- この世界をまわしてる人類の叡智であったり上層の人間たちが触れてきたものを知らない、すなわち無知なまま発言してると思われるので発言力皆無。
- コネが弱い、弱すぎる。
- 見てきてる世界がしょぼいと思われる。
- 育ちや親がやばいと思われがち。
- 低学歴の言う『勉強した!』は客観性が担保できずあてにならないと思われる。井の中の蛙扱い。
- 単純に努力の基準値が低い。
- 『いい大学出てなくても賢い人はいる!』一方で、『いい大学出てても賢い人はいる!』のは現実で、関東なら東大、東工大、一橋、早稲田、慶應のひと学年の人数を足しただけでおおよそ25000弱いることになり、在籍者は単純にかける4で10万人ほどである。卒業生の累積数はもっといる。人の取捨選抜を効率的に行いたい人数からすると、こういった範囲内に入ってない人間はアウトオブ眼中されてても仕方ない。取っても食えない、供給過多と言われてきている税理士や弁護士など、高度専門人材ですらそれぞれ5万もいない。
- 高学歴には低学歴を知的生物という意味でまともに人間扱いしてないのがゴロゴロいる。
- 低学歴を認めて採用した人間は、その低学歴が後々仕事ができなかったり問題行動を起こすと、周りから責められ、言い訳ができなくなって立場が危うくなる。高学歴や有名大を取っておけば、なんとなく逃げ道がある。つまり低学歴と関わる人間には常にリスクがつきまとう。低学歴にチャンスを与える人間には常にリスクがある。
- 低学歴は高確率で、ルール無視、マナー違反、勤怠悪い、言葉悪い、語彙が乏しい。
- 数を凌駕する質を担保できることはなかなか無い。学閥力などの前には太刀打ちできないことも多い。高学歴コミュニティの数を凌駕する知的な質を一人で担保できてる低学歴などほぼいない。
- 分母の大きい全国レベルのガチンコ競争なんて、野球、サッカー、受験、就活、起業ぐらいだったりして、そういう競争の中で競争力を示したことが無いと思われる。競争したこと無いと思われる。
- 『世の中には才能のある人間と才能の無い人間がいて、才能の無い人間たちの間には大した差が無くて、だからこそ勉学で差をつける。その結果、上位に入ったのがいわゆる高学歴。だからこそ、低学歴の人は勉強もせず、自分の将来も探らず、自分の値打ちも考えず、一体長い間何をしていたの?』というのが高学歴者の低学歴者に対するホンネ。そこで、それなりに異議、弁解、説明できれば案外納得してもらえたりする。でも、低学歴側からすると、その上から目線や質問が、学歴コンプを刺激されてしまい、相手の意図も読めなかったりする(高学歴者には童貞のまま18越えた人も多いので、こーゆーのを言い方考えずあたかも問題文かのようにふつーに質問として投げかけるタイプが多い。特にハタチ前後の子には。論理、論理、論理で教え込まれてきて『人は感情で動き論理で納得する』を知らないのは、特に若い層に多い)。こんな場合、カチンとなってしまったら、その感情的な姿を見て高学歴者は『これだから物事をロジカルに捉えられない奴は、、、、』とかまた、状況が悪化することがある。でも、鼻に付く物言いをする人は案外、その人に対して同じように鼻に付く物言いを返しても大丈夫だったりする。高学歴者は長年の学校教育の成果として感情抜いて論理で物事を積み上げることに長けてることが多く逆に言えば低学歴者より逆ギレするタイプも少ないので(ディベート慣れしてたり)、論理的物言いに論理的物言いで返して、そこにあんまり人間情緒に配慮した部分が無くてもなんとかなったりする。
- おそらく、『大した才能も無いってある程度の年齢から自覚できてくるはずなのに、それでもなお、勉強という無難なカードを捨てて勉強して来なかった、それに相応する代替的な価値を貴方は手に入れてますか?持ってますか?磨いてきましたか?何してきましたか?』というのに、普通は答えられない。
- 高学歴の力ある人間が低学歴を優遇するのはある種、高学歴秩序の否定、すなわち自己否定にもつながることであり、あまり行われない。高学歴の中に本当の意味で学歴に依存しないパフォーマンスを出せてるのはそんなに多くなく、学歴や学閥によるヒエラルキー形成とそれをベースにした統治によって世の仕事がまわってることも多いので、低学歴者は高学歴者統治の世界でなかなか引き上げてもらえない。
- 10代以前、以後、20歳そこそこまでの習慣や培った人間性、感覚はそれ以後も大して変わらない。弥生時代くらいまでは人間30年くらいで死んでた。
- 高学歴の親の子は高確率で高学歴。カエルの子はカエル。少なくとも高学歴者が世の中でいい仕事をしてきた確率と歴史にはブランドがある。日本人のパスポートが対外的に強いのと同じで。
