成功した人、失敗した人。10年の検証結果を。

夜。六本木。

けやき坂を彩るイルミネーション。

 

夜風にコートを揺らしながら、成功を噛み締める。

麻布が地元の人間でも、ヒルズやミッドタウンで買い物ばかりしていたら破産してしまう。意外と東京生まれ東京育ちは慎ましく生きている。割と東京とは、東京に憧れた人間が活性化させている街で。この現象を『上京効果』と呼びたいけれど、会社員が無能になるまで出世するピーターの法則と似た話かもしれないけれど、人が活性的に動くときというのは必ずしもその属性にドンピシャとは限らない。高級車の多くも中流階級が買っている。

東京という虚像に踊らされることは大事なことで、虚像こそが現実を活性化する。数学の世界でも虚数が実数を活性化させた。法人も国家もフィクションだ。ユヴァル・ノア・ハラリの話は割とストンとくる。

成功者と失敗者を分ける●●、なんてコンテンツは世の中に溢れていて、若い頃はそれしか情報源が無いから、疑いながらも手探りでそれを頼りにする。

自分もそうだった。

生きていけばいくほど、現実のリアルデータが手に入る。現実を知る。

おっさんに近づくにつれ、おっさんが若い男子と比べて偉そうに堂々としてる理由がわかる。おっさんはリアルデータをたくさん知ってるのだ。

でも、若いうち、特に分別のつかないうちに、リアルデータがわからない、嘘か本当かどうかわからない、なんとなくスピリチュアルじみている、そういうものに感化されて洗脳されてしまうことは大事だ。

無知の哲学。見城徹が言っていたように、『無知であればあるほど良い』。さらに、極端であればあるほど良い。無知で極端で、余所者で、若者で、バカである方が良い。何かを成してしまう。

結婚もそうじゃないか?

若いうちじゃないとできない。

狂気、熱狂、盲信があるうちこそ、人生を動かせる。行動の前には常に信じる気持ち、興味関心がある。その点で、若いうちの方が、良い。

成功とは不思議なものだ。

社内での出世競争に打ち勝った人も同じ感覚を持つはずだが、ふと気がつくと、周りに、人がいない。よーいドンでスタートしたとき、周りにいたはずのライバルがいない。

成功とは続けることなのか。

成功とは勝ち続けることなのか。

『続けること』が成功の理由だなんて、同義反復じゃないだろうか、と思うときがある。

昔自分がいたクラスタ、そこにいた人間と会ってみる。すると、自分だけが突出して成功していることに気づく。一方で、彼らは何も変わっていない。

また、成功を目指して歩みを進める中、出会った人、出会ったが途中で消えた人、背中を追いかける存在だったはずが消えた人、そういうデータもたくさんと集まる。だから、見えてくることがたくさんある。

失敗とは、成功がもたらす。

これは、断言できる。

結局、成功しない人間、失敗している人間は、どいつもこいつもチンケなプライドを握りしめているのだ。そしてそれを掴んで離さない。自己否定ができない。

過去に多少、チヤホヤされた経験を手放せずにいる。過去にうまくいった自分、過去の誇り、そういうものにしがみついている。

 

求める姿に向かって、貪欲で素直であった方が良い。過去に囚われない方が良い。何より自己に執着しない方が良い。

結局、成功する人間は、外の世界を見ている。外の世界は刺激に溢れていて、面白いことがいっぱいあって、そういうものに心を奪われているからこそ、相対的に自分のプレゼンスが自分の中で小さくなる。スクールカーストで低位だった引きこもり、インドアほど頑固で自己に固執しているのと同じだ。オープンマインドであることは、外に興味を持つことだ。

過去にそれだけ思い入れがあり、エネルギーコスト、リソースを注いだのだから、延々と昔話をしたがる気持ちはわかる。だが、結局、過去の成功体験は邪魔でしかなく、過去したことは今や未来のアシストに繋がるようなことしか効果が無い。この意味で、孫正義の生き方なんかは過去がずっと生きる生き方である。大多数の凡人の過去は埋没している。うざい武勇伝にしかならない。その時々の消費でしかない。

