こんにちは。
西園寺貴文です。
突然ですが、私にとって、
- 誕生日
- クリスマス
が幸せなイベントだったのは、19歳、20歳くらいまでのことです。
私にも、「サンタクロースをとっ捕まえてやろう」と眠たい目を擦りながら、サンタを待ち侘びて寝てしまい、朝を迎えていたような可愛い時期がありました。
そして誕生日は、21歳以降から、「焦りを煽るイベント」でしかありませんでした。
どちらも、子供の頃は指折り数えて待っているイベントだったのに、いつの間にか、指折り数えて焦るイベントになっていた。
10代と20代の決定的な違いとしてまず頭に浮かぶのはそれです。
20代になって、誕生日が焦るイベントになったのは理由があります。
自己啓発本に書いてあったのです。
人生は、20代で決まる、と。
20代の10年間で決まる、と。
30歳までダメ人間だった人が、後の人生で成功者になることはまずない、と。
でも、本当は、人生なんて、10代で決まると思っていました。事実、そうでしょう。スポーツ選手、芸能人、漫画家になるような人たちは、10代の積み上げの上に20代を成功者として送る。
学歴だってそう。18歳で決まる。良い大学に行けた人とそうでない人では人生がまるで違ってくるのは、小中学生の段階でわかります。
小中学生の生きる世界は狭い世界です。人間関係も狭い。視野も狭い。ただ、大人の世界と通ずる要素として、「ルックス」「スポーツ」「勉強」「みんなの人気者になるセンス」などは学生社会にも厳然とその序列が存在します。思春期になれば嫌でも自分がそれらのベクトルの中でどの位置を占めるか見えてくる。
何なら、生まれた瞬間から人生はだいぶ決まっている。
思春期の頃、鏡を見て、自分のルックスに色々悩んでいた時期もありました。
家柄が人生に大きな影響を及ぼすのも、
DNAが自分の人生に大きな影響を及ぼすのも、遅くとも中学生の頃にはわかる。
私は、小中学生の段階で、自分の人生に与えられた全ての与件に不満だったのです。
もっと都会に生まれたかった。
もっと金持ちの家庭に生まれたかった。
もっとイケメンに生まれたかった。
もっと才能豊かな人間として生まれたかった。
私は中学・高校生の段階でもうすでに不貞腐れていた。
人生を諦めていた。絶望していた。
ティーンエイジにして、タバコを咥えながら、パチンコ屋に入り浸っていた時期もあります。
あの頃を思い出して思うのは、「堕落する」のもまた、気持ち良いということです。全てを諦めて、惰性でその日暮らしをするのは気持ち良い。人生に期待することがないし、目標に向けて頑張ることがないから裏切られる思いもしない。無駄にプライドが高くなったり自尊心が高くなることもないから、与えられた仕事をダラダラこなせる。しかもそういう生き方の方が、腐った自分を受け入れてくれる異性が見つかる。そして傷を舐め合い、お互いを埋め合うセックスをする。社会はそういう人間が大多数だから、仲間も多く見つかる。
私には、ヤンキー、マイルドヤンキー、そして人生に絶望して社会を騒がせる犯罪を起こす犯罪者の気持ちが経験的に類推できる。惰性で生きる平均以下の平凡な人間たちの人生も何となくわかる。
絶望した人生、堕落した人生が何なのか、経験的にわかるのです。
今でもふと思うのです。
あのまま、地方の片隅で、堕落しきったまま、その辺の女とテキトーに結ばれて、流されて生きるTHE庶民の生活を送っていたら幸せだっただろうか、と。典型的なマイルドヤンキーになっていたのか、それともどこかの段階で女に見切りをつけられて孤独な下流として彷徨う羽目になっていただろうか、と。
しかし、そんな自分に舞い込んできた敗者復活戦の招待状。
それは、「起業」でした。
これが当時、持たざる者である自分にとって、プラチナチケットに見えた。
そこから私の人生は変わった。
目の色が変わった。明らかに変わった。
これなら、敗者復活できる。
大抵の人生は、生まれた時に決まっていて、10代の時にほとんど決まるけれど、このプラチナチケットなら、むしろ勝負はこれから始まる。
絶望が、新しい希望を呼び込んだのです。
ここで詳しい話は差し控えておきますが、「(この世界は資本主義なのだから)資産家・資本家になる、そのために起業する」という目的意識の中で、自分の起業人材としての価値を高めていく中、新卒では絶対に入れないような企業から中途採用の門戸でオファーを頂くこともあり、若き日の自分が想像もしていなかった「エリート世界」へ思わぬ形で接続が生まれました。
私の人生は明らかに変わった。
絶望というものには、少々、効用があります。
それは、あたり一面が真っ暗になるから、光に敏感になるということです。
現状否定的だからこそ、何か、Fly Awayしてしまえそうなものを見つけてしまいやすくなるということ。
