仕事に対するやる気の本音(意識高い系うざい?痛い?)

学生の時だったかな。知り合ったベンチャー若社長に「ぶっちゃけ、ウェーイ系とか苦手だし、仕事に意欲を燃やしまくっている人を見ると引いちゃうところがあるんです・・・・」みたいな話をした。その後も、労働観についてたて続けに、本音をぶちまけまくった。どこの、とは言えないけど重役のおじさんとかの前でもやったことあるんだけど。

そうしたら、案外、大人ってのはやっぱりというか、表向きはそれなりに「やる気!元気!情熱!」みたいなものを出している人でも、本音は「仕事だるいよね」ってみんな思ってるんだよね。偉い人でもね。すごい人でもね。

(もちろん、本音を聞くためには自分から本音を晒す必要がある・・・・)

ただし、この仕事に対するだるさ・やる気の無さってのは、大人は歳下に対してはなかなか明かしてくれないもの。ある程度、こちらに対して信頼があるとか、認めてくれているとかじゃないと、そういうのは教えてくれない。普通の若者が軽いノリで「仕事だるいよね」ってそこそこ成功している・地位がある大人に話をしても、「舐めんな」「いや、仕事だからね」「君の考えは甘い・・・」とか説教でねじ伏せられるのがオチ。マウンティングされるのがオチ。

 

ひゃーっ。辛い。

でもね、大人になると、仕事しないことによってもたらされる数々の問題が尚更ダルイ・面倒いのも事実なんだよね。

仕事するのもダルイ。仕事しないのもダルイ。で、

仕事するのダルイ<仕事しないのダルイ

だから仕事すると。

 

だから、まぁ、総じて仕事というのはポジティブだったりするのはあると思う。なんやかんや言って、トータルで見ればね。無職でデートとかできないじゃん。

何を幸福かとするのは難しいところだけれど、やはり世の中は多数派の原理で回っていて、多数派の人たちは家を買い、車を買い、服を買い、食べ物を買い、結婚をし・・・・みたいな生活が幸福だと思っているってわけだな。

リスクを避け、安心に暮らし、無難に暮らし・・・・みたいなのが良いと思っているわけだ。そういう大多数の人を前提に社会の制度設計はなされているような気はする。だから、総合的に勘案した時に、能力のある人は仕事してしまった方が早い、生きやすいわけだ。もちろん、現代社会に生まれ育った人たちは比較対象が無いから不幸を感じやすいけれど、多分、昔の不便さと比べたら今の方が良いんでしょう。そう思っている人の方が多いでしょう。だから、社会にそこそこ迎合して、それなりに普通のことをやっていたら、まぁまぁ、稼げてしまうし、社会的信用も得られるし、暮らしやすいし、みたいな。でも、無能な場合だと仕事する方が辛くなってしまう。ここで言う無能というのは、社会で求められている能力についてであって、本人の人格的良し悪しでは無い(朝目覚ましをかけても起きられない僕みたいな人間を社会では「無能」と呼びます)。

仕事に対する各種コスト ←→ リターン

の天秤にかけた時、多分、有能な上位層にとっては、「仕事なんて、ちゃっちゃとやってしまって、稼いでしまった方が楽」なのは事実。逆に、大多数の人にとっては仕事は辛いものでしかない。日常を不幸にするものでしかない。でも、ミドルクラスあたりの人たちが、上層に感化されて、「俺、仕事楽しい」みたいに自己洗脳している。2:6:2の法則だね。上位2割がそこそこ上手いことやれている。下位2割はやれてない。真ん中の6割が上に感化されてる。

(ちなみに、この6割のうち、大多数が、就職して3ヶ月目の夜に泣き、1年経つ前に辞めようか辞めまいかを本気で悩み、とりあえず3年経った頃に鬱になります)

 

ネットで面白い記事を見た。

「努力できる資質というのは、脳内にある苦痛を感じる部分が弱い」とのこと。

びっくりした。パラダイムシフトな気がした。

でも納得。エリートの本を読むと、「え?どういう根性しているの?」ってビックリさせられることがあるから。

もし、この世界で評価されている、努力できる資質がある人たちが本当は有能でもなんでもなくて、単に「痛みに鈍感」な人たちだったら?(案外、社会で耐え抜ける人は鈍感な人で、耐えられない人は繊細な人だったりする)