要は、未来につながることをやってたかどうか。

これが人生にもたらす違いは大きい。

 

過去と自分という内向きより、未来と外。未来と外にアテンションを向けることで、より、手離れを良くする。家の中に形あるモノを溜め込まない、というのもポイントかもしれない。

未来を見る。未来を創っていく。

過去を手放していく。

お金の使い方にもその人のスタンスが現れていて、貯金をするタイプは過去に執着が強い、使うタイプは未来にオープンマインドだ。私はこの人生で貯金をしたことが一切無い。

きっと、日本人の貯金癖は未来への閉塞感。過去への執着。過去の再現への執着。今の延長への執着。どうしてだろう。どうせ全てのことは移り変わっていくのに。今できることはずっとできるを意味しないのに。

美しい配偶者も、可愛い子供も、会社での立場も、すべて、すべてが一切の跡形もなく、失われていくのに。

今に没頭して、今を紡いで、その先に輝かしい未来がある人間なんて一部だ。少なくとも刹那的な何かを繰り返している人間ではない。それは間違いない。

多分、どこまでもBe Do Haveの法則だ。

Will Be があった人間こそ、Doをする。DoingでDoneでDidを語れる。だからHave doneだし、Haveになる。

何者かになれるのは、何者かになろうとした者だけ。

何者かになろうとするのは、2年、5年では難しいかもしれないが、7年、10年、15年なら意外と簡単だ。なぜならそのぐらいの年数が経てば、いやでも全てが失われていく、変わっていくからだ。何もかもが変わっていく。

全て消えて溶けて無くなっていく。

小学生、中学生の時にいじめられっ子だった人たちも、自分がいたコミュニティは10年、15年経てばほとんど再生不可能だ。あの時代のつながりを維持している人などほとんどいない。それぐらい、全ては失われていく。

『分速で4兆円稼ぐコピペノウハウ』みたいなものを詐欺的に誰かに売りつけたとしても、10年経てば、15年経てば、良い意味でも悪い意味でも忘れ去られる。そしてその分、新しい世代が下から台頭してくる。

もはやエビちゃんファッションなど誰もしていない、若い世代は誰も知らない。その時代に女を謳歌していた女は全て枯れて砕け散った。そして今、女を謳歌する人々もやがて砕け散る。時代のカリスマは流転する。流行りの音楽は移り変わる。

久しぶりに会った親戚、同級生は老けている。どれだけイケメンと持て囃された時代のスターもやがてその代名詞を奪われる。

我々は全てが錯覚の世界に生きているのだ。

意外と、昔の記憶に縛られている。自分で自分を締め付けている。だが、本当に全てが変わっていく。

新しいものが生まれ、育ち、古きはリニューアルされ、消えていく。入れ替わっていく。

3年ぶりに昔行っていたガールズバーに行けば、設備は変わってなくても働いているスタッフは総入れ替えだ。これを『ガールズバーの哲学』と呼びたい。

現実の世界は流転しているのに、延々と記憶や思い込みに縛り付けられている。呪縛で苦しんでいる。過去の自分は刷新できる。自分が老いて朽ちていく分、過去もまた無かったものになる。いい意味でも悪い意味でも。過去の武勇伝が過去の武勇伝とウザがられる程度に過去の恥や失敗も消えていく。

今、目の前にある景色で、10年前にあったもの、無かったものは?

15年前は?20年前は?

生きた年数が長くなるにつれて、『見たこと聞いたこと知ってること』の範囲は広くなるから、変化を起こしていく事は難しくなる。既視感に溢れた人生になる。

それでも、何かを変えていけるか。

あるいは、既視感がある範囲が大きいなら、その大きいな範囲を使ってより大きな勝負に出れないだろうか?政治家や経営者にはまさにそのセンスが求められているのだろう。

 

 

make you think, make you feel.

 

 

 

 

 

 

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。