人工知能を搭載したロボットにフェラチオしてもらう未来が来たら違和感だなー、とか思ったけど、現代人はアダルトビデオ観て射精してますよね。アプリとかで出会った人とメッセージのやりとりだけして、疑似恋愛楽しんでる人たちもいますね。ボーイズラブの漫画で興奮してる女性、恋愛ゲームに熱狂してる女性もいます。こーやって考えると、やっぱり新しいテクノロジーや文化と共生するんでしょうね、人間は。科学発展や技術発展が、不可逆ってのもあるんでしょうけど。
それが人間元来の生き方を侵食するものだとしても、やっぱ、受容して、共生する。
社会的にテクノロジーの進展に不可逆であることと、個人のライフスタイルとしてテクノロジーとは逆行する生活を送ることは矛盾しませんよ。
別に、スマホ持たなくても、ネットみなくても、自然しかない環境で生きても、電話を捨てても良いんですよ。むしろ、最近の現代人は、環境デトックスというかテクノロジーデトックス、情報デトックスみたいなものが、幸せになる秘訣だと気づき始めてるフシがあるでしょ?
だからミニマリストとか、断捨離なんてワードが流行るんでしょ?
私、世の中の人を見ていても、世の中の産業を見ていても不思議に思うのですが、なぜ、足し算的にしか思考できないのかなって思います。なぜ引き算しないのかな?って。
新しいテクノロジーです、新しい商品です、新しい機能です、新しい知識です、新しいスキルです…….こーゆーことばっか。
あえて原始的な暮らしができる空間とか、あえて昔のような感覚に戻れる空間とか、あえて物事を捨てさせてくれる商品、サービスとか、そーゆーものに着目した方が良い気がする。
いわば、微分型産業に対する積分型産業だね。
ところで。今、世の中が人工知能でワイワイ騒いでますけど、結局のところ、人間ってこれまでの暮らしですら、不自然な世界というか本来の人間らしさを前提にするなら謎な暮らしぶりで生きてますからね。田舎で暮らしてた人はわかると思いますけど、東京なんて、ある意味、不自然の極みですよ。マトリックスみたいな世界ですよ。
ヒッピーみたいな暮らししたり、青年海外協力隊とかにでも参加すれば、もう、日本のこれまでは十分、不自然な暮らしぶりであることに気づくと思う。
2000年ぐらいから、世の中はだいぶ、不自然感増してきたと思うけどねぇ。
さっき、ネットで、人工知能とプロ棋士の対局から、この先の未来を観るみたいな動画観てました。また、人工知能が導入された領域・職域で、現場がどのように変わったのかという話も観てました。いやー、すごい時代です。
開発者の人とか言ってましたね。確かに自分がプログラムを書いたんだけど、勝手に学習していって、加速度的に進化して、人間のスペックでは到底無理な情報量を処理し、学習しまくった結果としての知能が導き出す結論は、そこに至る筋道がブラックボックスであると。人間には理解できない、と。もし仮に、AIに説明されたとしても、人間の知能スペックで理解できるものを超越した解析量、学習量に基づくものですからね。
ま、そもそもこの世の中、本来的に理解できないことだらけです。人間が理解してる風なことも本当の意味で理解できていることなのかは甚だ疑問です。
アインシュタインは、『私がこの世の中で一番わからないことは、この世の中がわかるとされていることだ』と言っていましたが、私も全く同じことを考えて生きてきました。宇宙のこととか考えると頭痛くなります。結局、ものごとは突き詰めて考えると宇宙の神秘レベルまで思考が飛んじゃいますしね。
ある知の体系の正しさはその知の体系の中にいる以上は証明のしようがない。たまに、ふと思うのです。この世界自体が、人類を超越した何か大いなる存在の中で統制されたものだったとしたら。テレビゲームをやると、村人Aとか村人Bとかが勝手に動いてますよね。そのゲームを人間はプレイしているわけですが、もしこの世界自体が、テレビゲームの中のような世界で、その世界の外にいる何か大きな存在に観察されていたとしたら面白いですよね。そして、それ自体をゲームの中にいる人間が知る由も無いし、リーチも不可能でしょう。宇宙のこととかを考えると、いつもそんなことを思います。