たまに、ハイリテラシーを自負する人たちのコミュニティとかで、下に対して「情弱」という言葉が使われていたりする。あるいは、一般的に怪訝な目を向けられやすい職業に対して「軽度な〜〜〜障害」とかいう言葉が使われていたりするのを目にすることがある。・・・・でも、もし、逆だったら?っていう。本当は、下位層とされている人たちが素直で洗脳されてない人たちだったら?上位層が異常者だったら・・・・?っていう。

ミステリーばりのどんでん返し。

 

もちろん、人はインセンティブがあるから頑張れる。インセンティブがあるから努力する。そういう面は間違いなくある。

仕事に対するやる気というのは、生産性や成果と切っても切り離せない。

やる気があるから生産性が高い・成果が上がるのでは無い。逆である。生産性が高い・成果が上がるからやる気があるのである。マネジメント研究の大家である人間が、研究結果として著書にそう書いていた。私もそう思う。

社会的評価を求める営みについては、やはり成果・評価がついてくると、意欲・モチベに繋がるのであろう。

こうやって考えると、クソだるい世の中でなんとか重いケツを引きずって生産活動に従事するために必要なのは、「成功」なんだと思う。成功体験なんだと思う。

それが大なり小なりないと、人は前に進めないのではないだろうか。あるいは、生産活動に従事していることそのものが幸福と感じる体験。

でも多分、私からすると、元来仕事なんてものはもともと楽しいものでもなんでもなくて、嫌なこともいっぱいあるから(昔と比べりゃ楽しい仕事は増えていると思うけど)、「楽しい・楽しくない」の二元論で捉えるというよりは、

ロイヤリティ(忠誠心)

で動くのが正しいのだと思う。

昔のジャパニーズは「靖国で会おうぜ!」っていう熱意をみんなで共有してた。だからあれだけの働きをしてた。昔のジャパニーズサラリーマンも、なんかすげー勢いで、会社にロイヤリティを持ってたんだと思う。

本当なら、私もそうやって真っ当な道にロイヤリティを持ちたい。でも、その対象が見つからない。どれもオワコンに思えてしまう。小学校1年生の頃から、引かれた目の前のレールに疑問しか持てなかった。

 

経済の停滞は「不信」からスタートする。

景気という言葉には、「気」という文字がつくことからもわかるように、ヒューマンマインドに根ざしている。

 

年金を信じれなくなった。

会社を信じれなくなった。

憧れる上司がいなくなった。

信じられる異性がいなくなった。

資格信仰が消えた。

国家の未来を信じられなくなった。

なりたい職業を信じられなくなった。

憧れの職業に就ける未来の自分を信じられなくなった。

 

すると全てが停滞してくる。

努力の対象を失った悲壮感が、あちこちで漂っている。

個人的には、信じられるものと出会うことが無い日々が長らく続いた。信念をどう醸成していけば良いのかわからなかった。自分の道の決め方がわからなかった。何を信じて、何にロイヤリティを尽くせば良いのかわからなかった。

 

人が家族のために頑張れるのは、子育てを頑張れるのは、楽しい・楽しくないを超越した「ロイヤリティ」の部分にあるのだと思う。大昔は、そのロイヤリティを王様とか支配者に対して向けた。ちょっと前までは、国家とか、大企業とか、資格に対してそのロイヤリティを向けることができた。また、時代を問わずに「宗教」はそこで大いなる役目を果たしていたのだと思う。ロイヤリティは信頼に変わり、行動し続ける意欲に変わる。

現代はどうか。

お客さんに対してロイヤリティを尽くそうとしても、精神的に疲弊した日本人を相手にする中で、なかなかそういう気持ちになれない人は多いのでは。お世辞にも、「お客さんのために全力を尽くす」という心境になれない人は多いのだろう。これは上司に対してもそうだし、会社に対してもそうかもしれない。

