今はいいけど、50歳になった時どうしよう、と考えている

最近よく考えていることは、「今はいいけど、50歳になった時どうしよう」ってこと。

 

自己啓発本を読んで、「ファイナンシャルフリーになりましょう」的なものにメインストリームへのアンチテーゼもあって、10年スパンで騙され続けた結果、本当にファイナンシャルフリーになってしまったのだけれど、それを20代でクリアしてしまったら目標が無い。

年商を伸ばすというつまらない動機で頑張れる人を尊敬する。

年商だけ誇張されても、利益率は話が別だし、業界・商材によって膨らましやすい世界がある。業界的にボーンと膨らましやすくて、ファイナンスのブースターで加速しやすい世界があるから、年商基準で生きるのは微妙だ。

そもそも利益は目的ではなくて存続のための条件であり、何かやった後の結果でしかない。最初に先行する「事業の定義」がいる。

もともとビジネスなんかには一切興味がなくて、ビジネス書とか自己啓発書を読む人は「あっち系」と思っていたタイプだから、そういうものにお熱な人とそうじゃ無い人の間では温度差があるのを知っている。

 

私の友達の若い女の子たちは、自己啓発を読む人を(俺も含めて)残念な人と呼ぶ。そして、40代独身男性の人とのことを可哀想な人と呼ぶ。ま、大学生とかはおじさんを見上げて「おっさんのキャバクラ・スナック通いは痛いわ〜〜」とか思いながら、自分が社会人になって、歳を重ねて皆、忙しくなり、そのうちパートナーともレスになって、頭もハゲ散らかしてくると心身共に行き場所が無くなって、微々たるお小遣いをキャバ・スナックに落としに行くようになってようやく「そういうことだったのか」とか気付き始めるけれど(16でキャバにハマってた俺には当てはまらないけれど)。

まぁ、若い考えが将来的にどう変わるかどうかはさておき、でも、

  • キャバ・スナック通いは痛い
  • 自己啓発本は痛い
  • 意識高い系はコッテリ
  • 独身は可哀想

みたいな思想が、一般の世界で渦巻いているのは、それはそれで事実だと思う。

 

つまり、何かに「お熱」な人と、そうじゃ無い人の間には「温度差」があって、それはマーケティング用語的にキャズムと読んでもおかしくない。

ジェフリームーアは、キャズムをPLC理論で説明したのだけれど、俺はこのキャズムを「お熱度」で説明したい。専門家とオタクは本質的に一緒。専門家には、かろうじて権威と社会性があるからまぁまぁ受け入れられているのだけれど、難しい資格を持っている人、高いレベルの学歴・学位を持っている人が、市井の若い女の子に「すごーい」「頭良さそーう」「難しそーう」と言われているのは、nearly equalで「絡みづらそー」と同義かもしれない。

人は何かに没頭している世界を、外からは入りにくいと思う。ガリガリはゴールドジムに行くのを躊躇する。マッスル界隈にはマッスルたちの、それはそれは、カルト的な雰囲気が漂っている。雀荘に行く時もそうだし、百貨店の化粧品コーナー(メイベリンとかMACとか資生堂とかディオールとかがズラッとしているコーナー)に対して「行きづれぇ」「私には場違いだわ」って思っている女の子たちもたくさんいる。

ある意味、その場違い感とかセグメンテーションはブランディングのコツだったりするんだけれど、シェアを取りに行く、という意味では厳しい。

 

小学生の頃、漫画で偉人伝を読みまくっていた身としては、なんか知らないけれど、「立派な大人の生き方」のストーリーパターンが頭に染み込んでいる。リンカーンとか、ケネディとか、エジソン、ナイチンゲールの生き様が脳みそに刷り込まれている。

50になった時、何してんの?どうしてんの?

