#1 生きる目的は自由の獲得である

つらつらと、人生哲学のようなものを語ってみようと思う。

なぜかわからないけれど、私の元には、「人生全般」という枠で相談が来ることが多い。これは、オンライン・オフライン問わず、だ。

どうやら、西園寺という人間が、世界や社会、そして自分自身や人生、お金というものについて、総合的な理解を踏まえた上でバランス良く生きているように見えるから、らしい。独自の哲学・世界観を元に、上手に生きている人間っぽく映るかららしい。

 

確かに、一通り、人並みの苦労はしてきている。

世帯年収は平均以下の家庭で育った。田舎で育った。

学歴はほぼ無いと言っても良い。Fラン以下の大学出である。

才能があったわけでも無い。

スポーツで突出していたわけでも無い。

今はもう覚えていないけれど、高校生の時には酔っ払った勢いで「もう人生辞めたい」「死にたい」とか愚痴っていたこともあるらしい(最近、昔の知人に言われて、当人=私は覚えていなくてびっくりした)。

 

つまり、まぁ、もともと上手に生きれていた人間では無かったのだ。

 

人とのコミュニケーションの中で苦労したことはたくさんあるし、

友人関係や恋愛でコリゴリした経験もある。

騙された経験もあるし、

散々自分探しをして彷徨った経験もある。

不安で押しつぶされそうになった経験もあるし、

「自分の人生は何なんだ」と思うほど不自由な支配下で生きていた経験だってある。

 

一つだけ幸いだったのは、バカだったこと。

我慢できなかったこと。

自分の心に従わないで生きるのができなかったこと。

 

だから、今のように、朝起きて「何しよう?」と考えるほど自由な生活に移行できたのは、望んで(=WANT)そうなったという部分もあるけれど、これ以外道が無かったと言うこともできる。

もちろん、人は人生経験を積めば幅が広がる。

諦めも増える。

すると、どんどん尖りが消えて、柔軟にもなるから、(年齢制限や経歴制限に引っかからない限りは)選択肢が増えるということもある。意外だけれど。

 

とはいえ、基本的に、私のような人間は「選択肢が無かった側」の人間だったと思う。

だからこそ、機会損失(=オポチュニティーコスト)も無かった。すなわち、東大生のように、「霞が関で働くのと、レールから外れるの、どっちが良いだろう?」とか悩む必要が無かったのだ。これはかなり重要な視点だと思っていて、人それぞれオプションが違うのだから、この点を抜きにして人生は語れないと思う。

人生の幸福度や、勝利度合いを追求していくにしても、人によりオプションが違うことを考慮にいれておくことは大事だ。

 

私個人としては、人生の目的は「自由」にある。

今、「今後どうやって生きたら良いのだろう?」とたまに考えることがあるが、それはすでに、自由を獲得してしまったからである。目的を達成してしまったからだ。

それ以前は、常に不満を抱え、理想を夢見て、がむしゃらに頭をフル回転させていた。そういったことを考えても、私の人生は「自由」を得るための道のりだったのだと思う。

なぜ自由を求めたのか。

それは、「不自由を感じていたから」、の一言に尽きる。小さい頃はもっとお小遣いが欲しい、もっとお金持ちの家に生まれたかったと思っていた。クラスメイトの中でスポーツができたわけでも喧嘩が強いわけでも、社交上手でも人気者だったわけでも無いので、何となく肩身の狭さを感じて生きていた。一定の年齢になってからは人間関係でも苦労するようになった。

そして、学校の先生や親から「将来を考えなさい」と言われる。それとセットで「とりあえず勉強をしておきなさい」と言われる。将来的な道筋も決まらないまま、社会のことや勉強の意義について教えてもらえないまま、考える猶予も与えられないまま「これをやれ」「あれをやれ」と言われる。そして、目前のレースで勝てないと将来は無いと脅される。

とにかく嫌だった。

だから、そういう不自由から吹っ切れるために、高校に進学する際には超低偏差値の自由な学校に決めた。そして、名ばかり高校生の生活を送った。社会に潜り込んで、いろんなところを覗き込んだり、働いたり、年不相応なことをたくさんした。お金もたっぷり稼いだ。だって、学校ほとんど行かなかったから。

