こんにちは、ニートの西園寺さんです。
今日は、ここらで私の哲学をちょろっと。
誰もが人生で一度くらい、「好きなことを仕事にするべきか?」とか「自分のやりたいことは何か?」とか「好きとお金、どっちを追うべきか?」みたいなことに悩んだことがあるのではないでしょうか。
個人的に、そこらへんの問答は自分の中でやり尽くしました。こーゆーの、若い段階で決着つけておくと楽ですよね。私が思うに、好きなことを追うにしろ、金を追うにしろ、そのどちらかに傾倒する生き方は人生を蝕むと感じています。まぁ、これは私に限って、ですけど。
(これをお読みの方は、ご自身なりの答えを出してみてください)
私には好きなことだけ追って、お金が無くてもハッピーという感覚があまりありません。まぁ、程度問題なのですけど、好きなことのために一定の経済力を犠牲にする生き方は果たして幸せなのか、と言われれば幸せではない気がするのです。でも、かといってお金だけに傾倒する生き方も嫌ですね。お金なんて、それだけを追い続ければ確実に病むと思うわけです。
米国の有名マーケティングコンサルタントであるDanが、こんなことを言っていました。
「金儲けと精神性を一緒にするな。」
その言葉に触れた時、私の頭の中にあった、「お金」と「精神性」の間にあった固く結ばれた鎖が、ポロポロと崩れ落ちたような気がしたのです。
考えてみりゃそうですが、ブラック企業と名高い職場の勧誘ポスターでは、やたらと「やりがい」が強調された扇動的コピーが踊ります。「仕事を通して自分を成長させる」みたいなフレーズもあちこちで見かけますが、おそらくそんなものは転職斡旋会社が作ったマーケティングキーワードなのかもしれません。「天職」みたいな言葉も、「好きなことを仕事にしよう」みたいなものも、生まれ育ってくるどこかの段階で、誰かに恣意的に埋め込められた概念なのかもしれない。そして、その思い込みの呪縛に、私たちは囚われている。
いつの間にか、私の中にはそういった考えが浮かぶようになりました。
どれだけ頑張って有名大学を出た女子も、同級生のソープ嬢が1ヶ月の間に稼ぎ出すお金に勝つことはできません。そして、そこに存在するお金の流れには、人間の欲望が露骨に現れている。というか、就職戦線でも、ルックスによる差別が平気で存在する世の中ですよ。あー、やれやれ。あんまり、仕事みたいなのに崇高な精神性とか倫理みたいなのを重ねるだけ、馬鹿を見るのかもしれませんね。
こうやって見ていくと、洗脳だらけの「労働」という概念、それを下支えする「学校教育」での刷り込み過程を真に受けて、社会に出て行き、25歳ぐらいから「俺何やってんだろ・・・・」とか「何か違う気がする・・・・」とか思い始めるのは当然のことだと思うわけです。
実際、私の中では、「仕事」とか「マネタイズ」みたいなものは、それはそれで独立させて捉えてることができています。昔の私はあまりにも馬鹿真面目すぎて、仕事に崇高な精神性とか倫理みたいなものを重ねて考えすぎていたんですね。でも、今はその鎖を引きちぎりました。仕事やお金稼ぎは、それはそれで独立したものです。これに人生を重ねると、話がややこしくなる。少なくとも、私の場合はそうなのです。仕事と人生を重ねることができる人は、おそらく、人生の大成功者っていうか、才能があるスターたちだと思うんですよね。
私みたいな末端の末端、才能なしの極みをいく人間は、人生と「金稼ぎ」をあまり混同しない方が、メンタル的に楽な部分があります。仕事上の私と、プライベートの私は完全に切り離したいのです。
食い扶持を得るための活動に、人生の成長とか、向上とか、生きがいとかを求めるから苦しくなる。
- Rice work
- Like work
- Life work
は分けろ、とかよく言われますよね。飯(Rice)を食べるためのワーク。好きに興じるライクワーク。人生をかけて追求するライフワーク。
そもそも、生きるため・飯を食べるために雇用契約を結んで仕事を始めたはずなのに、その仕事のせいで命を縮められたり、身をすり減らされてしまうという矛盾。食い扶持を得るためのはずの仕事に、人生を迷わされてしまっているという矛盾。こうやって考えると、ひたすらやりがいとか精神的コミットメントを求めてくるような仕事よりも、淡々と「仕事は仕事」と割り切っていて、労働時間後の職場の付き合いとかがあまりない、ドライな所の方が良さそうですね。あはははは。
そもそも、仕事しに行っているのに、職場の人と無理にアフター5で付き合うとかレイプでしょ、って思うんですよね。そんな、自然発露的に湧いた感情や友愛をベースにしないまま、見知らぬ人と飲食しに行ったりプライベート根掘り葉堀り聞かれたりして。それレイプでしょ、って。
働く意味とか考えちゃダメですね。
こんなことを考え始めたら無限の思考ループ、地獄ループにハマります。
意味とか考えないで、働くということを「re-engineering」した方がいいよね。私はそう思うわけです。
インターネットでビジネスを構築するということは、労働が至極嫌いな私みたいな人間にとって、お金と自分、仕事と自分、これらを綺麗に剥がして別離させてくれる最高の食い扶持です。
たまに、「家族に誇れる仕事がしたい!」とか言っている人を見かけますが、私からすると甚だ疑問です。ましてや、そんなことを、現在のメインストリーム仕事(一般的仕事)で疲弊しながらも、叫んでいる人は甚だ疑問です。だって、みんなそういう「見栄えの良さ」を求めて、高学歴とか高難易度資格とか大企業、公務員を目指しているのでは?
その道で疲弊しているのに、そこから外れたがっているのに、外れた先でまたカッコつけようとする。ありゃリャ。
カッコがつく道には猛者が群がり、競争が激しくなるのは世の常です。ましてや、孫正義ばりのパッションと働きぶりを発揮する度胸も気概もないのに、そんなことを思い始めたらまた無限ループです。
そういう人はまさに、「生き方」に迷っているんだと思います。人生の目的が決めれてない。プライオリティがはっきりしてないんです。
西園寺さんはプライドを捨て、
そして自分の技を陰日向でシコシコと磨きました。
おかげで、世の中の疲弊的な労働とは無縁な世界にいます。
そして、平日のお昼からプロフェッショナル泡姫たちに、硬直した肉棒を癒してもらうわけです。
こんなこと、「常識感覚」「倫理」とか持ち込んで捉えたら最悪なことです。でも、人は結局、どこの誰かわかんない人に埋め込まれた倫理とか常識とか、風潮とか「こうあるべき論」に囚われて人生を流されまくっている。人生の目的に良い悪いはありません。人それぞれです。
いい女とセックスしまくりたいとか、ソープ行きまくりたいとか、そういう目的のために生きていても全然良いと思うんです。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。