親に感謝できない

なんか親に感謝できません。ある程度の年齢までは、ふつーに「親に感謝」とか「親はありがたい」とか言ってたんですけど、歳を重ねるごとに段々その念が薄れていっています。そして、そーゆー自分の気持ちを客観視するたびに、「うーん、やはりまだまだ我輩は稚拙なりか…」「クズの極みだな、こりゃ」なんて思うわけです。とはいえ、昔と比べりゃ今の方が成長している自信はあるし、少なくとも自分の感じたままに生きることとか、自分の頭で考えることとかできるようになってるのが今。そしてそんな今、親に感謝できないのはなんかオカシイって自分で自分に疑問。

えっと、私の家庭に関して言えば、虐待受けたとかひどいことされたとかそーゆーことはないですし、普通に愛情注いでもらって、普通に面倒見てもらいました。とはいえ、順風満帆の家庭だったわけではなくていろいろ複雑な事実もございました。家庭内のいざこざとかもいろいろ。思春期には「なんでこんな親のもとに生まれたのか」とか思ったこともありました。とはいえ、「親に感謝できない」って言ってる人にありがちなスーパーハードな家庭環境だったわけでもないです。また、今でも幼き日の両親との思い出とかを思い出すとじわっとくるものとかはあります。感謝の念や親愛の念がゼロではない。だからこそ、余計にモヤモヤしたりするわけです。今の私はなぜか、スッと感謝の念が湧いてこない。

なので、親に感謝しなければならないという思い込みと、自分の中の素直な感情との間にあるギャップをあれれと思ってる状態です。

人間というものは怖いもので、学校教育とか、働き方とか、親への感謝みたいなものは、そーゆーのは画一的かつ絶対不変的なものを、当たり前ぐらいの感覚で刷り込まされます。そして、それから外れることは外道、倫理の「り」の字もない人間、ひどい言い方すりゃ犯罪者予備軍ぐらいの風潮が世の中に無いわけでもない、、、って感じ(言い過ぎ?)。誰だって、自分の感覚が狂うのは怖いはずだし、ましてや、ふとした拍子に犯罪者に転じるなんてことも恐ろしくて嫌でしょう。多くの普通の人にとってはその前段階がニートぐらいの感覚なんでしょうか。だから、生い立ちの過程で刷り込まれた物事の良し悪しには、基本的には反発することも疑うこともなく、べき論当たり前論にみんな沿って生きてるはずです。で、普通に生きてりゃ「親に感謝すべき」なんて前提はみんな当たり前のように持っているわけだから(持たされているという自覚なしに)、まさか自分の本心がそれとは外れているなんてことを自分で認識することすらできないわけです。

自然発生的に、自然発露的に、ナチュラルに親を愛してるとか感謝してる人は除きますよ。

私は、一般的な常識とはだいぶ外れた生き方、考え方、働き方をしてきています。なので、マネーとかキャリア分野に関しては、常識から外れることはもう、お茶の子さいさいというか、そこに関する知見や見識、意見、哲学もすっごい濃いものがあるわけです。慣れっこです。マイノリティでも全然平気。ニートも経験済み。しかし、親子関係みたいなテーマは特別意識を向けてきたわけではないので、なにかこう、自分の中で変な違和感を感じながらも、親に感謝しなければならないという強迫観念が醸成した、無添加ではない非オーガニックな親への感謝、農薬と添加物でベタベタになった怪しい親への感謝を持ってきました。そしてそれをオーガニックだと思ってた。親への感謝をしてる「つもり」でした。

しかし、ある段階から思い始めたのです。

あれ、この感覚、どっかで、、、、。

 

そうです。これ、「いい学校を出ていい会社につきましょう」とか、「普通に就職して働きましょう」とか、そーゆー系の話の感覚とそっくりなのです。そこに感じる違和感とまったくもって瓜二つなわけです。

つまり、本心と刷り込みの違いですね。

で、なんでなのかなっていろいろ考えてみました。そうすると、まずわかったことがあって、私の気質とか精神性に根付くところが大きい。親からの独立というのが、かなりしっかりしてる。独立って言葉は甘いですね。決別ですね。人間のDNAからの影響、生育環境からの影響って大きくて、ぱっとしない環境、親元で生まれ育てば、だいたい親と似たような子供しか育ちません。蛙の子は蛙ってやつです。高学歴の親はだいたい高学歴、医者の親はだいたい医者です。庶民階級からスターが生まれる場合には、相当な親との決別があるものです。福岡の田舎が生んだ大スターホリエモンは、庶民家庭出身ですが、見事な親軽視っぷり、見事な親シカトぶりです。