- 高学歴者が嫌いなのが、高学歴者に対抗しようと単純に自分の勉強歴や知識を披露しようする低学歴。高学歴は各種の学識を高度に持っており、おまけに大学の中でそれぞれの専門分野に研究職として特化している教授などを見てきている。知の高みを知っている。よって、低学歴が高学歴と同じ土俵に乗ろうと豊かな学識を身につけてマウンティングして対抗しようとする人間が高学歴は大嫌いである。高学歴が唯一苦手なのがリスクテイク。低学歴で高学歴から唯一尊敬されるのはリスクテイクをした人間であり、そこから得たものを学問的フレームワークに沿うなどして知の還元を高学歴者に対して行うもの、あるいは研究対象、動物ショーの動物としてサンプルを示すような者。逆に言えば、大した勉強もしてこず、才能もなく、能力もなくてリスク取ってきてないビビりのコソコソした低学歴人間の話に高学歴は興味がない。もっと言えば、自分たちが理解できる範囲の話に経験を転換して伝えられない人間とはコミュニケーション取りたがらない。よって低学歴は、高給人間が多い高学歴人間の世界とコミュケーション不全を起こすので結果的に金が稼げない。そもそも、低学歴から薄利多売で利益をかき集める最もデカイ規模のビジネスモデルは全部、既存の大企業が抑えている。低学歴人間は、人がやらない分野やリスクある分野で知識や知恵を集積するようなキャリアを描かない限り、非常に厳しい。
- そもそも、本当に優秀なら、学歴の有無関係なく成果出してきたり出世してきたりと『逆境を乗り越えてくる』はずであり、実際低学歴でも本当に力がある人は学歴気にしてなかったりする。そもそも学歴無関係の世界もたくさんある。高学歴の中でも上位層は学歴という枠にとらわれずふつーに有能なのでそんなことはいちいち気にしてない。そして高学歴全体は高学歴優遇の恩恵を受けている。低学歴はそもそも人生を諦めてる。逆転など狙っておらず、現実を受け入れて生きてる。つまり、たぶん、世の中の80%ぐらいが学歴至上主義を、別にそのままで良いと思ってる。この統治というか、仕組みに抗うと当然生きづらくなる。
- 学校の勉強ができなかったのに、頭が良い人はいる。そういうタイプは、取り組む物事に最初から意義や合理性を求めることが多い。求めすぎることが多い。入り口、入門レベルの経験知やこれまでの人生経験しか無い段階で新しい物事について先を見通しすぎようとする。何事も疑ってかかるとする。やりながら意義を見出すこともしない。結果的に、『これなんの役に立つの?使えるの?』という発想になりやすい。これは、まず理不尽さや無駄が多い組織社会では毛嫌いされる。また、世の中には恋愛や家庭領域など不合理性が多いテーマも多いのでそこらでもミスマッチが起こる。また、普通に人付き合いの中でいちいち意義や合理性を求めて来ようとするので絡みづらいと思われる。結果的に、キモい大人になりやすくなる。学校の勉強できなかったけれどそこそこ頭は回る、バカに徹することができない、これは社会不適合の代表例である。どこに行っても居場所はない、と感じることが多い。
- 低学歴の土俵とされてる世界であっても、時代が進めば高学歴が進出してくる。
- どんなに低学歴でどん底から成功した社長も、そのうち高学歴を優遇し始める。なぜなら、あきらかにその層が素直であり、勤怠がしっかりしてて、事務処理能力が高く、世間的見栄えが良いだけじゃなく、確率統計的に賢い人間が多いため学歴フィルタリングは便利なのである。親の教育もしっかりしていて素行もちゃんとしてるという確率も高い。両親仲良く温和な家庭で育ち、無駄な苦労や変なコンプレックスで歪んでなさそうでもある。学歴不問にしていたベンチャーであっても、成長すればおのずと学歴フィルタリングをスタートする。
- 高学歴者が、低学歴者に対して『面白い』『鋭い』『変わった視点』『頭が良い』と褒める場合、ほとんどはお世辞か、テキトーな意見である。お金の価値が、みんなの認識と信用で支えられてるように、賢さや知性などもある種の信用の類であって、協調性や流通性を前提としており、結局のところ世の中で重宝されてる指標に行き着く。高学歴者から言わせれば、『大人になってからも有名大学は別に受験できるよね?なんで行かないの?』である。
- 低学歴の人生とはすなわち特攻隊である。アメリカにおいて、移民たちが率先して激戦の最前線に放り込まれたように、ビジネスの最前線の危ないところは低学歴が開拓する。ブロガービジネス、オンラインコンテンツビジネスなどに高学歴が増えたがルーツを辿れば低学歴による開拓である。
笑笑笑笑
低学歴詰みすぎ!wwwwww
では、低学歴が人生逆転する方法について考察していこう。
- もはや、学問を新設してしまう。正確には学問まがいを新設する。つまり、実験してフィールドワークして、研究して、他の学問の血を応用して学際的な営みを行い、理論を構築し、自分で自らオリジナリティあふれる知の体系を創造・開拓していってしまう。西園寺はこれに成功してしまった。まだ途上だけど。
- 西園寺の壮大な人生実験は、自分のやりたいことや目指す姿の中で、ノウハウやナレッジを蓄積して体系化し、それをコンテンツとしてまとめ上げること
- そもそもホワイトカラーの仕事は概念の創造と概念の理解と概念の操作でっせ。
- そういう意味でWebマーケティングは数学に近い、ひたすら概念をいじってる。
- Webマーケティングの世界には英語派と数学派がある。英語派は欧米圏の横流しをしてるだけでありある意味商社的。数学派は研究開発、開拓、実験を続けてる。
- マーケティングを教えてる人間たちがみんな英語ができる理由、わかるよね!!!!メッカにアクセスして横流ししてるから!!!!