日本の中にだけいる人が日本を理解しようがないのと同じ。
ところで、人間はわからないものと出会った時、果たしてどうやってそれを受け入れるのでしょうか。
例えば、私たちが今、当たり前のように使っているインターネットテクノロジーなんかも、最初は受け入れにあたって不信感があったはずです。こーゆーものって結局、現実におけるパフォーマンスを実感して信頼性を感じたり、好意を持ったり、慣れしたしんで受け入れていくわけですよね。見知らぬ人との出会いだって、同じですよね。
結局、見て、触れて、感じて、慣れて、許容というものが、始まっていく。
職場に新人が入ってきたとしましょう。世代も違うし、遊び方も違うし、感性も考え方も違くて、話も噛み合わないとしましょう。まったくもって予測不可能な発言、行動をする、いわば異物です。しかしながら、どんどん成果を出していってしまう。でも、その新人と自分は、一切人間的な交流ができないとしましょう。
結局、その人を受け入れるかどうかは現実的なパフォーマンス部分なはずです。というか、組織がその人を受容してそれが当たり前になったら、その組織の中にいる自分も受け入れないといけなくなりますね。
みんながLINEやりはじめたらLINEやらない人は変人扱いされるかのような現象は、この世界にはあちこち存在します。特に日本はそうです。思うに、天変地異的なファッションブームが起こり、フルチンで外を歩くのが当たり前になれば、みんな何食わぬ顔をしてチン●をブラブラ露出させながら渋谷とか原宿を闊歩するはずです。
『うわ、今の人見たー?まじイケチン!!』
人間が新たなテクノロジーに対して取る態度もこれと似ている気がします。とはいえ、圧倒的なパフォーマンス性があったとしても、ユーザーフレンドリー性が無ければ『愛される』ことは無いのです。
ジョブズが天才だったのは冷たい箱だったコンピュータに、いわば、ヒューマニズムを宿したことです。人間と友達になれるIT製品。
なんとなくかわいいから、という理由で買われるコンピュータってよく考えたらすごくないですか。
世の中の会社で、新人に対して歓迎会があったり、古いしきたりを強要したり、会社のカルチャーに馴染ませようとしたりするのはワケがあると思います。結局、どれだけパフォーマンスがあったとしても、心理的に結ばれるのはヒューマニズムの部分なのです。それが無ければ、『便利なんだけど、機能性に着目して徹底的に使うだけ』の対象となります。これはいわば、世の男性が、AV女優と彼女に対して、性欲という根源的には同一の欲望を発露させながらも、向ける想いや気持ちが異なっているのと似ています。
人間関係は感情コストがあるので疲れます。彼氏彼女関係に疲れて、セフレとかソフレで代替している人がいるように、ディープな人間関係は心を重くすることがあるものです。
とはいえ、スタバの店員さんの人間的なサービスを求めて金を払う現代人が大量にいることも見逃せません。
結局、人が最終的に行き着くのは愛であることが多いですしね。それは別に対人愛に限らないですけどね。
また余計な話ですけど、世の中で天才とか有能って言われてる人たちってその愛の対象がちょっと変わってますよね。天才数学者の中には、美しい数式でオーガズムに至る人とかいそう。数学的センスがある人は数字を感じてますからね。数に色を感じらって人もいますから。高校時代の歴史の先生は、『この人、相当歴史好きなんだな』ってのがビンビン伝わる授業をする人で、授業しながら完全にマイワールドに入ってました。
話、戻します。
どれだけ、ドライさと合理性を突き詰めて、パフォーマンスに固執してサイボーグ化しても、どうなんだろうと思うことがあります。例えば、宇宙の真理とか人間が行動する理由などを、定量化、数値化、統計分析、法則化しようしても、その方向性の知能活動の行き着く先にはロボットやITが待っています。まず、圧倒的に計算処理、情報処理でスペック格差を越えられません。人間が愚かなのは、知性を信じすぎ、優越感を覚えすぎな点です。そもそも人間の脳が欠陥だらけであること、そしてその欠陥が人間らしさであることを理解する必要があります。
