ファミレスで勉強とか懐かしいことしてる。昔を思い出す。
勉強の難しいところは、勉強そのものってよりもその勉強が成果に結実するのかというプレッシャーと不安。報われるのかという心配。そういう意味で、やはりさせられた勉強してわかりやすい結果を追ってる人と、プロセス楽しんでる人では差が出て歴然。数学好きな人は数学語る時に『え?今射精してるの?』みたいなキモチイイ顔するからね。
好きなんでしょ。
リスクテイカー人生を送ってきた結果、人生うまくいかせるためには、『まぁ、失敗してもいいや』っていうヘラヘラした舐めた顔しながら、危険な状況を楽しむことだって気付いた。楽しみながらプロセスから学ぶ。好きなことをやる、好きになる。objectを楽しむというより、objectに向かってるsubjectとしての自分およびそのstateを楽しむ感じ。自分を被験者にする人生実験。自分を被写体にしたドキュメンタリーを撮られてる気分。そうなると、不遇や苦境、困難は良いネタだぜ。
不安なんてナンセンス。戦時よりマシだぜ。
昔、ファミレスで勉強しながらクリスマスシーズンを過ごしてる時に、女の子の集団に指差されて笑われたことがあった。ヒソヒソ声聞こえた。
10〜20代の多感な?時期を送る男にとって、勉強や修行の邪魔になるのは異性への意識だろう。おれはデートもせずに何をやってんだ、何枯れてるんだ、みたいな?
特に女子はその傾向が強いと思う。
誰と誰がくっついたとか離れたとか、誰と誰がゴールインしたとか何とか、誰々が何かの職についたとか、誰々がテレビに出たとか、雑誌に取り上げられたとか、誰々が役職ついたとか、出世したとか、転職したとか、そーゆー外部情報に刺激されながら、焦ったり不安になったりしたことがある人は多いだろう。
特に、陰日向で、人に説明できないような状態にある人、将来どうなるかわからないことに向かってシコシコと刃を研いでる人は、不安や焦りに駆られることが人一倍多いはず。
今は昔とはだいぶ違う。心の平穏度が違う。何か成した、何か変えた、何か手に入れた後で勉強する世界が、こんなにも違って見えるなんて。周りが何やってるとか周りがどーとか、そんなことに一切ビクつくことが無くなる。自分軸ができた状態だと思う。また、昔と比べて、自分軸を通しながらも他人軸について譲歩して理解できるようになった。少なくとも理解を示そうという姿勢だったりを持てるようになった。
俺が正しいとか間違ってるとか、そんなチンケなことはどうでもいい世界。自分の道は間違ってるのでは?とか変に不安にならないで良い世界。
たぶん、その根底には、貢献マインドをベースにしつつも、自分の役割や強みを意識し、自分なりの道を上手に選べる自分の存在がある。
『今稼げる資格はこれだ!』とかいう、表面的すぎる陳腐なメッセージに反応しない自分。
稼げる稼げない、というより、どこの誰に何を提供してどうやって役立てる?ということをより現実的に考え、社会性を担保しながらも我を通せるやり方を思いつける巧みな大人になった自分。
何より、稼いで自由になって良かったのは、そこまで昔憧れていたことが、大したこと無いと気づけたことだ。モノに憧れない。人やあるべき姿に憧れられる自分。
あれが欲しい、あれがやりたい、じゃない。
こうなりたい!で動く自分。
パフェを買って、食べて、喜ぶのは子供だ。人を喜ばせて、感動させて、奮い立たせて、面白がらせて、自分も喜ぶのは大人だ。
それを愛と呼ぶのなら、その愛を社会性に転換させられたなら、社会的成功がついてくるのだと思う。ONEPIECEの尾田栄一郎氏はインタビューで、『漫画は読んでる人に楽しんでもらうものなんです!』ってニコニコ語ってた。YoutuberのHIKAKINは、『観てくれてる人を元気にしたい!』と言っていた。
美味しいものを食べるのは嬉しい。服を買うのは楽しい。旅行するのは刺激的だ。だけれど、もっと上位の喜びとして、誰かを喜ばせる喜びに気付けるようになったなら、進化できるのだと思う。
他人を他人として、線を引かない。身内を特別扱いしすぎない。仲間内で盛り上がり過ぎて終わらない。
本当の喜びは赤の他人との関係の中にあるのではないか。
だから、20なん年もお世話してくれた母親よりも、赤の他人として出会った愛する女にスイッチする人が多いのではないか。それはきっと、もらう喜びよりも、与える喜びの方が大きいという前提があるような気がする。
だから、結婚や育児は人を大人にするものと位置付けられ、古くから一人前の大人の条件とされてきたのだろう。
逆に言えば、あらゆるオナニー的喜びは、結婚適齢期までに終わらせておけ、ということなのだろうか。そういう意味で、若いうちに散財に走っておいて良かったとは思う。もちろん、未だに自分を満たして喜ぶ感性は消えてない。
ただ、まぁ、服買っても、カバン買っても、靴買っても、そーやって得られる満足には限界があるというのを早期に気づけた人間は有利だと思うし、その域に達成するために最低でも独身で、年収500は要るだろう。20代の早期のうちに、そのレベルを突破できる人間は限られる。それを突破した人間はどんどん向社会的になる。余計リッチになる。逆に、稼いでいないとどんどん自己満足的に走る。ベクトルが内に向く。
ここにモチベーション格差がある。
あるいは、裕福な家庭に生まれて若いうちからあらゆる勢を尽くさせてもらう必要があるのだろう。だから、中流以上の家庭でそこそこに満たしてもらった人は社会貢献の喜びや志高く生きることの尊さに早々に気づく。だからエリートは意識が高い。エリートの家庭では社会性を意識させた教育が進む。
平均以下の家庭では、長きにわたって自分の基本的な願望や欲求すら満たせず、大人になってもそれは続くのだから。いい大人になっても、極端な誇示的消費から抜け出せない人は、子供の頃に貧乏だった人が本当に多い。
あんまり自分に固執しないようになってから、本当の進化が始まる気がする。
『10代は刹那的に生きろ!』とよく言ってるが、その根拠はここにある。10代20代のうちにたくさん、美女に合法的かつ倫理的な射精をしておかないと、いい歳こいて娘の年代でもおかしくない子に電車で痴漢するダメな男になる。
東京の若い子たちは、びっくりするほど被害経験を抱えてる。
オナニーする事で、風俗代が浮いたとかケチな事言ってると、そのツケが後々になってまわってくる。欲望には学習性の法則がある。新たな欲望を学習することも、欲望の効用逓減を学習することにも言える。人間は欲望の充足ですら、学び、慣れ、飽きる。
ギャンブルや性、酒に関する免疫をつける法則は、ウイルス注射よろしく、断絶ではなく中毒にならない程度に浸って程よく飽きることである。
10代の頃、あんなにギャンブルや酒にハマってたのに、今はほとんどしてない。
性欲ですら、老化なのか飽きなのか知らんが、減退していることを否定することはできない。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。