いつでも海に行けない人生はクソだ。真理はどこにある?

平日の昼間っから海に来て、潮風と太陽を感じていると、あの頃の身体性に根付いた記憶が蘇ってくる。そう、高校生の時。

高校生時代、何度、学校をサボって、自然の景色を眺めに行ったことか。そのために、バイクを走らせたことか。なんだかよくわからないけど、胸の奥では常に何かが悶々としていた。

俗世界から離れた先、そこには、学校とか社会とか、人間とか、恋愛とか、友達とか、将来とか、勉強とか、そーゆーものとは無縁の世界が広がっていた。そんなクソなものはどーでもいいって思えさせてくれる世界があった。

そこにはどんな人間だって受け入れてくれるような広大さが感じられた。いや、受け入れるどーのこーのの前に、

『貴様のような人間一匹、どうなろうと知ったこっちゃないわ、我は雲なり、風に身を委ねて空を彷徨うのみ、

我は空なり、ただただ青々と佇むのみ、

我は風なり、ただただ気まぐれに空間を駆け巡るのみ、

我は野良猫なり、今日一日の飯が食えて寝れればそれで良いなり、、、、』

とでも言わんばかりの景色が広がっていて、なんとなく居心地が良かった。やつらは勉強しろとか将来を考えろとか言ってこなかったから。

 

学生の頃は、みんなが机に向かいカリカリとやってるであろう姿を想像しながら、恐る恐る学校を背にした。400ccのバイクをぶっぱなして、俗世界から離れ、自分の心が癒される方向に向かえば向かうほど、心が踊った。

普通から外れ、逃避していることへの不安を覚えながらも、『なるようになれ』とやさぐれながら、ただ現実的なものから逃げていたよーな気がする。

 

思えば、昔からやってることは変わらない。

今、平日の昼間っから海にくると、そこには外国人観光客とか、定年退職したおじさんとか、屋台をやってる人とか、そーゆー人ばっかり。昔も、よく昼間っからパチンコ行ったりしたけど、おっさんしかいなかったなぁ。いやー、人間、やることはずっと一緒なんですね。

 

でも、心底思うのは、やっぱり、好きな時に海に来れない人生なんてのはクソだってこと。自分の人生に関しては間違いなくそれは言える。

あたたかな太陽の陽射しを浴びながら、心地よい風を感じながら、青々とした空と海を眺めながら、ただただボーッとしているだけですごい幸せだ。

あぁ、やばい、幸せすぎてオシッコ漏れそう。笑

たぶん、思うんだけど、そろそろ世の中の社畜たちはそのうち、嘘に気づくと思う。いくら会社で出世しても、全然幸せじゃないじゃん!いくら給料が増えても全然幸せじゃないじゃん!いくら貯金が貯まっても全然幸せじゃないじゃん!!っつって。

 

あの頃の西園寺は、いくら現実から逃避しても、時間が来れば、現実から呼び戻されるような感じだった。いつもいつもそうだった。その日常の中で、どうにか打開策を求めて、行き着いた先はやっぱり、キャリアをなんとかしないといけないということ。自分が散々背を向けてきた世界のレールに連れ戻された時、自分の過去の行いをさんざん呪った。勉強しなさすぎてきたせいで、何かをしようとしてもスタートから出鼻挫かれる感じ。とりあえず勉強せなあかん思って勉強はじめようとしても、ぜんぜん何もわからない。というか、世の中に無数に存在するキャリアのそのどれもが、若い頃からの積み重ねを要求するようなものばかりで、どこにも自分の受け入れ先がないように感じた。

でも、やるしかない。とりあえずやるしかない。そう思って、一度勉強街道に戻った後は、がむしゃらに、自分の目的達成に役立ちそうなものをいい加減に学びまくった。人間社会の構造や仕組みの理解につながりそうなとのを学びまくった。でも、何か具体的な打開策が見えたワケではなかったけどね。

ただ、若いうちになんとなくわかったことがある。それは、消費者、学生、労働者としての体験をまずたくさん積むこと、そして、その後は『産学官』について多少なり知る必要があるってこと。世の中には、産学官連携って言葉があるけど、これは要するに、ビジネスの視点、アカデミズムの視点、権力や統制者・規制者の視点の3つがあることがイノベーションを起こす秘訣になるってこと。産学官連携イノベーションセンターみたいなのってあちこちにあったりするよね。

ビジネスが上手な人は、上記のことに全体的に詳しい。要するに、世の中の仕組みや構造を知ってて、体験も豊富だってこと。ここに自然科学とか人文科学系の知識もあると良いのかも知れないけど、さすがにそこまでいくとハードだわ。

とりあえず、主体である自分も含めて、『世界(主体と客体)』を知らなきゃ話にならない。

若い頃はさんざん、プラプラしたあげく、延々と自分の足りない知識と頭で考えるのは限界があったし、お金を稼ぐ方法がわからない、何がしたいのかがわからない、世界がわからない、自分がわからない、というように、挙げ句の果てには主体である自分も含めて、世界全体に対する疑問の連鎖が止まらなくなって、とりあえず図書館に駆け込んだ。