- 海外から横流しをする英語派か?歴史や業界と業界外を再検証し続ける社会派か?人間心理を見つめ続ける国語派か?実験と研究開拓を続ける数理派か?
- 西園寺は国語派、数理派。
- つまり、どんな組織もナレッジやノウハウを蓄積しており、それを研究、実践、教育しているという意味では大学と同じことをしている。結局、世の中はそーゆーところなのであり、仕事とはそーゆーものに根付く。つまり、積極的に自分自身を研究、実践、教育の主体として位置付けてキャリアを歩めば良い話なのである。
- 本質的に知識社会で成功するビジネスパーソンになるということは、大学で講義が持てる、本が書ける、コンテンツが売れるという状態やそれに近似・相似するものを目指すことであり、転職市場で高給がオファーされる人材もその人材が保有するノウハウとナレッジが肉体丸ごと買われるということである。ユーチューバーとかも独自のノウハウがある。知識社会において従来の資本の価値は下がり、人や知識にウェイトが置かれていく中で、頭の中にあるものに値段がつかないのは苦しい。
- 社会に出れば学歴関係ない、というのは実務や、成果面でパフォーマンスを出せれば良いということである。ただしこの成果やパフォーマンスにレバレッジをかけられない、シェアできないというのは致命的。なぜならば、シェアして評価されないものは価値がない可能性が高い。もっといえば、組織は一個人に依存することや直観やノリ、なんとなくで動く人間を嫌うので、知の体系を組織にインストールできる人材、共有し結果を再現させられ組織改革できる人材を好む。よって、レベル1は実務で有能、レベル2はその実務力を体系化、仕組み化して共有、教育指導できることであり、後者になれば学歴の壁を超えて上流から招聘される。そもそも出世とはティーチング、コーチング、マネジメント、コンセンサスなどの割合が仕事として増えていくこと。
- 自分なりの知の体系を保有しておけば、再現性の高い形であらゆる場面で結果が出せる、もしくは居座る場所で継続的なパフォーマンスが出せる。この状態でいわゆるリスクテイカーズの世界に居座る。低学歴でも安定継続的に成果を出してる人間とは、いわば新たに学問してしまった人間であり、ニュータイプの研究者、学者のようなもの。例えば中村俊輔や遠藤保仁のような学問とは無縁に見える人材は、サッカーや司令塔論、FK論などで独自に学問してるに等しい。アカデミックスマートに対するストリートスマートである。このタイプでも、知の体系化と教育伝播がうまいのもいれば、そうでないのもいる。ほとんどはテキトーな自己啓発のようなことを喋る。伝えられる力があるかどうかはさておき、まぐれ当たりではなく継続的な成功、再現性ある成功が実現できてる人間には、表面化・外出化されないだけであって何かある。
- 西園寺が、いわゆる勉強らしい勉強をする理由は、使える知を自分の中に輸入したいのと、もう一個は世間とコミュニケーションを取るためである。
- 自己啓発市場、コンテンツビジネス市場、大学、根底にあるのは全部同じ。ただ、お作法やatitude、記述表記の仕方が違う。
- 知の体系化はものすごく時間がかかる上に、それを理論構成としてしっかりさせるまでにかかる膨大なコストは無駄が多い。ざっくりとでも良いからさっさとシェアして欲しい人もたくさんいる。よって、基本的に巧緻な理論や学問、知の体系が世間一般にシェアされるまでには時間がかかる。大学レベルで共有されてるものは基本的にぜんぶ、『古い』。
- そしてそもそも、学問レベルになってしまったものはそれ単体ではアドバンテージがとれなくなっており、基礎レベルとしてコミュニケーションに資するものや応用研究の土台となるだけ。
- コピーライティングはもはや数学になりつつある。それを前提に話を進めますよ、と。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。