アドラーは言いました。
「全ての人間の悩みは、人間関係である。」
お父さんとお母さんと仲良くしたり、疎遠になったり、友達とリア充ウェーイやったりボッチやったり、社会人やったりニートやったり、一途やったり遊び人やったりしてきた結果、
「それ、間違いない、アドラーさん、さすが」
って思います。
最近読んでいる、京大教授の本にも、「人は何者かになりたいと思うのから悩むのであって、ありのままの自分で居られるのなら何も悩まない、でもそうはいかない。」みたいなことが書いてあります。
そうですね。考えてみればそう。
好き勝手やれれば、悩みはゼロのはず・・・・。
西洋的な(学問的な)典型的やり口ですが、世界を2分法でAnalysisすると、
- 自分
- 外の世界(自分以外の人間や社会や世界)
という分け方ができ、もし、物事をこの視点で捉えるのなら、結局私たちは外部との関係で悩んでいることになります。だから、アドラーが言ってることは正しいのです。仕事も、恋愛も、お金も、全部外からやってきますし。
人生は連立方程式を解いているのかもね。
(家族ができると求める解が変わるかもしれませんね)
こういう、何でもかんでも二項対立させるような、理系的な、西洋的なやり口が批判されてきて、近年は東洋的な世界観、全ては一つであってカオスであるという捉え方も見直されている。
全は1。1は全みたいな。鋼の錬金術師みたいですね。
個人個人の権利や自由を強調した西洋的価値観はそもそも、東洋の世界観にフィットするのでしょうか。
私たち日本人は、東洋的な世界観に基づく血がドクドクと流れ込んでいる。西洋的なDNAを継ぐ知の体系、段階的に日本に入り込んできた西洋的社会システム、これらとの間で軋轢を起こしながら、苦しんでいる自覚が多分、無い。
法学も、社会システムも、文化も、経済システムも。西洋にレイプされてきた混血児です。
日本は独立国家だとか、植民地にされなかっただとか、同一民族で移民を排斥した血統主義だとか、誇っている人はいます。どうなんでしょう。実質的な属国で、経済支配されており、事実上の移民大国です。
百田尚樹の愛国本が売れるのはその裏返しじゃないですか。国家の基礎が国民であるとするならば、長らく続いた人口増加が止まり、減少に転じ、将来どうするという問題意識の中で、街の景色を異国人が埋め尽くすようになれば「我々はどこから来て、どこへ向かうのか?我々は何なのか?」という問いを、人々が抱くようになるのは必然です。
そして上の世代を見て思う。
お前たちは何をして来たのだ?何を守りたかったのだ?どういった生き様を体現して来たのか?何を遺したのだ?そもそもお前は誰だ?
・・・・とりあえず西洋的な切り口に乗っかって考えてみる。
胸に手を当てて、問いかける。
「自分がわからなくて困っているのか?」
「世界が困らなくて困っているのか?」
学生は、世界がわからない。
でも、世界は「学校の外」にある。外がわからないまま、隔離されて育てられる。時が来たらいきなり世界に放り投げられる。予見できた。読めた。だから、外への関心はつきませんでした。
大人たちは嘘をついている。
そして、目の前で授業をしている連中は特殊な大人である。
直感でわかっていた。
だから、学校の外を見た時、ちょっと残念な気持ちがしながらも、「やっぱりか」とホッとした。
思っていた通り、世界は地獄で残酷だった。
学校はファンタジーの世界だ。
そういう思いを深めました。
世界は綺麗だ。だからその綺麗にフィットしよう!世界に貢献しよう!さぁ、未来ある若者たちよ!豊富な選択肢を広げたまえ!好きな道を選びたまえ!
・・・・・・そんなメッセージは嘘くさくて、身体が痒くてたまらなかった。
きっと、ボンボンの家に生まれたのならそうやって捉えることもできたのかもしれないけれど、自分が勘付いて来た世界はそうでは無い。だから安心した。そして、自ずと、焦点は消極的になっていく。
「いかにセンス良く社会に迎合しない、苦しみから逃れるか」
ここで、反体制的な人間とか反社会的な人間にならなかったのは、運が良かったとしか思えない。今の今に至るまで、免許証はゴールド免許だし、警察のお世話になったことは補導しか無い。
仕事と本と性欲に救われた。
エッチしたくて、仕事して、成長して、お金もらって、気持ち良い体験をして、世界を学んで、情報を求めるようになって本に触れて・・・・。
いつの間にか、しっかり社会に迎合していた。
人間の欲でドライブされているこの世界の、「性欲とマネー」を絡めた世界の虜になった。その世界観に翻弄される女の子たちに翻弄された。
夜のネオン街は強烈だった。ディズニーランドよりも、キャバニーランドや風ニーランドに虜になった。
うーん、・・・・・・現実世界も、悪くない。
素晴らしい世界に立派な形で迎合していく・・・では無くて、いかに混沌とした地獄の釜の奥で、灼熱の炎に焼き尽くされない比較的優しい領域を探していけるのか。面白おかしく生きるのか。高い世界にFly Awayするのか。バカになれるのか。
そうか!