もしかすると、やる気を失っている人たちに不足しているのは、ロイヤリティを向ける対象なのかもしれない。忠誠を尽くせるもの。信頼を寄せることができるもの。もともと日本人の国民性を考えると、そのロイヤリティこそがやる気の源泉なのかもしれない。

好きになれるものがない。

好きになれる人がいない。

信じられるものがない。

信じられる人がいない。

アメリカ人ならそこで、「自分を信じれば良いよ!」ってなっちゃうのかもしれないけれど、なかなか日本人はそこまで、自分に対して、信頼を寄せることができない人が多いのでは無いか。むしろ、そういうのを良しとしない空気が漂っているのかもしれない。

 

東京で、いつ消えるのかわからない雨後の筍みたいなベンチャーにロイヤリティを示せない心境。大企業にも資格にもそう。かといって宗教というわけにもいかない。そういう心境の人が多いのではないだろうか。

多分、ちょっと前までは配偶者に対してロイヤリティを示すことで頑張れていた人もたくさんいたろう。しかし、世の奥様方がアプリやSNSを使って平気で浮気をする時代。昔のように家庭に対してロイヤリティが無い時代。子供が平気でパパ・ママに舐めた口を利く時代。こんな時代に、多くの個人はロイヤリティを示す先が無い。・・・・・・・・のかもしれない。

個人的には、東京の雨後の筍界隈でガリガリやるよりも、京都みたいな「天皇のお膝元」的精神が文化的に根付いている街で、歴史と伝統と地域にコミットするような生き方の方が、よっぽどやる気が出るように思える。田舎で古くから滔々と続いてきた田舎暮らしのカルチャーに浸った方がよっぽどやる気が出るように思える。

あるいは、地域の文化・特色がハッキリとした世界でそこに貢献する生き方の方がよっぽどやる気が出るように思える。

 

頭がおじいちゃんなのかな。京都みたいな場所は好きだ(というか地方が好きだ)。数千年の歴史と伝統の価値はそこにあると思う。京都には時代を越えて、絶対に揺るがない軸がある。この強みは大きい。きっと、外国人が日本の「歴史と伝統」を重んじてやまないのは、そこにある「信頼性・安定性」を外国人の方が気付きやすいのかもしれない。日本は世界最古の国だから(=ハイパー頑固なんだけれど)。

新興テクノロジー産業で働きたいとは思わないけれど、伝統工芸の世界では働いてみたいと思ってしまう。なんでだろう。

やる気出るだろう。変な教祖まがいの社長に忠誠誓うよりも、ああいう文化に従順でいた方がやる気出るだろう。東京みたいなカネカネ・仕事仕事した空気感じゃなくて、文化が高度に交錯して、金という単一の尺度で測らず、一体何が・誰が偉いのかがカオスになっているあの空気感。ただし、明らかに歴史と伝統が重んじられ、何より世界人気のある卓越したオーラ。

「天皇陛下は少々、東京の方に遊びに出かけておられる」

とかいうセンスある感覚がたまらない。上京というワードにピンとこないけど、上洛というワードにビンビンと興奮してしまう。

仕事に対して見出すべきは、好きとか嫌いとかを超越した、信仰だと思う。ロイヤリティだと思う。

家族に向けられる人は向ければ良い。会社に向けられる人は向ければ良い。国家や資格に向けられる人は向ければ良い。地域とか郷土愛に向けられる人はそこに向ければ良い。

本来、「働く」とは「はたを楽にする」が語源だ。本質的に奉仕活動なのであって、奉仕をすることが楽しいという感情を得るためには、何かしら、ロイヤリティのようなものが必要なのでは無いかと思う。

神様を見出す必要があるんだ。どうしよう、どこに見出そう?

なんとなく、仕事に対して「うっ」と満腹感を感じる人、胸焼けを感じる人、違和感や気持ち悪さを感じる人、宗教的なノリが怖く感じる人、マネー稼ぎに意欲を見出せない人、誰かのために頑張れないという人は、もっと、高度な精神的次元での意味付けを求めているのかもしれない。

スピリチュアルな話だけど。

誇り、みたいな話?