 

いろんなことを経験した挙句、一つ、決定的なことに気づいた。

それは、金、である。

お金欲しさ、つまり行動の自由欲しさに仕事を始める。お金があると、例えば物理的な制約から解放される。例えば、自分の足で動くには限界があるけど、タクシーに乗れば遠くに行ける、とか。そういう自由を求めて、お金を追いかける。ところが、お金を追えば追うほど、お金をくれる先である組織から自由を奪われてしまう。

定時に出勤しなさい。定時から定時まで働きなさい。あなたの仕事の範囲はここまでです。この範囲で仕事をし、責任を取りなさい。こういう振る舞いができるようになりなさい。お客様の前では笑いなさい・・・・・。

お金を得て、休日には自由の範囲が拡大した。その一方で、別の場面で自由の拘束が増えたのだった。不自由になったのだった。そして、ある時気づいてしまったのである。

稼いでも不自由、稼がなくても不自由。

それだけじゃあない。親に食わせてもらっている内は良いけれど、このまま社会に放り出されたらどうなる?待っているのは高い生活費、税金、社会保障費、それから将来を見越した節約・・・・・。どう考えても、大人になるというのは地獄の道に見えた。実際、大人たちから話を聞いても、大人になることに良いことは無さそうに思えた。

 

となると、当然、気づく。

お金さえたんまりあれば、働かなくて済む。

巨額のマネーさえあれば、自由が得られる。

 

紙幣や硬貨が、印刷された「自由」であることに気付く。これが鋳造された「自由」であることに気付く。馬鹿だったから、どれだけの稼ぎが得られれば、どれだけの貯金が得られれば自由になれるかなんて厳密な計算はしなかった。ただ、シンプルにこう思った。

とにかく、たんまり稼げば、自由になれるのではないか。

そして、もう一つ思ったのは、組織で出世することにより、得られる自由だ。何らかの組織に属して働いていると、ヒエラルキーの存在を感じる。上の人間から指示をされたり、無茶を言われるようになる。すると、上の人間たちには自由があるように見える。だから、何かしらの組織に入り、ハシゴを駆け上がることで自由は得られるのではないだろうか。

 

ということで、ティーンの段階では、

  • たんまり稼ぐ
  • 出世する

ことの2つによって、自由が得られるのだろう、生きやすくなるだろうという見解を持っていた。

後に、この認識は覆される。偉そうな人たちと本音トークを交わしていれば、彼らは彼らなりの不自由に苦しめられていることに気付くのである。そう、小学生でも、中学生でも、高校生でも、常に異なる不自由を感じていた自分のように。

 

何かがおかしい。

貴族になれるとは思わないけれど、何か、この世界はおかしい。そう思った私が、文献やら書籍やらを漁るようになったきっかけ、そして後の勉強漬けの生活を送るようになったきっかけはそこにあった。何かおかしいという疑念の気持ちと、どこかに攻略法というか希望があるのではという好奇心、そして自分の将来の道筋を決めなければという焦りから来るものであった。

結局、私は、起業という道に光明を見出す。

起業して、人を雇い、人を使って収益を上げてしまえば、自分は自由になれる。事業のリスクはあるけれど、雇われる人生に伴う苦労と比較すれば、致し方無い。何より、学歴競争レースですでにドロップアウトして、「負け組確定」と思い込んでいた自分にも、大きく稼げる道があるのだと知れたのは朗報だった。個人的には、自由になれれば、そこそこの稼ぎで良いという感覚だったけれど、どうやら起業というキャリアには大きな自由と大きな金銭的報酬があるらしい、とのことだった(by自己啓発本)。

 

何となく、将来の目標が無い自分が怖かった。

ビジョンが無い自分が怖かった。

だから、そうやって、漠然とでも道筋が見えたのは安心感につながった。

何より、そこから自分自身が変わった。全く勉強をしなかった人間が、ガリ勉をするような人間に転身したのだった。リスク嫌いで保守的な人間が、チャレンジ志向に変わった。目標というか、目的を持つことのパワーは侮れないと思う。欲を持つことの力ってすごいと思う。