現実世界が嫌なら、現実世界の高みへFly Awayしてしまえば良い!!!
コロンブスの卵だと思った。
逆転の発想だった。
ペンも握れず、黙ってテキストも読めなかった男が変わった瞬間でもあった。
たまに学校に行けば、制服に身を包んだ女の子たちが真面目に勉強している。しかし、夜に大人のディズニーランドに行けば、身体を露出させた女の子たちが男たちに触られながらニコニコワイワイしている。
すごい!
金が女を脱がすんだ!!
誰にでも相手するんだ!!!
まるで魔法のようだ!!!!
圧倒的な敗北感に襲われた。これまでに見て来た、子供っぽい「男と女」の概念構図が一新される気がした。負けているのに、ゾクゾクした。未知なる可能性を感じた。
大人の世界に、唯一、希望が見えた。
クソな世界と、そこに反発する自分の間に、公約数を見つけた気がした。
福沢諭吉で舐めてもらう愛の無い口淫は、絶望的な悲しさが身を包んだけれど、その絶望的な悲しさを超える背徳的な快感が身体を支配し、これまでに感じたことの無い快感が襲った。初めて会った女の口腔内に、DNAをばら撒く快感はあまりにも強烈だった。脳みそのどこかで、回路がショートする音が鳴った。どこかが焦げ付いた。
狂気が始まった。
背後にあったのは、失恋だ。
Youtuberのはじめしゃちょーは、失恋がきっかけでYoutubeを始めたという。最も成功したマルチタレントの部類である優香は、失恋がきっかけで芸能界に入ったという。北川景子は医者になる勉強に疲れた時にスカウトされたという。・・・・人生、何があるかわからない。
神様はどこにいるか?
宗教観のある人間たちは、「外の世界」にあると思っている。
違う。神は心の中にいるんだ。一人一人の心の中に存在している。
そして、外の世界には、ただ淡々と、現実の世界が広がっているだけだ。
神の居場所の違いは大きい。
外の世界にいると思ったら、きっと、救済されないまま、現世での命を終えるだろう。実際、すべての宗教の教えは、現世での自分に価値が無いことと現世を諦めることに繋がっていく。
「来世に期待しましょ〜、また来世〜」
いやいや。現世をどうにかするぜ。
神は自分の中にいると悟ったら、救済される。
天命を悟れ。運命を感じろ。神に従え。これらの類は、本当は、すべて、自分を感じることなんだよね。
宗教を悪用した詐欺師たちは、神を外部にあると信じ込ませて、自分の教義と絡めて財政のために利用しているからタチが悪いんだ。そして、信者たちも、神が現実を超越すると思っているから、もはや救いようが無い。
神は、自分のことなんだよ。
一人一人の心の中に、神はいるんだ。
これは、本心とか、本音とか、そんなチンケなレベルじゃない。
普段は、神は心の奥に隠れている。自分がその存在を意識できないほど。
・・・・・でもね、いざという時に、降りてくるときがあるんだ。
神の啓示がね。
道を切り拓いた人間たちには、「神の啓示を授かった」という心境を体験したことがある奴がチラホラしている。私もその通り。
・・・・・神は啓示を与える。
間違いなく与える。
そしてそれは、現世における超常現象の類とは一切、関係が無い。
神はニュートンの法則を歪めることはできないし、法学にも抗わない。だから、人を殺して、警察に逮捕され、送検され、適正手続と人権保護要請の元で行われた厳粛な刑事訴訟プロセスを通り、無期懲役が確定して死ぬまで刑務所の人間を、神が「お前の過ちを許そう」とか言って瓦礫を崩して生まれ変わりの機会を与えることもまず無い。むしろそんなものは、日本赤軍みたいな国際テロリストのような連中に頼む方が可能性がある。内閣総理大臣相手に交渉を突きつけて、揺さぶれるスタイル。過去、日本は無期懲役レベルの人間を、超法規的措置によって解放させたことがある。福田赳夫がやったんだっけ。
神と現世の法則は分けて捉えればいいだけだ。
神は神として、心の奥に鎮座しているだけだ。
現実を知ったから、成功したのか?