でも、この感覚は馬鹿にできなくて、仕事のことをそこそこ面白いと考えている奴らは、本人は否定するけれど、みんな信者だ。信じている流派が違うだけで。本心の深い次元ではスピリチュアルな感覚を得ている。そういうの、持っている人は多いと思うんだよね。経営者がスピリチュアルなもの、信教的なもの、地域への貢献意識的なもの、崇高なビジョンのようなものを持ちたがるのにはワケがある。それぐらいじゃないと、人間は馬力を出せないんだよ。バイトレベルの仕事にそんなものはいらないけれど、難易度が上がれば上がるほど高度な職業観みたいなものが必要なんでしょ、きっと。

 

人がロイヤリティを持つのはいつからか。そしてなぜか。それは、きっと、「救われた感覚」から来ると思う。個人的にはそうだった。そしてそこから信仰が始まる。自分自身が、何かに救われたと心底感じた経験。感覚。そこから、自然と信仰心に近い感情のようなものが芽生えた。人生が明るくなったような感覚がした。

人によってそれは、セールスかもしれない。ファイナンスかもしれない。エンジニアリングかもしれない。英語かもしれない。ティーチングかもしれない。コーチングかもしれない。マネジメントかもしれない。プログラミングかもしれない。

知人のアメリカ人プログラマはー、

「プログラミングはマジックだよ、これで出来ないことは無い」

と言っていた。あの語り口調はマジで信者。そして、そいつは多分、かなり腕利きなんだろう・・・・・と察してしまった。

オタクとかマニアとかファンとかギークとか専門家とかワーカホリックみたいなのは、根底で共有している精神構造は同じ。

物理学者が未知なる世界の数式について熱弁している時のあの顔つきと恍惚感に浸っている目は新興カルトにハマっている信者の目つき顔つきと同じ。

誰もが、何かにハマることで意欲を燃やしているのだと思う。

 

そして俺も、信者だ。I’m a believer.

 

イソップ寓話、三人のレンガ職人の話をしよう。

昔々、ある町外れの道を旅人が歩いていると、一人の男がぶ然とした表情で、レンガを積んでいるのにでくわした。

旅人が、男に向かって
 「何をしているのですか?」と尋ねると
 男は、
 「見ればわかるだろう。レンガを積んでいるんだ。俺は、朝から晩までレンガを積まなければならないんだ。年から年中、朝から晩までレンガ積みだ。こんなきつくてつまらない仕事、本当は辞めてしまいたいよ」
 とぶっきらぼうに答えた。

旅人は、「そうですか。大変ですね」と男をねぎらって、歩き始めた。

旅人が少し歩くと、別の男がせっせとレンガ積みをしていた。

旅人が、男に向かって、
 「いったい何をしているのですか?」と尋ねた。
 その男は、
 「俺はね、ここで大きな壁を作っているんだよ。これが俺の仕事なんだ」と答えた。
 旅人が
 「大変ですね」といたわりの言葉をかけると、男は、
 「なんてことはないよ。この仕事のおかげで俺は家族を養っていけるんだ。ここでは、家族を養っていく仕事を見つけるのが大変なんだ。俺なんて、ここでこうやって仕事があるから家族全員が食べいくことに困らない。仕事があるだけありがたいよ」
 と少し微笑みながら答えた。

旅人は、男に励ましの言葉を残して、歩き続けた。

また、もう少し歩くと、別の男が活き活きと楽しそうにレンガを積んでいるのに出くわした。

旅人が、その男に向かって、
 「ここでいったい何をしているのですか?」と尋ねると、男は、嬉しそうに言った。

「俺は、教会を造っているんだ!」
 旅人が
 「大変ですね」
 といたわりの言葉をかけた。

すると男は、旅人に向かって満面の笑みを浮かべ、両手を広げながら自信満々に言った。
 「とんでもない!この教会で多くの人が祈りを捧げ、安らぎを得ることができるんだ!素晴らしい仕事だろう!」

旅人は、その男の言葉をきいて、嬉しくなった。
 その男にお礼の言葉を残して、元気いっぱいに歩き始めた。

 