 

さて。

ざっと、自分が自由を求めるようになった経緯について書いてみた。

つまり、自由というのは「制限からの解放」であって、私がそれに強く憧れたのは、育ってくる過程であまりにも「制限が多かったように感じた」からだった。もし、そういう制限を感じず、のびのびやれるような環境で育っていたら、心境が自由だったら、むしろ「支配」を求めに行ったかもしれない。

実は、人間は結構、支配を好むものである。自分で考えたく無い、自分で決めたく無い、誰かに流されたい、すでにあるものに乗っかりたい、輪に入りたいと思う生き物なのである。

でも、私は支配を求めに行くことは無かった。

自由を求めるようになった。

 

自由とは、思うがまま、ということである。

制限を与えてくるものには、いろんなものがある。例えば遺伝的制約、身体的制約、能力の限界、物理的制約、金銭的制約、常識、規則、ルール、国家・・・・・・。

支配の原理や仕組み、パワーはそれぞれだけれど、ざっとこういうものが挙げられる。

 

まず、私は、自分の遺伝的限界を超えなければならないと思った。先天的な制約から解放されなければならないと思った。能力的な制約から解放されなければならないと思った。

親や親戚の価値観、ポリシー、考え方から解放されること。そして、自分自身にひたすら投資をすること。勉強をすること。学ぶこと。向上心を持つこと。

できないことができるようになること。チャレンジする、失敗する、学習すること。

 

そして、常識や当たり前から解放されなければならないと思った。人目を過度に恐れないこと。人と違うことやっても良いんだと思うこと。勇気を持って変な道に行くこと。みんながしていることについて、していなくても不安にならないこと。そのうち、周りの友人に影響されてはいけないとか、周りの大人たちの説法に耳を傾けてはいけないとか、そういう風に考えが及ぶようになっていった。

 

当然、物理的制約、時間的制約、人間関係の制約を越える方法についても考えるようになった。調べるようになった。どうして良いのかわからないし、アイデアも全く無かったけれど、なぜか漠然と信じていた。多分、そうやってでも信念を持たないと、生きる意義が見出せなかったのだと思う。自分の人生に希望が持てなかったのだと思う。

 

自由を目指すことは、思いもよらない恩恵を与えた。

それは、社会なり、世界なり、自分なりについて調べたり学んだりする動機を自分に与えたのである。当の本人は、その渦中では全く気付かなかったけれど、私が自由を求めて努力する家庭は私が嫌っていた「不自由」の姿そのものだった。友人関係を節約したり、恋愛を節約したりしつつ、必死になって勉強をし、仕事や仕事を通して得られる人間関係、人付き合いを介して得られる情報収集に夢中になっていた。今思えば、ただの修行僧である。かなりストイックな人間だったと思う。

なぜか知らないけれど、自由を求める過程でどんどんと何かに迎合していった。親、友人、恋人のような、プライベートを節約し、どんどん社会的な何かに迎合していきながら、これまた社会的な尺度に照らし合わせた自分の中の能力を伸ばすようにひたすら研鑽する。

ただの努力家である。全くもって自由じゃ無かった。しかし、当の自分は不自由を感じていなかった。

 

学校へ行く。

何かを学ぶ。

職場へ行く。

こういうものは自由を阻害する。そして、人を支配するものである。そこには我慢があり、苦役があり、人間関係があり、時間と場所的な拘束が存在する。そして、自分が他者と比較されるから、自分のダメっぷりを感じ、劣等感も感じる。そこで、自分の先天的能力に伴う制約を感じる。不自由だらけの世界だ。

でも、なぜ人はそこに向かうのか。

それは、何かしらのプラスがあるからにならない。そして、学校や職場において、不自由が存在し、支配的になるのは、みんなが協働するからだ。集団で活動するから、他者と足並みを揃える必要があるのである。

逆に言えば、

  • 学校に行かないでも学ぶ方法がある
  • 職場に行かなくても給与を得られる方法がある

のであれば、寂しがり屋で無い限りはそういった場に出向くことも無くなるのであろう。あるいは、「あまり不自由を感じない職場」で働くことができれば、それほどストレスは感じないかもしれない。