それとも神の啓示を受けたから、成功したのか?
もちろん、答えは「両方です」になるんだけれど、世界を知っただけでは自分と自分の周りを取り巻く現実世界を変えることはできていなかったと思う。
神の啓示がなぜ重要か、わかるかい?
スティーブ・ジョブズは、昔、薬物中毒だった。そして、その時の経験について、彼は恥じるどころかむしろ誇っていた。ビルゲイツに対しても、「お前もちょっとぐらい、薬物やってたらもう少し面白くなれたかもしれないのに」みたいなことを言い放っていたと思う。
確かに。マイクロソフト製品は面白く無い。面白くなさの極みである社畜生活の下支えになってるのがエクセル、パワポだ。
面白そうな奴は大抵、apple製品で謎の音楽を作ったり、スタバでドヤ顔していやがったりする。
ジョブズは、若い頃、自分の生まれ育ってきた西洋的価値観から離脱している。
インドで旅したり、ヒッピー文化にハマったり、薬物中毒になったり。そのどれもが貴重な経験だったと語っている。「Science can’t capture」の話にもあったけれど、西洋的価値観、科学的なフレームワークでは捉えられない世界、精神世界、アートの世界に対しての感性を研ぎ澄ませていったジョブズ。
つまりだ。
世界は世界で回っているけれど、その世界に対して、どう捉え考えるかは全て、「神の仕業」なんだよ。
そして神は、普段、恥ずかしそうに心の奥の間で大人しく過ごしている。昔、遊戯王って漫画が流行ったけど、「もう一人のボク」みたいなやつだな。
もちろん、神に開眼したとしても、急に足が速くなるとか、卓球が上手くなるとか、いきなり弁護士になれるとか、警察を顔パスできるとか、オリンピック選手に選ばれるとかそういう現実の法則に反したことは起こらない。
即物的に何か変わるわけじゃない。
ただ、間違いなく、何かが動き、変化する。すると、つられて現実世界での自分やその環境も変わってしまうから不思議なんだ。当然、それは外にも感じられるから、もしかしたら急にモテ始めることはありえるかもね。
神は、感じることや考えること、思うことを全て牛耳ってしまっている。
全てだ。
自分の内心の全てだ。
外の世界は外の世界で、また別に回っているとしよう。確かに、自分が死んでも、明日もまた、変わらず街は動いていくだろう。貴方の命は祝福されていますとか、貴方の死を人々は悲しみますとか、いくら宗教教祖や指導者に言われても、なんかしっくりこない気がする。胡散臭い。
外の世界は外の世界で回っているんだ。
それと神は別だ。
ただし、神が全てを牛耳ってしまっている。
確実に。
全てを。
視覚、聴覚、味覚、思考、感性、思想、感情・・・・・・
言葉は尽きないけれど、とにかく全てを支配している。
だから、神の証明を、空中浮遊でどうとかする必要は全く無い。
そもそも、関係が無い。
救済を神に求めるのもおかしい。救済は自分でしろ。現実世界の原理、法則、ルールに沿ってなんとかしろ。じゃねーとどうにもならないだろ。
神の概念が、世の人とは違う。
弱者達のすがる先としての神とか、救済とかそういうんじゃない。
世界の嘘つき達は、その真実を知らせないようにするために、「嘘の神」をでっちあげる。その嘘の神は、人々の内心とは別で、世界に存在していて、求心力を発揮する。人々の興味、関心、情熱はそちらに注ぎ込まれていく。
現実世界で何かをする特殊な力がある、、、、と思わせる。
これに対して、無神論者達が反論をする。でも、世の中には科学的アプローチを極めた医者が、死後の世界の神秘体験をして全てが変わったと述懐していたり、高学歴知識人達が率先して宗教観を持っていたりする。あるいは、ごく普通の人でも、スピリチュアルな体験や感覚を否定できなかったり、何かこの世界には存在するのでは無いかという気持ちを捨てきれなかったりする。科学的に、特別な力を存在できなくても、でも何か、世の中の既存のものを超越した何かがあるのではないか、という想いは、人々の期待の中にある。そもそも、宇宙自体がまだまだ神秘だ。
・・・・・本当は一人一人の心の中に神がいる。
でも、世の中で言われている一般的な「神」は、それを殺して、隠した上で成立させられている。あたかも、世の人々の「外」にいるかのようにして、人々に訴求し心を集めている。