私の親戚連中を見渡しても思いますが、まー、血縁ってのは恐ろしいもので大体似たような感じの連中が揃っていて、そこから見事にぶっとんだ私は性格も状態も一人飛び抜けています。私と4親等内の人間全員集めたときに、私一人だけ異次元でドスケベで女好きで素行不良です。私以外、みんな上品です。私は親戚会合をボイコット、シカトしてきた回数はナンバーワンです。身内に対する思いやりや関心の無さもずば抜けておりました。ま、表向きは普通を装って参加することもありましたが苦痛で苦痛で。でも今思えばその苦痛感は社畜生活に感じるやつとそっくりです。自分に嘘ついて嫌なことを我慢する感じ。

精神年齢や精神の有り様って人それぞれだと思いますが、いい大人になって、形上は親から独立し自活している人間でも、精神的にはまだどこかで自立しきれてない大人なんてのはたくさんいます。アラフィフとかにもいます、そーゆー人。親からの仕送りもらってる人、食料品もらってる人、とにかく何かしらの便宜を受けている大人は多いはずです。

ガチで独立してる人って、おそらく、親の存在とか意識がだいぶ、自分の中で消えてるはずなんです。これは、親を軽視してるとかそーゆーことではなくて、必然的にというか、ふつーに、シンプルに、脳内で親ってものが占める領域、プレゼンスが至極小さいわけです。例えるなら、独立起業してそれで一生生きていくと決めた人間が、就活情報、転職マーケット情報とかサラリーマン界隈の情報をまったく意識しない、頭に入ってこないのと似てます。逆に、迷ってる人とか保険かけたい人、逃げ道を求めている人はいつも頭にサラリーマン界隈の事柄がチラチラとチラついているはずなのです。

親という存在は、一部のクレイジー層を除いては、基本的に子供に対してどうやってでも助け舟を出そうとしたり、何かと目をかけようとするものです。親からすりゃ何歳になっても子は子です。そして、子を思えば当然ながら、おせっかいとか干渉とか、アドバイスとか、連絡とかしてくるはずなのです。また、結婚にあたり親から経済的援助を受けるだとか、大人になっても親の家に住まわせてもらう、親の不動産を貸してもらう、マイホームの援助をしてもらう、みたいな形で親子のつながりを持ってる人は少なくない。

しかし、こーゆーものをオプション、バックアッププランとして持っている人間と、まったくもってゼロ、一切なしの人間では、メンタルや思考が違ってきて当然です。完璧なゼロ人間は、親に頼るという発想が皆無ですし、自分が本当にやばくなればゲームオーバーだってことを当たり前のようにわかっているわけです。この差は非常に大きいわけですね。人生サバイバルにおいて、極限に追い詰められたときに親という助け舟が少しでも期待できる人間と、そうじゃない人間とではとてつもない差があります。それを期待してるか、一切してないかでも差があります。ましてや、大学や大学院の学費、就職先の斡旋、コネの提供、親の職業基盤の譲渡などを受けてきたような人間と、そうじゃない人間とでは社会人の門を叩く段階から、マインドセットが違うのではないでしょうか。

遡れば、学生時代から、親に送迎をよくしてもらったり、部活動のために弁当やら何やらを用意してもらったり、学業や友達づきあい、学校での各種イベントについて手厚いサポートを受けながら育ってきた人間もいれば、徹底放任で育てられた人間、むしろ親が勉強の邪魔をしてくる家庭で育った人間、夫婦喧嘩や親の酔っ払った勢いの奇行雑音に耐えながら育った人間、ギャンブルやお金の問題で荒れる親元で必死に耐えた人間などいろいろいるわけです。

そんな中、画一的に、上から目線で「親に感謝しろ」とか聞こえの良い正論を言われたら感情的に反発したくなる層がいるのも当たり前の話であって、これはちょうど、アメリカにおける、ヒットドラマのキャストがみんな白人で、それを公共の電波でこれみよがしに見せつけられる黒人の気持ちのようなものに相当するものでもあるわけです。親に感謝できない人は経営もうまくいかない、親に感謝できない人は人も愛せない、とか言ってる人いますがあんなものは詭弁でしょう。まあ、何を言いたいのかどーゆー趣旨で発言されたものかを思えば理解できなくもないけど。

何歳であろうと、精神次元において、親とどれだけ距離を取れてるか、親の呪縛から逃れられているか、親から独立しているか、自分で主体的に意思決定してきたかには、人それぞれ相当な差があるものです。これに呼応する形で、それぞれの「親観」は違っていて当然です。

 