大人になって気付いたことだけれど、学生時代の不自由を甘受しながら、それなりの高い学歴を得ていれば、職業選択に幅が出てくる。すると、職場を選びやすくなる。不自由を感じない職場にアクセスしやすくなる。こういう視点は、若い頃には全くなかったけれど、「一定期間の不自由を耐えることで、将来的に自由が得られる」という法則は、あちこちで機能しているんだと思う。

 

さて。

ここまで色々書いてきたけれど、私は、自由について基本原理を体得していると思う。

自由の本質を理解していると思う。

 

結局のところ、人が自由に振る舞えないのは、「他者」の存在があるのだと思う。他者に勝てないから、良くない職場で働かざるを得なくなり不自由になる。お金を使って他社の力を借りられないから、好きなものを得たり好きな場所に行くことができなくなる。他人の目が気になるから、自由に振る舞うことができない。常識から外れて嫌われるのが怖いから、自由になることができない。

気分とかノリとかの次元で言えば、アメリカなんかだと「他者に良い意味で関知しない」という空気がある。だから、気分的には自由を感じやすいかもしれない。日本だと全然やっていけなかった人が、向こうでは自由を感じ、すんなり立派なサラリーマンになることができた・・・なんて事例は昔から結構あると思う。

また、人は、誰かのことを愛したり、好きになれば、多少の不自由にはビクともしなくなる。そういう意味で、「好きなものに没頭する」というのは、形式的には不自由かもしれないけれど、心情としては自由だ。結局、何をどう思い、どう感じるかは本人次第なので、没頭できているというのは自由があると言える。そういう意味で、簡単に洗脳されやすいと生きやすいかもしれない。カリスマ経営者の元で働き、「仕事でしか人は存在価値を確かめられない!」「お客様のために休みなく働くことが人間の幸せ!」みたいなことを刷り込まれて、本当にそう信じることができて働けるのなら、その人は多分自由だと思う。ブラック企業という言葉が市民権を得たけれど、何がブラックかは人による。6時間働いても辛い仕事があれば、12時間働いても辛くない仕事だってある。一概に何がブラックだ、と言うことはできないと思う。

 

だから、一つコツは、好きなものを見つけることだと思う。没頭できることを見つけることだと思う。没頭の中で、社会的な評価や金銭的対価が生まれれば、仕事として成立するし、キャリア形成もできる。きっと、これ以上幸福なことは無いと思う。暇すぎて死にそうになることも無い。リタイヤ生活を体験している身としてこれだけは言えるけれど、暇すぎる人生はマジで鬱になる。ほら、警備員のバイトもかなりキツイって言うだろう。暇すぎる仕事はキツイのである。

自由が欲しい人は、ぜひ、没頭できることを見つけて欲しい。

 

 

そして、もう一つの視点。

それは、人気と権力である。

 

もし、あなたにとてつもなく人気があったとしよう。あなたが歩けば人が群がり、あなたが何かを勧めれば一大ムーブメントが起こる。あなたが話す場所、あなたが踊る場所、あなたが歌う場所には常に人が押し寄せる。こういう人たちの生活は、自由だ。きっと、自分自身で人生をコントロールしていけるに違いないし、たくさんの需要があるからこそ、自分にとって好きな選択肢を選べる。多少の無茶だって通るだろう。

そして、もう一つは権力。あなたに権力があれば、嫌な仕事は他人に投げられる。多少、変なことをしていても偉い人だから見過ごしてもらえるかもしれない。仕事をするにあたっても、自分の意見が通りやすくなるし、発言権だってある。何より、スケール感がデカイ仕事ができるから、面白みもあるかもしれない。

 

人気と権力というのは、人間関係を理解する上ですごく重要な視点だと思う。この2つのどちらか、あるいは片方があれば、人間として尊重されることになる。優先されることになる。他者がそれに合わせて動いてくれるようになる。

あるいは、人気と権力によって換金したマネーを用いて、プライベートで自由が得られるかもしれない。

 

