抽象化思考はバカの思考

 

抽象化思考はバカの思考。ニーチェの考えである。

 

人間は数値化・概念化できないものを切り捨ててきた。同一でないものを同一とみなすことにより概念は成立する。そうすると概念は暴走を始める。「この世界に無いもの」についてあたかも存在するような話を進めてしまう。抽象によって現実が裁断されてしまう。

ニーチェは、概念を分類するような発想はやめろ、といった。

 

ではどうすべきか?

とにかく、「ちゃんとモノを見ろ」と。見ないであれこれするのはバカだと。

 

近代社会では、個別のもの、瑣末のものに囚われず、「抽象度を上げろ」と言われる。抽象的なことを考えられることが良いことであると。確かに抽象度を上げれば思考は容易になる。数値化すれば計算は楽。そしてその分、思考は雑になる。ニーチェはその危険性を指摘した。

 

ゲーテも、物事を切り刻んでいく発想に意義を唱えた。生物は諸要素に分解できるが、それらを合成することで生き返らせることはできない。生命は非線形な複合体。歴史もまた常に動いているものであり、静止した点の集合ではない。こういった発想は一見合理的だが誤りを起こす。

マイケル・ポランニーに至っては、「そもそも言語化できない射程がある」と示す。私たちは多くを言葉によって知っていると。しかし言葉にできないものがあると。リンゴの味はどういうものか誰もが知っているが、リンゴの味を言語化することはできない。コーヒーの香りも伝達できない。

 

体験していないといけない。誰かが体験していることが前提。言葉を尽くしても体験がない人間には伝わらない。つまりバカに言葉で教えることはできない。

近代・現代では言語化できない、数値化できない、概念化できない、統計の対象にできないものは切り捨てられている。切り捨てられすぎている。ポランニーは原理的に「言語化できない」ものを指摘して、「もしも暗黙的思考が思考の主ならば」という書き出しから思考の客観性の限界を述べる。

 

保守的な伝統主義は、科学合理主義を超えている可能性がある。

知識の限界を超越している可能性がある。

 

師匠と弟子が住み込みで働き、弟子が師匠からセンスを学ぶという師弟制度はまさにその極みだろうか。一橋の楠木建がよく「センス」と指摘する部類のものはこの世に存在する。これは体で覚えるものだ。伝統主義的なものは、伝達やその知識の本質について、科学的合理主義を超越している場合がある。より深い洞察を携えている可能性があるからだ。

通俗科学概念で言えば、科学は観察可能な事実の集積で、それは誰でも自力で検証可能という再現性が重要。しかしそれは結局、「アカデミアの権威に基づいている」と指摘したのはポランニーである。

これは文系の世界だととてもよく当てはまるだろう。文系のアカデミアは、よりどころがなく、権威の世界。上の人に挨拶して気に入られたかどうかで決まったりする意外と「村社会」だったりする。

 

伝統主義とは、端的に言えば、その対象について認識できるために「まず信じろ」と教師・指導者に委ねることでもある。一方で科学合理主義の世界において私たちに信じることを許すのは具体的なデータを基礎にして、正式の推論をもとにしたもの。繰り返しの検証に明白に耐えられるものだけ。これの末路はどうなるか?

それは20世紀がすでに明らかにしているのである。

ニーチェが指摘したのは、「概念は現実を裁断する」ということだが、20世紀はそれを極限まで実験した時代だった。社会工学的な発想で人間を「数値化」「概念化」し、社会を設計できると信じた。抽象的なイデオロギーを絶対視した結果、人間そのものの生を切り捨てた。つまり、「世界を抽象によって把握できる」と信じる思考は、全体主義と暴力に直結しうるのだ。

一方で、伝統主義的な「体験を媒介にした知の伝承」は、近代的な合理性からは「非科学的」「非効率」と切り捨てられた。しかしポランニーが言う「暗黙知」は、むしろ人間が生き延びるために必要不可欠な領域だった。医師が患者を診るときの直感、熟練の職人が木材を選ぶときの手触り、経営者が市場を読む「勘」。これらは数値化できないが、現実に作用する知である。

20世紀の末において、科学合理主義の限界は「予測不可能性」という形でも現れた。カオス理論や複雑系科学が示したのは、「初期条件のわずかな差異が大きな結果を生む」という、従来の合理主義が想定しなかった不確実性である。つまり、合理主義は自らの前提を突き崩す科学を生み出してしまったのだ。

 

 

 

 

抽象的思考 発達障害
抽象化 得意な人
抽象化 できない 人
抽象化能力 低い
抽象的思考 できない人
抽象化 得意な人 仕事
抽象化思考 ギフテッド
抽象的なことしか言えない


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。