これに対する答えには窮する。今はいいけれど、50になった時どうか。ドラッカーは、「何によって憶えられたいのか50になった時に答えられなかったら人生を無駄にしたことになるよ」と警鐘を鳴らしてくる。唯一の作品(代表作)は、家族です、みたいな典型的一般ピーポーの生き方も悪くないっちゃあ悪くないけれど、多分、それでは足りない気がする。

そう。50を見据えているからこそ、今こんなに謳歌的な生活をしているのかもしれない。放浪しながら、じっくりと考えているのかもしれない。大仕事をするのには、相当なエネルギーがいる。正直しんどい。気力をすり減らす。凄まじいモチベーションには大義がいる。これは社会観察をたっぷりとして、自分の人生経験と感情的にリンクするスイートスポットを見つけ出すことによって、湧き上がってくるもの。事前にたっぷりと経験を積んで、「これだ」というアイデアと方向性を見出さなければならない。

俺の仕事スタイルは、サラリーマンのような線香花火スタイルではなくて、完全に打ち上げ花火カーニバルをたまに打ち上げにいくスタイルになっている。これで人生はうまいこと回る。

 

50になった時に、何やるの?どうしてるの?

それを考えると、全く別の世界が見えてくる。逆算して、今やるべきことが変わって見えてくるような気がするからだ。

そう、つまり、自分の存在意義というか、自分の定義は外からしかできないのだけれど、最初に「専門家」「オタク」の話をしたことからもわかるように、狭い界隈と広い界隈では、意味が違ってくる。偉人が偉人であるのは、インパクトのスケールがでかいから。影響力がでかかったから。

そして、でかい影響力っていうのは、多分、パイオニアに与えられる。

「儲かった」だけでは悲しすぎる。

お金は唯一フェアな尺度だけれど、分かりやすい画一的な基準ではあるけれど、そうじゃなくてもっとわかりやすく「あー!それ!」っていうインパクトが広範囲にあったら良い。

そう考えた時、多分、「相当でかいこと」をやろうとすればするほど、巻き込まなければならない人の数が膨れ上がっていって、そしてそのためには、前もって信頼構築のための活動が必要になってくる。それを考えた時、比較的大きなスケールで活動しているところにエントリーをしていって、そこでコネクションを得ることも悪くない、という気にさせられる。

遠い未来のことを漠然と考えると、逆算して今が違って見えてくる。

そんなことを考えながら、ゲーテとの対話を読む。うーん、小説家か政治家、発明家あたりなのかしら?

 

ちびまる子ちゃんのさくらももこさん死亡のニュースを聞いて、「やっぱ凄いんだよな」って思う、こういう時に。クレヨンしんちゃんもそう。作者もうお亡くなりになられたよなー。

長谷川町子とか、さくらももことか、臼井儀人のすごさがわからない人ってのは、多分、この話で一発でわかると思う。

「日本を代表する大企業、●●のエース事業部で●●の実績を出し・・・」

とか中学生、高校生に話をしても、

「ふーん、で?」

で終わりなんだ。そういうのを、「まだ学生は・・・」とか「世間知らず・・・」って言ってやるのもアリだけど、なんていうか、説明とかって、相手が興味持ってなかったらシンプルにスルーされるからね。聞いているフリされているけれど、全然覚えられてないから。記憶に残ってないから。

サラリーマンはサラリーマンなんだ。

 

クレヨンしんちゃんは昔はPTAとかから反感食らってたらしいけど、今じゃそんなことないでしょ。連載当初の漫画とか見ても、かなり鋭い描写があったりするけれど、まぁ、世に出るものは最初、だいたいそんなもんだ。サザンだって、最初はコミックバンド扱いだったのだから。

 

PS

私の外国人の友人には日本のゲーム業界に魅せられている人が多いのだけれど、なんか、温度差を感じる。マリオやドンキーコング、ゼルダがいかに凄いのかを熱弁されても、ピンとこない。

ポケモンに関してはまぁわかるけれど、そんなポケモンに関しても熱は去ってしまった。例えるなら、昔嵐が熱狂的に好きだったアラシックな女の子が、同棲している彼氏と生でセックスして、お尻にいっぱい精液をかけてもらって情けなくティッシュで拭き取った後、ぼーっとテレビで嵐の番組を観ている感じ?

そこには成長と、感性の変化と、・・・・がある。

そう、俺も今更コロコロコミックを読んでもワクワクしねぇ。


===

西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。