図書館に行くのは結構オススメ。人類のブレークスルーは、火を使い始めたこと、印刷の技術(情報を後世に残せるようになったこと)が生まれたこと、、、、なんちゃら、、、みたいのは、アホな西園寺でも聞いたことがあった。人類の英知は、とりあえず、活字で残されてるっぽい。わかんない答えは、とりあえず図書館にヒントを求めるほかない。

図書館には、自然科学、人文科学、社会科学、、、、みたいな区分がある。口語的に、アートとサイエンスとか、理系と文系とか、いろんなことは聞いたことがあって、自分もなんとなく使ってきてた。昔の西園寺はそーゆーことすらわかんなくて(今も大してわかってないけど)、ただ、自分の感覚とか思ったことをベースに、必要な知識を仕入れながら考えることはちょくちょくスタートしていった。ただ、学校のお勉強は丸無視、シカトだったけどね。

大人になって思うこと。

西園寺は、個人的には、『学ぶ』とか『勉強する』ってことは、座学じゃなくていろんな場面に及ぶと思っているけど、自分の目的のために得てきたものを活用できるってことが良い学習ができたってことだと思ってる。

そして、大人になって思うのは、自分の目的が達成できている連中は、大学に行ってよーと行ってなかろうと、学位があろうとなかろうと、専門的な語彙があろうとなかろうと、

『知ってる』『わかってる』『感じてる』

ってこと。世界について、知ってる、わかってる、感じてるってこと。そして、自分の人生の目的に活かしてる。自分の人生をより良くさせてる。

たまに、西園寺みたいないい加減な勉強しかしてきてない人間に対して、知識や語彙について揚げ足をとるように突っついてくる人がいるけど、別に勉強なんてものは型にはまる必要はないし、本来は自己満足のためにあるものだと思う。

そもそも学問的パラダイムに沿ってることが賢いとか正しいってことだったとして、じゃあ後世になって学問的パラダイムが違ってました、ってなったら賢い、正しいと自負してた連中はどうなるのか?(聖徳太子は今の学校の教科書から消えてるらしいぜ)世の中に存在していた、完成された体系をなぞることがうまかった、合わせてただけってことしか残らない。

これが賢いってこと、正しいってことか?私はそうは思わない。ましてや、学者とか専門家、何かしらの資格を取らないのなら、勉強なんて尚更いい加減で良い。いい大学出た人間たちがそこらへん、優れているのは『当たり前の話』であって、彼らになんやかんや揚げ足を取られても、同じ土俵で競ってないからどうでもいい。何か後ろ指を指されても、『金がある親のもとで温室育ちで育てられ、親の金でいろんな経験積ませてもらって、親の金で大学に行って勉強してそれだけの知識があるのは当たり前。すねかじり自慢ですか?(高度教育と生まれた世帯所得は明確に相関関係あり)』とか『わかったわかった、その細かい話はおっしゃる通り。でも、「完璧に間違ってるより大筋で当たってる方が良い」っていうスタンスで私は生きてきてて、そして自分の目的に対して沿うもの、使えるもの、役立ちそうなものを当たってる・間違ってる、要る要らないの選別基準としてテキトーに取捨選択、勉強してきただけだから。そもそも、どんな世界で何をしよーとも、時間の有限性は所与であって、それと向かい合えば完璧主義に固執することはまわりまわって賢い馬鹿と言えないかな?少なくとも、有限性と真摯に向き合って何かを追ってきた人間にとっては!!ところで君はそれだけ細かいところまでよく知ってるみたいだけど、世界的学者として名を馳せたかね?んん?あれ?君の人生、コスパ悪くない?コストかければパフォーマンス出るのは誰だって当たり前の話、勉強すればそれに応じたアウトプットが出せるのは当たり前の話だと思うんだけど、コスパ悪くない?どういうパフォーマンスしたくて一緒懸命勉強してきたのかな?もちろんパフォーマンスが経済的なものには限らないけど、私が志向するパフォーマンスとあなたが志向するパフォーマンスのベクトルって交差するの?君のベクトルはどこ?んんん?何がしたいのかな君は』って反論すれば、大方こちらの言い分は通じる(もしくはこいつ面倒臭い、馬鹿だから話す価値ない、相手したくないって思われる)ので問題はない、、、、みたいな心の常備薬を備えたスタンスで、西園寺はいい加減に勉強して、その付け焼き刃の知識を人前で恥も外聞もなくさらけ出してきた。

そもそも机上の勉強をまったくしてきてなくても『こいつ天才や!』って思う人はいるし、その逆も然り。そもそも人それぞれだから何でも、どーでもいいじゃないか。

その人に語彙があるかないか、専門的な定義を学んできた歴史があるかないかはさておき、大人になってそれなりのことをやってる人は、直感的にせよ恣意的にせよ、知ってる。わかってる。できてる。何かが見えてるよーな気がする。