あと、上記してきた話と重なりますが、なんとなく、無意識的に、

親と距離感が近すぎたり、親と仲良くしすぎると、自分がダメになる、自分の成長が止まる、自分というものが親に「潰される(比喩)」

という危機感、圧迫感、閉塞感を感じている場合だと、なかなか親に感謝できないことはあるのではないでしょうか。

自分や自分と関わりが深いものについて、冷静に客観視したり、批判的に見たり、俯瞰的に見れる人間ってのはいます。自分の地元の欠点を淡々と挙げられる人間、自国の悪いところに気づく人間、自分という人間の至らない点を正確に把握できる人間、そーゆー人はいます。そこで感情的にならない人間ってのがいるのです。私の友人にもガッツリアメリカ人のくせに自国の歴史的過ちや国際社会における立ち振る舞い方、政治政府のやり方あり方について、否定的見解を語り、絶対悪だったと教育されてきたはずの過去のドイツや日本といった元敵国について、当事国国民もびっくりの情状酌量的知見、見識、理解と弁護を披露し、勝者の歴史に修正を付け加えるよーな話を、上手に割り箸を使いながら寿司屋で語ってくる人間とかいます(ただの親日じゃねーか、っていうツッコミはやめてください)。

このような感覚の延長線上に、自分の親という絶対神、絶対教祖を崇めすぎない人ってのがいるのです。いわば、一神教へのアンチテーゼです。自分のアイデンティティをルーツに求めるのではなく、社会の中で生きる社会人としての今や、自己の選択と経験の歴史に求めるタイプにも、こーゆー人は多いわけです。自分の意思で得てきたものに意味があって、デフォルトだったものにはあまり思い入れないタイプ。親を大切にできない人は結婚しても家庭を大切にできないとか言いますが、こーゆータイプは与えられた家族に対する無関心さの裏返しと言わんばかりに選んだ家族に対しては関心と大いなる愛情を注げたりします。また、ルーツで定義される自分は嫌いだが、大人になる過程で自分で選び創り上げてきた自分は好きという人も、なかなか親を好きになれないのではないでしょうか。親への感謝というものは、自分に対する愛情があってこそです。自分という人間を愛せるようになり、人生を前向きに捉えられるようになってはじめて、芋づる的に親への感謝が生まれます。産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう、みたいな。なので、親への感謝の表現が、結婚という節目によく行われるのにはわけがあります。女性が親への感謝を結婚式で示して泣いたりするっていう社会的なテンプレがありますけど、あれは、女性が「自分を理解し、愛してくれるベストパートナー」を見つけることで、自分を愛する気持ちや幸福感が高まったからこそ、連鎖的に親への感謝が生まれるってやつです。こうやって考えると、結婚の効用は自分を愛せるようになることかもしれませんね。自分の子供を産んだ場合もそうでしょうが、子供がかわいいのはある意味、子供を通して自分への愛を自分で持てるようになるからではないでしょうか。心底自分が嫌いな親は、子の育児放棄とかしがちだと思います。自分を愛せてはじめて、近親者を愛せる。すなわち、親への感謝の念が自然に湧いてこない人は、自分のことをまだ素直に愛せてないのかもしれません。

とはいえ、幼い頃から完全なる育児放棄をされて育ってきたりしている人もいるわけですから、三食食わせてもらって、温かい布団で寝かせてもらって大きくしてもらえただけでありがたいことであり、上記のようなことをつらつらと考えて、親への感謝の念がないことを正当化することに対し、昭和世代から叱られてもそれはそれで、仕方ないことといえば仕方ないです。ここで、むやみあたら感情的に反応すると、人間性を疑われるのでやめておいた方がcleverです。親への愛情があまりないことや、子供嫌いであることは、たとえそうであったとしてもあまり公言しない方が賢い生き方だと思います。西園寺さんは子供は好きだよ!