10代の後半にかけて、私は、恋愛に絶望していく。結婚に絶望していく。異性に絶望していく。自分の不適合性に気付いていく。
一方で、反比例する形で、起業ドリームへのコミットメントを強めて行きました。
ある意味、逃避願望だったのかもしれない。
人生で初めて、真面目に壮大な目標を掲げた。
そして新しい希望は、同時に、プレッシャーへと化けました。
「時間がない」。
タバコを咥えて、パチンコ屋で時間を潰すような真似をしていた人間が、歩きながらビジネス書を読み、耳にイヤホンを差し込んでオーディオブックを聴くようになったのです。
最近の若者の間では、「親ガチャ」なる言葉が流行っているそうです。
私は、この言葉が存在する前から、概念的にこれを痛切に感じながら人生の歴史を紡いできました。
私はこの「親ガチャ」を、覚えている限り、小学生の頃から概念として直感的に感じていて、中学の頃にはすっかり目標も希望も失う中、高校生年代で
人生を変える一手
として「起業・独立」に希望を見出しました。
あれ以降、私にとってそれは生き甲斐・生きる目的となってきた。
それにしてもなぜ、今この「親ガチャ」なる言葉が流行っているのか。
(SNSの影響もあるとは思いますが)
それもそのはず、この文章を綴っている現在、
高校生〜大学生に該当する若者の親は、
早慶出身者ですら派遣に就職するしかなかったあの悪名高い氷河期世代の
息子・娘世代に該当します。
この国に断絶が生まれた世代。
芸能人で言えばキムタクの娘世代、安室奈美恵の息子世代です。
いや、安室奈美恵の息子はもう大学生を卒業して新社会人の年代なので、そのもう少し下の世代が現在の高校・大学生です。
この世代は、ホリエモンやひろゆきに代表されるように、時代の流れに乗っかって若い時代から成功者として人生を謳歌した人たちがいる一方、その裏側には旧来の職業観・ライフスタイルを踏襲した結果、これまでなら普通の人生を謳歌できていたはずがごっそりと没落した人たちがいる世代。
それでも必死になって子作り・家庭形成に励んだ人たちの子供と、
勝ち組・新時代の勝者として子作り・家庭形成に励んだ人たちの子供との間には
強烈な格差が開いている。
いつの時代も格差は存在するが、「親ガチャ」を痛烈に感じている世代だということです。
氷河期世代の勝ち組は、時代を捉えた人間か、従来の枠組みの中でも「超優秀」の人たちが多い。
日本人サラリーマンの給料は30年間大して上がっていないのに、
関東の大学への「地方からの進学率」は下がり、
また大学生の親の年収は上がっている。
要するに地方や貧乏家庭から大学に送り込むのが難しくなっているのです。
スマホを開けば異次元の成功者がyoutubeで暴れ回っており、同級生・同世代の親と自分の親を比べるとあまりにも格差が開いている。SNSでいくらでもキラキラした情報が入ってくる。学生時代にはケータイすら無かった40代以上の人間には想像もできない世界で生きてきたのが今の若い世代。
やる気を無くし、「悟っていても」おかしくはない。
人生は諦めた方が良いのでしょうか。
諦めるべきか。
諦めないべきか。
そのどちらかが良いのか。この答えは難しいところがある。諦めることで救われる人生もあるし、諦めないことで救われる人生もある。
最近の世の中には、諦めることを勧める本が多い。
諦めに関しては、ちきりんさんのこのエントリが私には印象深い。
人生の天井を40代で悟るより、中学生で悟る方が良い、と。
ああ、マッキンゼー出身でもこんなことを言っちゃうんだ、と。
凡人は憧れ、一般人は諦め、天才は悔しがる。https://t.co/uH9f0Td2G6
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) November 25, 2017
早めに諦めることで進むべき道が現実的に選べる。いろんなことを諦めていくことで違う人生が開けてくる。
一方で、20代のうちは諦め癖をつけるな、という人もいます。
諦めるかどうかは心の筋肉の問題であると。30代になってくるとこの心の筋肉の維持すら難しいと。30代というのはフィジカル的な筋肉も、心の筋肉も弱まるのですね。何かを成し遂げることができたと感じている人というのは、過去を振り返ったときに「あそこで諦めなくて良かった」という思いを抱いているはずです。諦めないことが成功を形作るのも事実です。
諦め問題の難しいところは、逃げ癖がつくことです。逃げ癖は一度ついてしまうとなかなか抜け出せません。
さぁ、どっちなのでしょうか。
こういう、答えのない答えに触れられるのもまた、人生経験を積むことの効用です。でも、人生というのは往々にして、その意味がわかる頃には終わっているものなのです。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。