最後の男のモチベーションが一番高い、って話ね。

 

もちろん、この話を絶賛する気なんてサラサラない。

そんな結びをしたら、結局、「仕事に高度な誇りを持って働きましょう」で終わってしまう。

てゆーか、そのレベルのワーカホリックは、プライベートと自分を潰してしまう恐れだってある。限界を自覚できない恐れがある。KAROSHIしてしまう危険性がある。

 

このイソップ寓話を聞いた昔のひねくれた私は、「へっ!」って思った。

しかしながら、人生のどこかでスイッチを入れないといけないタイミングに駆られてしまうことがあるのも事実で、「仕事とやる気」という話・テーマになると、私はこういうことがザーッと頭に浮かんでしまう。

ふと思う。もしかすると、むしろ逆に、働く気がない・仕事をやる気がしないという人は、仕事に求める精神的充足のレベルが高すぎて、中途半端なモチベーションやその日暮らしの意識ではやっていけないから「こそ」、信仰レベルでコミットできる・どハマりできる対象を探しているのかもしれない。

やる気がないのは、本当にやる気がないのではなくて、「見つからない」だけなのかもしれない。

 

つまり、怠惰でも何でもなくて、本当は、スイッチが入れば超やる気が出せる人材なのかもしれない。ニートとかもそうかもしれない。自分の求める高い水準を満たす仕事が、なかなか見つけられていないだけかもしれない。自分の求める高い水準を満たす生き方が、なかなか見つけられないだけかもしれない。

 

ただし、福沢諭吉先生のイターイお言葉もスルーはできない。精神だけが高尚で能力の伴わないものは、与えられた仕事に文句を言う、目先のことをやらない・できないみたいなことを彼は言っていた。イタタタタタタ・・・・・・。

確かに。

精神の高尚さ > 能力

であると、自分の心を満足させられる仕事は永久に見つからない・見つけきれないだろうね。そして、意欲もやる気も出せないだろうね。レジ打ちのスキルしかないのに、国家を動かしたいとか野望だけデカすぎるとどうしようもねぇ。鬱になってしまう。やる気を失ってしまう。

あぁ、目先のことを真剣に頑張りましょう、みたいな話に結実するのか?やっぱり?

 

でも、今は良い時代だと思う。

その「目先のこと」の選択肢が増えている。

昔はユーチューバーなんて無かった。今はそのユーチューバーがある前提で、「どうせ成功しない、どうせ食えない」みたいな空気があるけど、そんなものが無かった時代を知っている身としては、ああいうシステムが高校の時にあったら、多分、軽いノリでやってたと思う。大学卒業するまでに、それで飯食えるようになってたら万々歳じゃない?そうでもないかな。

 

ロイヤリティを何かに向けるのが嫌なら、自分のためになることに向ければ良い。自分が、一体、どういう状況になり、どういう状態の下でなら快適・幸福でいられると思うのか。それを真剣に考えてみれば良い。思い浮かべてみれば良い。

そして、それの実現のために必要なことを炙り出してみる。必要な能力獲得はやる。投資はやる。まずはそこからじゃないか。そうやって浮かんできたものに対してロイヤリティを示せば良いのではなかろうか、と思う。

もしくは、そんなことを1ミリも感じれない心理レベルなら、ひたすら刹那的に生きてみれば良い。享楽的に、自己中心的に、わがままに生きてみれば良い。やりたいことをやりたいようにやっていれば良い。そうやって、一通り飽きが来るのを待てば良い。何か、少し落ち着いた先で見えることがあるのかもしれない。仕事というのは、精神的な習熟の度合いと関わっているものだと思う。

 

PS

とかなんとか言っておきながら、私自身は、企業の歯車になって幸福を追求していくつもりなんて無かった。仕事なんて片手間で終わらせようってな。企業側の都合に乗せられるつもりなんてサラサラ無かった。日常を仕事で埋め尽くしてどうやって幸せになれるのか教えて欲しい。

私が信仰を寄せてる「マーケティング」なるものは、金と時間を与えてくれる。だからどハマりした。

 

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。