親への感謝の気持ちが湧いてこない人とは別に、親に対する嫌悪が強いって人もいると思います。感謝の気持ちがないことと、嫌悪が強いことは別次元の話です。個人的に、親への嫌悪が強いってことは親への執着があるってことだと思います。これって多分、彼氏や彼女に浮気されて憎悪する感じと似てると思うんですよね。親近性って高まるほど憎悪の感情も誘発しやすくなりますから。紙一重っすから。そーゆー場合には、親を許してあげた方がいいと思います。許す、ってのは手放すということです。心の中にある憎悪の気持ちを放流してあげればいい。ちょっと悪い言い方をすれば、親と自分の間に一定の壁や区切りを設ける、距離を置くことです。自分と親を切り離すことです。人間、どーでもいい人とか距離置ける人にはいちいち憎悪したりしませんからね。無関心ですからね。親への憎悪感情はある意味、執着心です。何に関してもそうですが、憎悪して苦しんでる人は執着しすぎであって、期待とかかけすぎ、こうあるべきだったとか思いすぎでさっさと手放せばいいです。ある意味真面目なんですね。親と自分とをガッツリ結びつけすぎてしまうから、だから許せない。自分が付き合っている彼女について、執着すればするほどに彼女の粗なり欠陥なりを許せなくなったりしますが、いくらでも次があると考えてる人、恋愛だけに執着しすぎてない人は、許すことができます。手放すことができます。真面目さや執着心、憎悪とは密接な関係性があります。あまり、きちっきちっとしてるタイプはやたらと憎悪感情持ちすぎになる傾向にあります。べき論や正義論に囚われてる。それを他人に押し付けてしまっているフシがどこかにある。支配欲やコントロール欲が強すぎる。こーゆー人の持つ性質は、良く捉えれば外部への関心の強さということで、滅私奉公型の仕事なり、社会正義への貢献なり、政治的な活動なりで才能を発揮できたりします。

 

親に感謝できない自分を責める必要ってあるのでしょうか。誰もが、思春期には自然と親を嫌悪します。忌避します。その年代にしっかりとそーゆー感情を持たなかった人は、いい歳になってからだいぶこじらせた形の反抗期がやってくることもあります。

親からの離別というのは、大人になっていく上での自然な動きです。大人になっていくということなのです。ライオンとかは親が子を崖から突き落とすそうですが、人間くらいでしょ、いい年齢になっても親親言ってたり、いい年齢になっても親から食い扶持のアシストもらってたりするのは。それと、人間なんて本来、50そこそこで死んで然るべき生き物なのにも関わらず、人間の寿命、特に老後だけがズルズル伸びてしまったことが、親との関係が残る期間を無駄に残してしまい、いろいろと問題を起こしてしまっているのかもしれませんね。これは社会的な問題です。

親への感謝。これは少なくとも、あまり考え込まなくてもスッと湧いてくるものであって、悶々と考えてる時点でチョット違いますよね。また、親に対する感謝と、申し訳ないという気持ちは違います。私はこの申し訳ないという気持ちの方が昔から強かった。申し訳ないという気持ちは、親が自分のために自己犠牲を払っている姿なり、それをアピールしてくる言説を通して湧いてくるものであり、純粋な感謝とは違います。あなたのためにコレコレ頑張ったのよ!私大変だったの…..みたいな感じの人に対して、ありがたいとは思いつつもしつこすぎると嫌悪してしまう感じを世間的にはお節介と呼んだりします。人間は、一見自分のメリットに思えるようなことだって、自分の主体的な希求や選択に反してグリグリ押し込まれたり、それに伴う自己犠牲度をアピールされると嫌なんですね。

西園寺の場合、思い返せば、親の自己犠牲の姿をたくさん見てきました。また、それをアピールされることも多かったです。子供は、そういうものを見れば見るほど、申し訳ないと思うようになります。そして、自分の存在が邪魔であるとか思うようになり、自己肯定感が下がります。自己肯定感が下がり、自己を嫌悪したり好きになれないでいたりすると、自分のルーツである親に対して余計に感謝の念が余計に湧いてこなくなるものです。ある意味、負の連鎖ですね。また、大人になり、物理的にも精神的にも親との離別を果たしていく中で、親の自己犠牲を見て心を痛めるシーンが少なくなっていけばいくほど、心が軽くなります。また、自分の意思で主体的に選び、実行し、幸せや成果などを獲得していきながら人生の楽しみを味わっていく過程で、だんだん自分に対する自信や愛情を獲得していけば、それに伴って当然、親への感謝の薄さはますます加速していくわけです。心境としては、親から離れれば離れるほど、人生が楽しく、楽に行っている感じになるのですからね。

もちろん、人間としてのスタートの部分を、親によってかなりアシストされていることは忘れてはいけません。子を産んで育てるって大変ですから。しかしながら、子を産んで育てるのも親の選択という面だってあります。親が、その大変さを子供に刷り込んでいけばいくほど、子供の側に反発が生まれても当然とも言えるわけです。

こーやって見ていくと、自己犠牲って本当に厄介だなって思いますね。自己犠牲してる側は、一生懸命に自分以外の誰かのために頑張ってる。でも、それが然るべき相手に然るべき形で提供され、価値を感じられ、選びとってもらわなければ感謝されることはないわけです。場合によっちゃ、私はこれだけ身をすり減らしているのに報われない!恩知らず!と怒りたくなる気持ちが出てきますが、こーやって怒るほどまた、負のスパイラルにハマるわけですね。だから、自己犠牲って本当にくだらない。やりたいことをやりたいようにやって、対価を要求して、いらないならサヨナラ、ぐらいのドライさがあった方が人間の関係性というのは健康的に保たれるものですね。