人気商売という言葉がある。

例えば、キャバクラや風俗店などで、すごく人気を集めている嬢は融通が効くことが多いと思う。予備校の先生なんかも、かなり人気で使命が入っていれば融通が効くかもしれない。人気の歌手は、一時期バーンと売り出して、しばらく休んでということができるかもしれない。人気の飲食店は、店長の気分で休みを取ったとしても、行列が絶えないかもしれない。人気の芸能人は無茶苦茶に振る舞うけれど、それでお金がもらえてしまうかもしれない。

・・・・・・でも、考えてみて欲しい。

そもそも、人気なるものはなぜ存在するのか。それはきっと、他者に対して何かしらの奉仕をしているから。あるいは、普通の人ができないことをやってのけている人だから。あるいは、他の人がしないことをしてあげているから。誰かを喜ばせているから。誰かを感動させているから。誰かを救っているから。誰かの手助けをしているから。

そうではないだろうか。

 

また、権力に関してもそう。

権力がある人たちは自由に振舞えて良いと思うかもしれない。しかし、そこにはプレッシャーがつきまとう。言われた仕事をただこなすだけではないプレッシャーがあるかもしれない。権力の代名詞と言えば政治家だけれど、政治家はいきなり無職になることだってある。貴族みたいな生活をしている人たちも、あれこれイベントに駆り出されたり、プライベートを制約されたりして大変だ。会社組織でお偉いさんになっている人も、若い頃に無茶苦茶苦労して組織に貢献していたりする。創業メンバーとして相当なリスクを背負ってきた過去があるかもしれない。ものすごい出世競争に勝ち抜いた人なのかもしれない。

 

そもそも、人気にしろ、権力にせよ、それを得るためにものすごい下積みする期間があったり、投資する期間があったらどうだろうか。ものすごい競争をくぐり抜けて疲弊していたらどうだろう。すごく頑張ってきた歴史があったらどうだろう。結局、総合的に見て、その人の自由度合いはどうなんだろうという気がしてくる。

 

こうやって考えていくと、結局、本当の意味での自由は、

  • 才能
  • 特権
  • 没頭

にあるような気がしてならない。才能があって、アレヨアレヨという間に高みに登った人。あるいは生まれた時から何かしらの特権があった人。

そして、最後が凡人の私にも解放されている「没頭」という世界。好きなことをやっていたら、自由だよね、という世界。それが好きで楽しかったら、そこに自由はあるよね、という世界。

 

与えられた仕事をこなす世界と、自分で仕事を創っていく世界という視点もある。人から仕事を振られる立場なのかどうか、それとも自分で仕事を創っていく立場かどうかというのは、自由に対して大きな影響を持つ。

人によっては、後者の方が自由だと感じるかもしれない。

でも考えてみて欲しい。自分で何をやっても良い、何をどう決めても良いからこその不安やプレッシャーというものが存在する。スケジュールを決められない、上から指示・命令が降りてこない世界というのは、それなりに辛いものがあるのだ。社長にしろ、芸術家にしろ、作家にしろ、そこには孤独があると思う。

そして、何かをやれば成果が約束される世界ではない。働き方が自由だからと言って、そこに社会的な評価が伴わなければどんどんと自由は奪われていってしまう。生活に弊害が生まれてきてしまう。人並みの生活すらおぼつかなくなっていく。

 

生活力が無ければ、実家すら出られないかもしれない。そこには自由が存在しない。

万が一結婚をしたとしても、不自由の連続かもしれない。自分が結婚したいと思った相手と、生活力の観点から結婚ができない現実に打ちひしがれて、不自由を感じるかもしれない。

かといって、一人暮らしが自由なのか?結婚生活が自由なのか?というのは甚だ疑問である。

 

こうやって考えると、自由を得る難しさ、とは、並大抵のものではない。もはや、自由とは何なのだ?という気すらしてくる。

もしかすると、この世界のどこにも、自由なるものは存在しないのではないかとすら感じてしまう。

 

幸福を求めて、友人関係を持ったとしよう。恋愛をしたとしよう。結婚を持ったとしよう。すると、その先は必ず代償がある。人間関係が複雑になればなるほど、そこに自由は存在しないのである。人との関わり、接点を持てば持つほど、自由が奪われていく。