何より、どれだけ、世の中を機械的な情報処理で捉えようとしても、世の中を動かしているのが人間なのだから、独断、偏見、差別、好意、個性、趣味嗜好や欲望というものを直感的に理解できない麻痺した脳に近づけば近づくほど、もはや完全にエッジが立たないポジションになってしまいます。人間性と知能の両方で取り柄がない状態です。
大人になればなるほど、若い頃にバカにしていた接待ゴルフがバカにできなくなってきます。
この社会の現実は、好意度が物事を動かしてるってことです。
だいたい、世の中で売れっ子になってる人は接待ゴルフみたいなことがうまいのですから。カリスマ予備校講師は雑談がうまいし、テレビに出てる著名医師、カリスマ社長など、言ってみれば彼らは接待というものをマーケティングに乗っけてます。
差別や偏見をなくそうみたいなことって、いいっちゃいいんですが(表面化、表現させない)、根本的にそういう心理を無くしてしまえば、それはイコールで人間らしさの根幹である偏った選好性や嗜好性みたいなものも根こそぎ引っこ抜くのとイコールであるような気はします。
もちろん、いずれ、すべての物事について関数というか、因果関係のブラックボックス部分というか、そーゆーものは全て明かされる時が来るのかもしれません。いや、むしろ、現時点でも大方のことは明かされています。愛おしくてたまらないあの子にドキドキする理由も、なぜ恋をするのかも、調べていくと非常に味気ない真実に突き当たってしまいます。ただし、それが個々人の感性の中で、どう意味づけされるのかという哲学的な論点はまったく別次元の話。
クリスマスムードの中、世のカップルが幸せそうにはしゃいでいるあの雰囲気を見て、理屈抜きに、あぁ、なんかいいなって思うでしょう。
イルミネーションなんて極論、電気の無駄遣いですが、ああいう無駄にこそ意味がある、むしろあれが無駄なら『無駄じゃないもの』って何?そしてそれはなぜ無駄じゃないのか?あなたの世界観は?人生観は?、、、、、
というふうに結局やはり、哲学的なステージに話が向いてしまう。
だから、映画産業は廃れることは無いと思う。そしてきっと、私のマーケティングも、私のビジネスもそうだ。
人工知能についても、学歴社会にも、『まぁ、そんなもんか』とある種の余裕をもって構えてられるのは、私が昔から、非合理的、愚かに生きてきたからなのかもしれない。人間は、『賢い』ということをやたら賛美しすぎてるフシがある。絶対善という言葉があるのかはわからないけど、そんな感じで持ち上げすぎな気がする。でも、賢さに価値があるのと同等なくらい、愚かであることにも価値があると思う。そしてきっと、自分は愚か者なんだろうと思う。
余裕綽々で生きてられるのは、『これから先はこれが通用しなくなりますよ….』って言われることが定期的にサイクルしてる、世の中のbusyな世界と距離を置いているから。つまり愚かだから。
Stay foolishの哲学は侮れない。
都合の良いように自分の人生を解釈しすぎてるのかもしれないけど、学校のお勉強とか、人工知能のガチンコでぶつかっちゃう領域とか、自分が散々捨ててきた領域で天変地異が起こりまくってるのを見て、『うわ、愚か者で得してるじゃん!』って思うことが本当多い。
働かない哲学、ニート哲学も、なんか最近、ジワジワと市民権を得てきてて本当こわい。この前、ネットで記事を見たけど、20代の若者の中で、出世しない方が良いと感じる派が、出世したい派をはじめて上回るようになったらしく、その比はなんと7:3。もう、社会がバリキャリアコースの馬鹿馬鹿しさや働かないことの素晴らしさに気づき始めてる。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。