親子関係というのは、どちら側に立つにせよ、選べない、捨てれない、変えられないなどの事情があり、社会的なプレッシャーだってあります。どっち側にもそれぞれの事情があり、大変さがあり、それぞれにそれぞれのアンフェアさがある。何より、子は、親の側の圧倒的な経済的負担なり、子育てに伴う心労なり不自由さを経験してない段階で、「お前には子を産み育てることの大変さがわからない」と言われてしまえば反論のしようがありません。かといって、子を産み育てた経験があれば親の自分に対する子育てについてなんやかんや言っていいとも言えるわけではないでしょう。自分の子供が超育てやすいタイプで自分との相性がめちゃめちゃ良くて、そのおかげにも関わらず「子育てなんてイージーやん!やっぱ俺の親はダメやった」なんて思い、水を得た魚のように親を攻撃するのも間違いでしょう。すべての人間はみんな違いますから、全部が個別事例として特殊論なのですね。そもそも、親の反面教師ぶりがあったからこそ自分がまともな親になれた可能性もあるわけで、そこんところは本当に難しい。いつだって、反面教師の存在価値は軽視されがちですが、持ちつ持たれつの関係は常につきまといます。怪しいビジネスセミナーを徹底糾弾している人とかいますが、それをきっかけにしてビジネスに興味をもち、失敗し、反省して大成していく人もいます。過去の借金をトラウマのように語る人もいますが、そのおかげで強くなれたり学べたり、金銭的な成功への強い動機を得てる人だっています。自分を見下した人間を恨む人だっていますが、見下して踏みつけて頂いたからこそ、ハングリー精神を醸成させて向上心が持てた場合だってあるでしょう。警察が飯を食えるのは犯罪者のおかげなのです。

こーやって考えていくと、自分は正しいって思い込んで人にあれこれ言っていくことの恐ろしさを感じますね。

いやー、だからね、一時的な感情というか思い込みで、何かを決めつけて行動を起こし、取り返しのつかない失敗をするのは本当コワイですね。

だから私は常日頃から、自分は間違ってるかもしれない、自分は狂ってるかもしれない、自分はおかしいって思いながら主観でテキトーに喋ってることを強調しているのです。これは自戒の念も込められてるわけです。ほんとに。「正しい」って概念は危ないです、本当に。「好き嫌い」で生きた方がいいってマジで思ってて、私は完全なる主観でものを感じ、言い、動いてるだけですね、ほんと。

そもそも、自分の絶対的に嫌ってた考え方や価値観について、自分がめっちゃ好きになった人がそーゆーものを持っていて、その人から影響を受けて見方が変わっていくなんてことも多々あるわけです。

私がかろうじて自分について誇れるのは、人を毛嫌いするけども、めちゃめちゃ好きになることも、感化されることも多いってことです。誰かにどっぷり傾倒したり、感化されることでパラダイムシフトが起こるっていう経験、何度もしてるんで、今日の自分と一年後の自分が同じパラダイムを持って生きてる保証なんてどこにもないって体でわかってるんですよね。だから、本当に取り返しがつかなさそうなことなんて手を出しやしないし、自分が嫌いなことや嫌いな人についても好きになる可能性が多いにあると思ってるし、まだまだ知らない世界観があるっても思ってるし。

自分がハマったもの、愛した人、こーゆーのって年を重ねるほどに増えていくと思いますが、そのたびに世界観広がって価値観揺さぶられます。人生の面白さはそこにあると思っていて、生きていると、どっかで何かと交点を持つ、軌道が重なってクラッシュするときがある。そこから大きな変化が生まれるってのを何度も感じてきたので、私は割と未来に希望を持って生きてるタイプです。一番やっちゃ、いけないのは引きこもりだと思ってるんですね。

だから、書を捨てない、旅に出る、なんです。ナンパするんです。出会うんです。変なことやってみるんです。新たな怪しい風俗店に行くんです。外国人と絡むんです。笑

いつの主観も、自分のことを「暫定、自分」って思ってます。

 

本題戻りますけど、親子関係ってのは、お互いがなかなか、お互いの立場について理解し合えないものです。人間の素の部分に根付くことでもあるから、感傷的になって収拾がつかなくなったり、感情的に整理できなくなったりするのも当たり前。