わざわざ、神と職業選択を結びつける必要は無いです。
わざわざ、神と物理法則を結びつける必要は無いです。
わざわざ、神と恋愛を結びつける必要は無いです。
でも、自分が思うこと、考えること、感じることについて、「誰がママなんだろう?」と思い、細くて長〜いへその緒をたどっていくと、神がそれをぎゅっと握っていたりする。
何度も繰り返すけれど、
「あぁ、お金が無い!神様!」とか、
「あぁ、モテない!神様!」とか、
そんなことする必要が一切無い。というか関係が無い。そういうことじゃない。部署が違う。神様は、「それはお前の”営業部”の担当業務だろ、俺は知らねぇ!」で終わってしまう。終わらせてしまう。
「家庭がうまくいきません!神様!」
とすがりついても、「それはお前の”人事部”の担当業務だろ、俺は知らねぇ!」で終わってしまう。終わらせてしまう。
現実はまた、現実で、しっかりと回っている。残念ながら、神にすがりついても現実問題はどうにもならず、現実問題は現実で片付ける必要があるんだ。
・・・・・・・・・・・おっ、大ヒントを言ったね。
現実問題は、現実的に片付ければ良い。
現実問題を片付けられない人は、何問題を抱えて要るんだ?
現実にどう向かうかは、神が牛耳っているんだ。この構造は深い。あまりにも、深い。深すぎる。深遠な哲学だと思う。
もう一度繰り返そうか?
現実問題は、現実的に片付ければ良い。
現実問題を片付けられない人は、何問題を抱えて要るんだ?
現実世界の知の地平線を広げないまま、神の啓示を受けようとしてもダメね。
両輪が要るんだ。両輪が。
悲しみに濡れた、ぬかるんだ大地。
未来の陽の光を照らせ。
それは雨雲になる。
希望は人の心を曇らせてしまう。
希望を持ったが故に、心を曇らせてしまう。
やがて雨を降らせる。
また、人を泣かせる。
しかし、ある時、雷を落とす。
雷鳴が轟く。
心の靄を切り裂く稲光が。
「・・・・・・・・そうか・・・・!!」
「数学は論理である」とも云われる。もちろん、数学が論理だけならば、論理学がその代わりを務めるだろう。「数学は言語である」というのは、その本質に迫って要るが、数学が言語学の中に埋め込まれてしまう訳でもない。数学は、計算もし、論理も用い、言語の様でもありながら、それらを越えた何かなのである。
数学には美しさがある。
数学に親しむ多くの人が感じている事であるが、これは人の「感情」である。「論理」と「感情」、一般に数学に相応しいのは、論理であると考えられているが、論理だけでは「数学に美しさを感じる」という事実を説明し得ない。
結論から云えば、最終的に数学を支配しているのは人の感情である。勿論、定理の証明や論理の展開に於いて、好き嫌いなどの感情が入り込む訳ではない。人が数学に魅入られたり、数学研究を生涯の仕事であると考えたり、或いは、数学そのものの方向性を決めたりするのは、結局、音楽や絵画などの芸術と同様の美的感覚、美しさへの憧れという「情緒の動きに他ならない」のである。(東海大学出版部 「虚数の情緒」吉田武)
旅情という言葉がある。
古くから日本人を虜にしてきた名文、
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」
は、まさにそれを描写していると感じます。旅好きにはたまらない文章なのです。
個人的には、金沢や京都、銀山温泉のある山形、北海道なんかには「旅情」という言葉がとても似合っている様に思う。特別な情緒を感じながらこの世界を歩く度に、もしかしたら本当は、この世界は、本当に、神が作っているのかもしれないと感じさせるものがある。
見方を変えれば、情緒そのものが神なのかもしれない。
心を打つ何か。
最近ではあらゆる場所で「教養」の重要性が語れている。しかし、さまざまな情報を知っている人を「教養ある人」だと捉える言説が多いことに、僕は違和感を覚えている。教養とは、単なる情報の羅列ではない。人生や社会に対する深い洞察、言い換えれば「思考する言葉」にほかならない。だから、「たくさん読むことがいいことだ」という風潮にも異を唱えたい。情報の断片を積み重ねるより、そこから何を感じたのかの方が重要だ。情報の断片は、検索すれば簡単に手に入るではないか。「速読して年間に500冊本を読んだ」という類の話は本当にくだらない。クイズ王を目指すのでもあるまいし、何の意味があるというのか。それよりも自分の心揺らぐ瞬間を発見し、思考の軸とすること。それこそが教養なのだ。
