずと望むようにするんだぜ。
マーケットの闇。常軌を逸するイベントでマネーが集まり、経済が回復する。なぜか売れる商品。なぜかお金を集める人。なぜか人を酔狂させてしまう人。資本主義が選択し、残すものが狂っていたらどうだろう。資本主義が排除していってしまうものが清く美しかったらどうなんだろう。
例えば冷たさってなんだ?他者に対して無関心でいること、愛想が悪いこと、これが人として愛が無いことに直結するとは限らない。むしろ、愛嬌や人情の街と言われる世界の人間の闇に絶望を感じる人だっている。表面的な冷たさ優しさ、深層的な冷たさ優しさって違くないか?
例えばある会社に就職することで給与も福利厚生も休みもかなりパーフェクトに働けるとする。でもそのビジネスが社会的に疑問視されるものだとしたら?逆に、あらゆる条件は最悪だけれど、長い目で見たら結局ここで良かったって思える会社があったとしたら?そこの世間的な評価が良かったら?でももしかしたら、世間的には良くないとされてるところの何が良くないのか?本当はそんなことないとしたら?
例えば本当の意味で自分を思ってる・大事にしてる人が自分を殺してしまうとしたらどうだ?自分を腐らせてダメにしてしまうとしたら?たとえば家族という当たり前のように自分の空気として馴染んでいる存在こそが諸悪の根源だとしたら。
例えば同じ穴のムジナって話はどう?ものすごく特定の何かを批判したら反発したりしてる人がいるとする。その人の心情としては、その世界と自分を切り離したい、俺は違うと言いたい、自分は正しくその対象は間違ってると主張したい、その対象がおかしいがゆえに自分は騙されたと言いたい、とかいろんなケースを考えてみてふと、同じ穴のムジナっていうワードが浮かんでくるな。警察と犯罪者の共依存関係とかも本当に不思議。
純粋に社会人として社会に迎合しようとした、根をはろうとしただけなのにおかしくなることもある。うまくやっていこうとした、それが自分を歪めてしまうこともある。望まずとも自分が、美しくない、良くないと思っていた方向に流れてしまうこともある。
自分で自分のこと、たまに振り切れない奴だなって思うことがあるんだけど、それは、マーケティングの闇に落ち切らないこと。営利をどこまでも追求できるはずなのに、そっちに張り切らずに『こうあるべき』というところを割と譲らない時点で商業主義者という点にまだまだ疑問に思えることもあったりね。
マーケティングは虚だと言う奴がいる。
マーケティングは嘘だと言う奴がいる。
マーケティングの出番は終わったという奴がいる。
どうかな。レビューの集積で一体何がわかるというのだろう。票を集めたからってそれが良いかどうかは別問題だぜ。自己中、自己本位、バイアスだらけな人間だぜ。
どうかな。本来、伝えるべきことを伝え続ける、すなわち一見抵抗されて批判されるメッセージが、あとあと正解扱いされることってあるだろう?マーケティングがそれを担っていたとしたら?後世の評価なんて後でいくらでも変わる。織田信長は人殺し、坂本龍馬は悪人、松下幸之助は環境破壊者みたいな評価に変わる可能性だって否めないんじゃないか。そーゆー危うさを秘めてるのが人間心理や大衆評価だったりするのでは。散々持ち上げるだけ持ち上げて、後になって叩き落とすのも結局共同作業だったりするしね。
どうかな。例えばマーケティングが人に対して何かを優位にしない世界、フラットに情報が与えられて適切な選択ができるように思える世界で回り回って苦しんだらどうだろう?不快だったら。過ごし辛かったら。あまりにも楽しくなかったら。たとえばネットはあった方が良かったか?アマゾンはある方が本当に良いのか?豊かな社会は本当に利点だらけか?みたいな話。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。