自由になりたくて、起業などをした場合も同じではないだろうか?他者から資本を注入してもらったり、関係者を巻き込んだり、人を雇ったりしていけばいくほど、人間関係が増えていく。自由がどんどん奪われていく。

 

友達なんていらない。

恋人なんていらない。

結婚なんてしたくない。

人と接しない仕事がしたい。

自宅でこもりっきりが良い。

そういうのも全然、良いと思う。アリだと思う。そして、現代はそういうことが通りやすい時代だと思うし、都会にはそういう自由人が集まっている傾向にもあると思う。

 

結婚式、葬式、入学式、卒業式、同窓会、後援会、運動会・・・・・。

こういうものが、私は昔から大嫌いだ。大嫌いというか、疑問で仕方無かった。なぜか、強制的に徴収をかけて、時間と肉体の自由を奪う。無言の圧力・プレッシャーが伴う。宴会、イベント、お祭りの類もそうである。

ただでさえ、生きていればいろんな自由が奪われる。にも関わらず、どんどんとこういうイベントが積み重なってくる。大変だ。しかし、世の中はそういう場所なのである。そういう場所が世の中なのだ。

 

結局、人がなぜ群がるのかといえば、群がってしかできないことがたくさんあるからだ。みんなが一致団結する必要がある。この社会はチームプレイだ。チームで活動しないと、チーム全体が不自由になる場面がたくさんある。世の中のほとんどの人にとって、チームプレイをしていた方が、都合が良いのである。チームに属して支配を受ける不都合よりも、チームに属して得られる恩恵の方が多い人が多い。それが世の中である。何より、人間は一人でできることに常に限界がある。

組織で働けば、常に不自由だ。

その組織が大きくなればなるほど、不自由だ。

大きな組織であるほど愚鈍であることを理解する必要がある。合意形成、根回しに時間がかかる。理不尽、無駄な作業、時間の浪費。こんなものばっかりである。思った通りに事が運ばない。自分の意見は通らない。人を一人変えるのも大変なのに、組織を変えるとなると余計に大変である。

自由になろうと思って、組織の中で動きを起こしたとする。変な働きかけをした結果、風当たりが強くなって余計に不自由になる・・・なんてこともあるだろう。

要するに、よほどのスーパーマンでない限り、個人では集団を変えられない。抵抗に遭う。潰される。

 

自由に発想する。

自由に行動する。

これは、常に他者との摩擦を引き起こす。問題を起こす。困難を呼ぶ。

 

冒頭、自由とは、「自分の思い通りに生きること、思い通りになること」だと述べたと思う。

でも、自由というのはすごく、多面的な捉え方ができることにもお気づき頂けたと思う。

 

主観的に見て、自由とは「私にとって」どうなのか。

客観的に見て、自由には何が必要か。

そういうこともよく考えなければならない。

 

本質的には、自由を阻害するのは人間関係であるから、他人の資源、他人の力、他人の協力、他人のマネーを使わない方向に行けばいくほど支配から解放されるけれど、その先が自由とは限らない。

自給自足で、自分で家を創り、自分で生活環境を整える生活が自由だと感じる人もいれば、そうじゃないと思う人だっているだろうしね。

 

月給10万円を、何かしらのネット事業で稼ぎながら、海外の田舎で自給自足をするような生活だって、不可能ということではない。そして、そこに自由を感じる人もいるだろうし、そうじゃない人もいると思う。

もしかすると、自由を求めている人は、本当は「権力」や「人気」を求めているのかもしれない。すなわち、みんなが乗っかっているレースに参加して、大勝利を収め、集団のトップに立ちたいのかもしれない。あるいは、自分の発想、自分のアイデア、自分の能力、自分の創作、自分のノウハウ、自分の経験に人気がついて、値段がついて、人からチヤホヤされる状態を目指したいのかもしれない。つまり、自由を求めていると言いながらも、実は社会的評価を求めているのかもしれない。バリバリ、社会に迎合したいのかもしれない。

 

さぁ、あなたにとって、自由とは何だろう?

そして、あなたにとって、最も自由が得られやすい道はどこだろう?


===

西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。