だから、本当、こんなものは好きな人間がやるべきことであって、周りの空気に流されて子供作るとか私からすると狂気の沙汰ですね。とはいえ、そーゆー軽いノリや勢い、若さゆえの無計画ぶりがあるからこそ踏ん切りがつく場面だってあるだろうし、考えが深い親だからこそ良い親になって良い親子関係が築ける、考えが浅い親だからこそ悪い親になって悪い親子関係になるとは限らない。ぶっちゃけ、これは蓋を開けてみないとわからないことであって、結婚に関してもそうですが相応のリスクが伴う賭けです。運もあると思います。無計画、無鉄砲、いい加減でもすごいハッピーな家庭を築いてる人だってたくさんいるわけで、ビッグダディみたいなのとか、デキ婚とか、未婚の母みたいなものを取り上げてなんやかんや言うのはまず間違ってるでしょ。そんなのは結果論的な難癖であり、しかも一部の事例取り上げて統計上のバイアスを勝手に作り出してるある種の偏見であるわけです。まーまーまー、人間って傾向なり当てはめで喋る他ない部分もあるので、致し方ないっちゃ致し方ないけども。

 

今の段階で、親に対する自然な感情として、あまり感謝の念が湧かないってのはそれはそれでいいんじゃないでしょうか。もう少ししたり、いつか親になったり、親が死んだらしたらわかることがあるかもしれません。ないかもしれません。変に罪悪感を感じて自分を苦しめる必要は無いので、親と自分はまたまったく、別であるとある種の割り切りを持って自分の人生を生きるのみです。

でも、私はなんとなーく感じていることがあって、自分が世間的な普通と合わない場面を多々感じてきてるからこそわかることがあります。

たぶん、問題は私の内部にあるんですよね。

はいはいどうせいつものパターンですよね、僕がちょっと変なんですよね、って気持ちがあるわけなんですよね、どっかで。

こーゆー、親に感謝できない問題とかになると多くの人は親の教育がどうのこうのとか、世間の風潮がどうのこうのとか、外部視点で話を進めがちですが、少なくとも私に関しては、問題は自分の中にあると思ってます。

いかなる事情があっても、相当クレイジーな親に育てられてない限りは、誰もがそれなりに親に負担なら迷惑をかけてるはず、そして親に愛情を注がれたはずです。社会の一般論として、親に感謝しなさいとかゆーのは古今東西当たり前に言われてきた話であって、むしろその見解に多様性を持ち込んで、そーゆーのはパブリックな場で固定的に吹聴してまわっては禁止、みたいな社会になれば余計にクレイジーだと思いませんか。アメリカのあの、人種問題と似た面倒臭さと似たようなものを感じますよ。アメリカって、単に個人的な問題なのに差別問題を逆手にとってヒステリックに叫びまわる逆差別人間とかいるわけですがあんなん見てるとクレイジーすぎて。

豚に真珠って言葉がありますけど、やたらと個人の権利とか自由とか多様性とか認めすぎたら、絶対馬鹿がなんかやらかし始めるわけであって、日本みたいに同調圧力と刷り込みが強い国ってある意味健康的なんじゃないかとも思えたりするわけですよね。ほら、外行ってさ、綺麗に列作って並んでたり、マクドナルドでちゃんと使ったトレーを綺麗に元に戻してたり、スクランブル交差点を上手にかき分けていく人たちを見るたびに思うわけですよ。

親に感謝できない、って気持ちは明らかにマイノリティなわけであって、これについて声高らかに曲がった見解を人前で披露し、目先の人間を考えを揺らがそうとするのもどうかと思うわけです。あ、お気づきのように今これ、ブーメランね。ブーメラン。ブーメラン、ブーメラン、ブーメラン♪

私は低学歴ですけど、社会が高学歴を重んじて就職戦線で学歴フィルターをかけてるのは良いやり方だとマジで思ってます。また、親に感謝できてないけど、「親に感謝しろ!それが当たり前!」ってメッセージが広められてマジョリティに受け入れられてるのも良いやり方だと思ってます。

確率論というか傾向論で言えば、「高学歴」に良い人材が眠ってる可能性が高い、良い釣堀で釣りができると考える人事担当の発想はわかるし、「親に感謝する」っていう思想に共感を求めて、これに抵抗を示す人間を「ワケありか」と疑いフィルタリングブロックするってのもわかります。よーするに踏み絵ですよね。費用対効果を考えたマーケティングフィルタリングブロックなわけです。

仮に低学歴であっても本当に有能なやつはなんとしてでも這い上がってくるし、親に感謝できなくても別に大きな闇とか抱えてない人間は闇を隠してじょーずに生きてるでしょ。

っていうか、

「サラリーマンなんて働き方はちょっとおかしい」

「新卒一括採用なんておかしい」

「親に感謝、俺もちょっとできないかも」

って感じで、少しメインストリームから外れてるような感覚的自負がある「サイレントマイノリティー」みたいのは実は結構たくさんいて、でも、なんやかんや隠して上手に生きてるんだと思うんですよね、みんな。