経営者やビジネスパーソンの中には、「自分は読書家だ」と自負していても、話にまったく深みのない人がいる。読書を単なる「情報取得の手段」として捉え、ビジネス書や実用書ばかりを読んでいると、こうした状況に陥りがちだ。
ビジネス書や実用書には「結論」しか書かれていない。
(中略)
もちろん、仕事のために必要な情報を本から取得するのは悪いことではない。しかし、僕が考える読書とは、実生活では経験できない「別の世界」の経験をし、他者への想像力を磨くことだ。重要なのは、「何が書かれているか」ではなく、「自分がどう感じるか」なのである。
これは、アート作品を見るときに近いのかもしれない。アート作品も、作品にまつわる情報をあれこれ取得するのではなく、アートを目にしたときの心の動きを知覚する方が重要だ。僕は40代のころ、休日に銀座のギャラリーを歩き回るのが好きだった。多くの作品は印象に残らないが、たまに「どうしても欲しい」という情動が湧き上がる絵に出会うことがある。表現された悲しみ、切なさ、恍惚といった感情が、自分と共鳴する作品だ。そうした作品と出会うと、僕はそれが3万円であれば、300万円であれ、当時の自分の稼ぎでは買いづらい価格のものでも、多少は背伸びして買った。アートは自分自身が「価値がある」と思えば、どのような作品であれ価値が発生するのだ。
(中略)
僕も「これは」という本は、直接ページに気持ちを書き込んでいる。だから、今でもページをめくると当時の心情が蘇ってくる。そして当時の自分の葛藤を思い出し、仕事のヒントを得ることもある。
(幻冬社 「読書という荒野」 見城徹)
魅せられる事。
魅入る事。
美しさを持つ事。
憧れを持つ事。
なぜ、大事なのか?
人間を突き動かしてしまうから。変えてしまうから。
「美しい!」
「かっこいい!」
「憧れる!」
おめでとう!そう思った時点で、勝ちだ!
中学生の時、性欲が抑えられなかった。股間に魔物が住んでいると思ったぐらいだ。露出の多い女を見かけ、思わず公衆便所にかけこみ、高速で摩擦をしたものだ。白濁のDNAをぶちまけて、収まった衝動に、思わず安堵した。尾崎豊の音楽にあるかのような、抑えきれない衝動や感情にも悩まされた。心と股間が制御できなくて爆発しそうで、苦しんだ。これはもはや、「生理よりひどい」と思った。そして、自分の体は、自分の意思を超越した次元で、何かに運命を刻み込まれていることも感じていた。人間である自分は、人間であることを越えられないと感じていた。特に、性の喜びを全身で感じている時、それを確信した。
だからこそ、今でも、心の中にある気持ちをグワーッと湧き立たせる夜景、美女、芸術、思想、アイデア、・・・・・・何でも良いけれど、そこには神々しさを感じる。
心の動きを求めて。
人生を旅せよ。
味覚を満足させ、聴覚を天才アーティストにレイプされ、絶景で視覚を潤す。
女体のいやらしい香りと、肌の触れ合う感触はリアルで臨場感ある幸福を突きつけてくる。
・・・・・そして、脳に残る、記憶。
人生のストーリー。やってやったんだという達成感。充実感。
本当に幸せの絶頂に立った時。
人はインスタグラムに投稿しない。
友達の前で、「人生楽しんだもんがち〜〜〜」とか言わない。
独りで。
独りで、圧倒的な情緒に襲われ、神秘体験に近い感動を覚える。
全身が、震える。
ガクガクブルブルと。
幸福のオーガズムは静かにやってくる。
まるでそれは、オーケストラを見ているよう。
人生と、世界の壮大さを、同時に感じる瞬間。
世の中には、イッたことがない女性がいる。
童貞も処女もいる。
でも、人生レベルのオーガズムに達したことがない人はかなりいるんだ。
全身が強烈な感動、鳥肌で襲われる圧倒的神秘体験。
もはや理屈はいらない、絶頂。
射精を超える幸福と感動。
絶対的な確信。
・・・・・・これだ。
・・・・・・・俺は、やったんだ。
この言葉に言い尽くせない感動のためには、憧れや、葛藤や、苦難という前振りがいる。
全てはこの一瞬のために。
===
"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。