【B’zダサい論争】 B’zはダサい、B’zファンがどうして気持ち悪いのかを、「言語化」する

 

言いたいことがすごいわかる。

 

これは、同じ時代、Mステを共に彩ったサザンと比較するとよくわかる。

 

サザンはオヂの代名詞とされることもあるが、桑田さんが二枚目ではなく、おちゃらけ。ファンもその前提。

しかし、B’zは違う。

 

ダサさとは、「かっこいいと思っているもの」へのズレで発生する。

 

一番ダサい時というのは、カッコつけてるけどカッコよくない時である。

 

カッコいい前提が

カッコよくない時がダサいのであって、

 

「カッコいい前提」が無い時は、

ガチダサにはなかなかならない。

 

 

これは、B’zの大衆性と関係がある。

 

B’zは、稲葉さんのルックスありきである。

稲葉さんのルックスが最強すぎる。

顔が良すぎる。

外見が良すぎる。

 

かっこいい人が何かをやれば、全てカッコよく見える。

 

 

大衆は、稲葉さんのように、

  • 外見が良いわけでも
  • 地位があるわけでも
  • 名誉があるわけでも

無いのだ。

しかし、全てを持っている稲葉さんが、弱い大衆・弱者の心の代弁者として優しい歌詞を歌ってしまう。

そして、そこには大衆性・普遍性がある。だから共感を呼ぶ。

 

B’zは稲葉さんがかっこいい。女性ファンも多い。だから、

B’zが好きだ

と公言しても、応援しても、大丈夫だという安心感がある。

 

だからダサいのである。

 

つまり、大衆人気と稲葉さんのかっこよさに誤魔化された「大衆性=ダサさ」が詰まっている。

言い換えると、あの歌詞を、稲葉さんじゃない人が歌っていたらどうか?

気持ち悪くないか?ということだ。

 

優しすぎるのだ。

 

 

 

カラオケで35歳、40歳を過ぎた人が、新卒年代、学生年代もいるような場で、B’zを全力で歌った時、キツく無いだろうか?

これは、新卒や大学生が、インターン先の忘年会で40代、50代、60代がいるのに「ギリギリダンス(はいよろこんで)」とか「怪獣の花唄」「シンデレラボーイ」とかやるような違和感に近い。

 

ウルトラソウルなら、まだ、騒ぐ系の要素があるから良いが、

割とその他のB’zの名曲は、

「カッコよく熱唱系」

になってしまう。

 

ファンでも無い、世代でも無い人からしたら、辛い。

 

 

同世代や同好の志の集団なら勝手にしろ、だが。

 

 

実際、周りの空気に対する感度に敏感な芸人たちでも、B’zを好むタイプの人はいない。

彼らはプロだから、稲葉さんの真似を、イケメンじゃ無い人がやると痛いと知ってるのだ。

一方で、霜降りせいやのようにサザン好きを公言する、歌うタイプはいる。

また、トレンディエンジェル斎藤さんのように、「悪ふざけ」でGacktを歌う、キャイーン天野みたいに「嫌味のない歌唱力」でGacktを歌う、とかだと成立する。

 

でも、B’zとなると、ややガチとなるから、痛い。

 

 

 

あいみょんみたいに、超絶美人とは言えない女性シンガーソングライターが、ギター一本・マイク一本で成り上がって、生き様カッケェ・・・

 

ではないのである。

 

B’zにはあの圧倒的ルックスがどうしてもある。

 

稲葉さんという、多少アイドル性がどうしても混在してしまう圧倒的ルックスの人が、いわゆる「ロック」の顔を被りながら、めちゃくちゃポピュラーミュージックで、大衆の心の弱さや日常に寄り添う歌詞を歌い上げる。

それを、

「一般人達がワラワラ」

と群がっている。

 

それがダサいのだ。

 

一部の人からしたら。

 

 

稲葉さんは歌はうまいが、日本で一番うまいわけではない。

玉置浩二と比較すれば、玉置浩二の方が圧倒的で、圧倒的ボーカリストである。

 

 

稲葉さんもかなりうまいのは間違いない。

しかし、B’zは、アイドル性やルックス性が否めない。

 

実際、

「日本で一番売れたアーティストはB’zです」

(事実)

と言われたら、「え?」と思う人もいるだろう。

 

そんなに!?と思う人もいるだろう。

 

 

要は、

稲葉さんというハイスペが、

大衆雑魚に歩み寄りすぎなのである。

 