「親に感謝できて当たり前です」

みたいな言説に対して感情的に反発する層と、ふつーに同調してくる層がいた場合に、後者に関してはもしかすると親に対して「?」を思ってるサイレントマイノリティーが隠れてるかもしれない。でも、こーゆー人たちはうまく世の中に合わせたり、立ち振る舞いを考えられる人だったりする。あと、人生がすごいうまくいってて、そーゆー瑣末な問題は割とどうでもいいって思ってたりする。

でも、「親に感謝できて当たり前です!」みたいなものに感情的に反発している層は、人生全般的にうまくいってなくて、そのイライラやストレスも主な原因として、感情爆発の原因になってるかもしれない。そーゆー理由で、こーゆー世の中のマジョリティパラダイムにいちいち食ってかかってる可能性だってあるわけですね。こーやって考えると、マジで世の中の常識の刷り込みや思想拡散って、ある意味、本当に優秀な「ホイホイ」なんじゃないかな、とか思えてくるわけですよ。

あ、繰り返し強調しときますけど私も親に感謝できないタイプっすよ。笑笑。

困ってるんだけど。笑

 

大人としての賢い振る舞いは、たとえ自分が親に感謝できない気持ちを持っていたとしても、目の前にいる酔っ払った昭和世代のおっさんが「親に感謝できないやつなんてのは人としてどうかしてる!!」なんて熱弁するのを、「おっしゃる通りですわ!」っつって同調しながら話半分に聞いとく、スルーするのが正解っちゃ正解だと私は思ってるタイプでして。そしてまぁ、こーやってある程度冷静に割り切れてる時点でそこまで毒親を引き当てたわけではないんだろーなーって思いつつ、「親なんて死んでしまえ!」みたいな過激な言説を披露してる人を見ても「あー、よほど大変だったのねー」としか思わないわけですね。

いや、私も親のネタに関しては感情的になった時期とか本当にありましたよ。でもね、人生の中で親ってのに関する頭の中におけるプレゼンスとか影響力が小さくなるにつれ、そして親との物理的接点なり精神的距離が遠のくにつれて、そーゆーのがなくなっていったんですよね。

仲が悪くなった夫婦が、離婚の前段階で別居ってのを選択するじゃないですか。あれって、一度、距離を置くことで感情的なシコリを取り除き、靄を晴らそうとしてるわけですよね。まず落ち着きましょう、みたいな。これ、カップルとかでもありますよね、距離置こう、ってやつ。

まぁ、距離置き始めた時点で大方、オチは予測つくわけですが、こーゆーのから学べるのってあると思うんですよね。長く続いてる夫婦でも、一度くらい離婚の危機に陥っているはずだし、長く1つの仕事を続けている人でも、一度と言わず二度や三度、逃げたい、やめたい、って思ったことがあるはず。

 

一度、距離を置いてみるってのは大事です。

何事もそうです。

ちょっと感情的に割り切れないとか、ストレッサーとして根付いてしまってるとか、難しいって思ってしまうことは放置して忘れるといいです。アインシュタインは問題が解けないときはピアノを弾きに行きました。

問題というのはそれが生じた時点での思考ルートを繰り返してる限りでは解決に至ることはありません。わかんねーことはわかんねーのだからとりあえず放置してみましょう。世界トップクラスで、入り組んだ問題に取り組んでいる政治という世界でも、先送りってやつは頻繁に使われる手法です。

西園寺的には、親に感謝できない問題は先送りしまくってます。

 

北朝鮮問題みたいに塩漬けが仇になるのでしょうか。

でも、北朝鮮問題もあれはあれで、塩漬けせざるを得なかった事情があるのかな、っては思いますよね。中国との関係もあるし、軍事行動って本当に慎重にやらないといけない。核を持たせて調子に乗らせたら大変なことになるけど、事実世界には核を持ってる国がたくさん存在しまくってるわけであって、相互抑止、相互信頼で成り立ってしまってる部分はある。問題は北朝鮮が自爆的な行動をとるかどうかであって、死にたいと思ってる死刑囚に死刑という刑罰の犯罪抑止効果が通用しないのと同じように、自爆することを恐れてない国に対してのアプローチは難しい。だから相手の腹の中を探る必要があって、挑発したり警告したり、経済制裁なり揺さぶりをかけて反応をみながら相手の動機を探り、今後の手を考える、、、、ってのは政治の世界で行われてるわけですよね。で、今の北の反応を見る限りは、やっぱり自滅は避けたいわけであって、上流階級はそれなりの暮らしや家庭があるから、だからこそあまり締め付けすぎず、程よく肥えさせ、上の連中たちに失う恐怖を学習させつつ、世界共通的な価値観や文化、欲望、交流の価値や意味に徐々に気付かせ、前提や基本の共有ができるステージにまで北を引き上げてから、いかにして体制を弱体化、腐敗化させるのか……