西園寺基準では、

知る→わかる→できる

という関係性(まー、矢印は逆でもいいけど)というか、そーゆー要素と構造というか、全体というか、そーゆーのが直感的にせよ、論理的理解にせよ、なんとなくわかってる人が大人になって、それなりのことをやっていると本当に思う。勉強のお作法について述べる気ないけど。

自分も含めた世界について、知ってる、わかってる、できてるってことがその人なりに、上手に生きれてるってことなんじゃないか。

そもそも、西園寺は昔から、学校の勉強をほったらかして青い海と青い空を見ていたときから、「果たしてこの青い海と空の青々しさの具合は、西園寺と友達とA君ではまったく同じように映っているのか?それは視覚障害的な話ではなくて、純粋に、自分と他人とが同じ景色を見ている証拠はどこにある?そもそも、同じ映画を見ても感想は違うし、同じ異性を見ても可愛い可愛くないは人によって全くもって違う。個人の意見性や感性を無視して、客観的事実や定義に還元して同一のものを見ようとしたとしても、はて、事実や定義はどうやって他人と同じものを見ようとする?辞書で言葉の定義を探せば、そこには言葉での解説しか存在せず、言葉を言葉で解説する円環的なプロセスは止まるところがなく、結局最終的には、なんとなくみんながシェア、共通の理解ができるであろう最小の共通理解の単位に根付いているけれど、それは結局、個人の解釈性をどれだけ留めたのかという程度問題でしかなくて、どこまでもフワッとしてる。一体、どこでどうやって全体の真理なるものがあるのか?存在するのは個別の真理だけじゃないのか?仮に全体の真理なるものがあったとしても、それは大方の人が『同意』しているだけであって、半強制性が存在する。なぜなら、社会的動物である人間には同調圧力に屈する心理、バンドワゴン効果があって、集団と同調しないと生命の危機と恐怖を感じるという人間の本能に根ざしたものがあり、これがすべての解釈を歪めている可能性は否定できない………」

とか、意味不明なことを、当時は足りない語彙と知識の制限を受けながら、直感的に考え続けていた。後年になって、自分の直感を知識的に補強する学問的英知が散見されることを知った。まぁ、詳しいことは知らん。

あれ、これ何の話。

でも西園寺は、『世界を理解できると思ってるのが世の中の大半であることが理解できない』と小さい頃から素直に思っていた。極論に逃げるのは暴論で簡単なのは否定しないし自称賢い馬鹿がやりがちな手なのはわかるんだけでも、でも、究極的には無理じゃん!って。

客観的事実が存在しないということに気づくと情緒不安定になってパニックになるというか、この世界で生きていけなくなるのでそのパンドラの箱は開けない方がいいですよ。西園寺さんは哲学なる学問がこの世に存在すると知る前からそれに気付いてた。西園寺さんの小さい頃から感じていた生きづらさの源泉は突き詰めるとそこにぶち当たります。

我思うゆえに我ありではないけれど、西園寺が自然の景色をよく見たり、女の子とセックスしたり気持ちいいことしたりするのは、ある意味、自己の存在について絶対に揺るがない錨の降ろされた定点を確かめたい欲求から、かもしれません。自然を見ると理屈抜きで癒されるし、フェラ●オされると理屈抜きで気持ちいい。そこには、自分が人間であるということを肌身で感じられる何かがある。生きる目的と意味とか世界について考えると確実に病むの で、いつも原点に立ち返るのです。そして、いつも思うのは、これ。

結局、食う、寝る、ヤるですね!!!って。

人生を単純化すると絶対そうなる、西園寺的には。事実、お金を稼ぐようになっても、心の底からの幸福を感じられる場面というのは、そーゆー、単純化された自分の生きがいの延長線上にある発展形のものばかりであるのは確認済み。コンクリートでつくられた建物の中で、電子的な灯りをもとに、コンピュータに向かって電子的な作業をし、上司に怒られ、嫌いな人に笑顔で接し、、、、、とゆーのは不自然な行為であって、そこに反発したい欲求が膨らんだだけで結局求めてるのは自然さなだけ。

まぁまぁ、そんなことを若い頃から悶々と考えつつ、エリートコース、ノーマルコースから外れ、テキトーにブラブラしながら、テキトーに生きてきたのが私の人生。

ただ、すごい思うことがある。

それは、海とか自然を見ていると、自分の中で、言い表せない何かがざわざわと立ち上がってくる。そしてそれは、とても心地が良いものだということ。きっと、人類は大昔、ずーっと海とか自然を眺めていたはず。その頃にDNAに刻み込まれていた何かが、立ち上がってくるよーな、そんな不思議な感覚がある。

(たとえ人工的に形成されたパートがあろうとも)自然が景色の大半を埋め尽くすシチュエーションと、人工物や人間社会的なものが景色の大半を埋め尽くすシチュエーション、それらを相互に行き交うと、脳が良い刺激を受ける感じがする。もちろん、人工物や人間社会的なものはストレスフルなんだけども。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。