そして、これを応援してるおじさんたちが、

「かっこいい」

とする構図が気持ち悪いのだ。

 

 

誤解のないように言うと、稲葉さんはどう考えてもかっこいい。

外見もスペックも素晴らしい。

 

しかし、その音楽性と、そこに群がるファンや彼らが作る空気、というか事実上、ほとんどファンの問題、そこにつきまとう大衆性だ。

 

何歳になっても

いつまでも

私も刺激されました

 

と言っている構図は、矢沢永吉の動画に、「永ちゃんに元気をもらいました!まだまだ若い奴には負けてられないね!永ちゃんは若い奴らに負けないよ!アウェーに出ても輝くね!」みたいなことを言ってるコメントをしている中高年を見て、若者が

気持ち悪い

と思う感じに似ている。

 

例え話に、近藤真彦とか、中森明菜とかをいまだに持ち出す人の気持ち悪さに似ている。

 

 

要は、B’zという、日本で最も売れ、デビュー当時から商業的成功を狙ってきた、ボカルの外見性と、大衆へ寄り添う歌詞力の高さゆえに、それに持ち上げられてしまうおじさんたちは、

ちょうど、田中みな実ファンの中高年美容家女性や、

宝塚ファン、

旧ジャニファンと同等の気持ち悪さを、

感じる人は感じるのである。

 

 

サザンオールスターズが強いのは、

  • おちゃらけ
  • すけべ
  • 悪ふざけ

みたいな感じがあって、2枚目キャラではないところだ。

それでも、意外と泣かせる、いい曲歌う、そういうところが良い。

 

一方でB’zは、

還暦の稲葉さんカッコいい

に連帯共感するようなファンコミュニティなのだ。

 

「森高千里はいつおばさんになるんだ?」と言ってるおじさんたちと同じである。

ひっくるめて、おじさんとおばさんである。

若い層から見たら。

 

 

 

正直、ポピュラーミュージックにつきまとう問題である。

 

 

 

品の良い人、

ハイスペックな人、

社会階層が高い人は、

オーケストラを好んだり、

ポピュラーミュージックでもそれこそサザンを嗜んだりするが、

(例えば岸田文雄はサザン好き)

40過ぎて、

 

稲葉さんカッコいい

とか

若い頃の思い出をひきづる形で

応援してる人たちは、

 

「カッコいい」

「若い頃の思い出」

 

をひきづってその感性を持ってる時点で、

ハイスペでもないし、

どこか未成熟な部分を抱えているところがあるだろう。

 

 

少子高齢化社会だから仕方ないが、

  • ガクト
  • 福山雅治
  • 稲葉浩志

というのは、年齢だけ考えると、一般的にはもうガッツリおじさんなのである。

そして、同じ時代を生きてきた人たちも当然そうである。

 

そのため、ある程度の年齢を過ぎて、

こういうものにのめり込み、

ファン魂を全開にして、

布教活動したり、

人前でわーきゃー騒げば、気持ち悪いと思われても仕方はない。

 

 

 

 

中田敦彦や、

B’zにつきまとう批判は仕方ない。

 

薄めたカルピス、

中途半端さ、

大衆性、

こういうものはつきまとうのだ。

 

 

 

AKBやEXILEの

「音楽の商業化」

に対して気持ち悪さ、批判の気持ちを持ったことがある人はいるだろうが、

一定の層からすれば、

B’zもまた、そのようなもの近いものを感じるのだ。

 

何より厄介なのは、

前提が、

ロックとかカッコいいとか王道とかNo.1みたいなところにある。

 

 

 

かっこいい軸、かわいい軸は、どうしても批判が避けられない。陳腐化が避けられない。

 

 

 

また、ファッションも同じで、

ファッション性を伴うかっこよさというのは、

「人と被ることをよしとしない」というのが基本としてあるだろう。

 

ファッションも音楽もそういう香りがある。

 

だから、「ユニクロやZARA、GUの服を着て、服やファッションをわかり切ったようにしてる人間」というのは、当然だが、叩かれやすい。

 

そういう要素もある。

 

 

 

 

ただし、この先、B’zは一周回って、

いぶし銀の定番ソング

みたいな扱いになる可能性もある。

 

もう稲葉さんが還暦を迎えてしまって、

B’zかっこいい!!!という

そういうものも通り越してしまって、

 

「ダサいとか古いとかの軸が通用しないクリスマスソング」

くらいの定番として定着してしまう可能性もある。

 

マライアキャリーのクリスマスソングのように。

 

 

 

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。