みたいなことを、北と対峙してる人間たちは思ってそうです。

 

西園寺さんの親に感謝できない問題先送りの件についても、まさにこれと同様に深い考えがあって………

とか言いたいところですが、まったく考えはありません。

はい。笑

 

とりあえず感謝の念が自然に湧いてこないのだから、それはそれでもう、事実として、今のところは受け止めておるわけです。

まー、でもね、私の場合はある程度、自分の気持ちについてわかってます。

親に対する感謝というよりも、親を見てきて自己犠牲の姿とか、そこから感じた申し訳なさとか、そーゆーネガティブベースの気が滅入る感じなんすよね。なんか、関わると疲れるっていうか。子供のためにこれだけ消耗してます、疲弊してます、私は大変です、苦労してます、みたいなのばっかりがチラつく。

元気と覇気が奪われるっていうか。で、親を憎悪しまくってるとかそーゆーのではなくて、微妙に感謝してるから余計にタチが悪い。

 

でも、自分っていう人間に関しては、堕落してんなぁ、甘えてんなぁ、終わってるなぁ、って思ってきたことは少なくないので、まー、自分がおかしいのかな、よくわかんないな、、、、って思いながら、今日もハイテンションで女の子と電話したりするわけです。

「結婚しないの?」

とかよく言われるんですけど

「できる気がしないし、向いてる気もしないわ、、、、」

って言うと、

 

「全然そんな風に見えないけどね」

とか言われます、男女両方に。

 

私、生きてて常につきまとう苦しみなんですが、「嫌なんだけど」「できちゃう」ことが結構あって。だから苦しむことも多くて、中途半端に。

たぶんね、普通のフリして普通に生きるのはできちゃう。技能的にできちゃう。

でも、どこかで感情的に割り切れなくて限界がきちゃう。

 

つくづく、CanとWantは違うものだなって思ってます。

そして世の中にはMustっていう3つ目の変数も絡んできます。

Neededもありますね。需要ってか求められるってか。

 

上手に生きるってことは、

Can,Want,Must,Neededの間で折り合いをつけることです。

一見、Mustに思えて本当はMustじゃないものをMustだと思い込むと人生は苦しくなりますよ。

私から言わせるとMustってのは

「殺さない、盗まない、犯さない(よーするに警察のお世話にならない)」

「納税」

のことだと思います。日本国民の三大義務(納税、勤労、教育)ってありますけど、あれ納税以外、嘘でしょ。Mustじゃないでしょ。親に感謝しなさいもMustじゃないでしょ。

このMustと非Mustを見極めて上手にこなす力を人はバランス感覚とか教養とか常識感覚と呼ぶわけですが、西園寺さんはこのあたり定評があります。

 

ちなみに、Wantは「働きたくない、拘束されたくない、不自由になりたくない、エロいことしたい、美女と戯れたい」です。新しい知見や景色を得ること、旅すること、学ぶこと、などもWantですがこれはどちらかというと派生的に生まれてきたものですかね。

 

問題は、Neededと、Canですよ。

これがわかってないと、経済的不遇に押し込められらことになります。ご覧のように、西園寺さんは経済的には恵まれておりますので、ここらへんの判断が大きく狂ってはない、というのはひとまず証明されているのではないかと思うのです。

自分に何を求められているのか。Needed。

これは、社会を受け身で観察するだけではなく、積極的に働きかけることで返ってくるレスポンス、求められるようになってくることなどを収集していく必要があると思います。

そして、Canについては、これはただできるのではなくて、上手にできる、速くできる、効率よくできる、的確にできる、違ってできる、優れてできるのが好ましいですね。いわゆる強みってやつでしょうか。

 

NeededもCanも、実は、外界と積極的に接していき、フィードバックループを回して行かない限りはなかなか見つからないものです。テレビ番組のように、「宛先はこちら!僕の才能に気づいた方はこちらまでドシドシご応募下さい!お手紙待ってまーす!」と言わんばかりに、自分というものを他者にぶつけまくったり、いろんなことをやりまくってたらいろんな気づきが得られるようになると思いますよ。特に若いうちは柔軟性も高く、成長の伸びしろも大きいので、いろいろやってみてそれが後々大きな違いを生むこともあると思います。


===

西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。