2021年、人生を変えたいともし君が思ったなら 〜人生が変わった時の話をしようか〜

 

今のところ、人生で「あれは魔法だった」と思う経験が2つある。

1つは若さ。

もう1つは夢に賭けた経験だ。

 

ちなみに今でも、魔法にかかることができる方法を1つ知っている。それは、見たことの無い景色や、心を奪われた景色を再訪しに行くことだ。

 

We are the lovesick girls
이 아픔 없인
난 아무 의미가 없어

 

 

私が、

心をレイプされる経験

心の膣穴を広げてガバガバにすること

とよく表現するように、若いうちは心のキャパシティが狭い。

そもそも見聞が狭い。

 

これをまるで「レイプされるかのごとく」、犯される経験は、ネガティブから入り、あるいはadoみたく「うっせえわ!」と社会に叫びたくなるヤンキーマインドを醸成させ、でも結局最後は種を植え付けられて妊娠させられる。

就活狂想曲もそうだが、繰り返し先人たちが立ち向かっては、折れて行った。20歳前後は、とにかく、誰もが社会に対して牙を向いている。

 

 

オマハの有名な老人が、

早く子供を産ませたいからと言って女を9人妊娠させても意味がない

と言っていた。

逆に言えば、時間の経過はコツコツと、着実に何かを育てる。育ててしまう。

 

少し熟れるのが早く早熟した少女が、悪い先輩たちに目をつけられて、集団で回され、ドクドク中出しを決め込まれて誰の赤ちゃんかわからない命が育っていくように、確実に、生き急いだせいで「15歳の母」よろしく、私は何かよくわからないものを育てていた。

それはある意味自分の子で、自分の子じゃない。

 

四方八方から種を植えられていた。

 

 

とかく、

なぜだかわからないけれど、

とにかく遠いところに行ってしまいたい、という気持ちだけがあった。若い頃はこれが顕著だった。

 

遠く。

ここじゃない何処かへ。

 

しかし何処かもよくわかっていない。わかっていることは、唯一、「ここではない」ということだけ。

 

 

若く生き急いだ人間たちを待ち受ける怪しげな宣教師というのはいつでも何処でもいて、

君は何を望んでいるんだい?制限を取り払って考えてごらん

などと何を悪だくみしているのか何なのか、わからない笑顔で聞いてくる。

「ええと・・・・」と、若者特有の足りない頭で思いつくものといえば、とにかく、贅沢の博覧会というかなんというか、とにかく無限に使えるお金と、そのお金がもたらす煌びやかな何か。昔から知っている人間たちが自分に羨望を向ける姿、あるいは異性モテか何か。

 

欲しいのかどうかすらわからないけれど、とりあえず、制限が無いんだったら、「今の自分には届かない・できないこと」を列挙してみようという気になる。

すると、喋ってるうちに、自分もそれが欲しいのでは無いかという気がしてくるものだ。そしてなんとなく、それを追いかけ始める。

 

行き着くのは金とか・・・・自由とか・・・・自分らしく・・・・とか・・・・好きなように・・・・とか、ありふれた、ベタ中のベタ。

もはや妄想と言えるレベルの暴走。

 

今思えばアレは何だったんだと思うけれど、オトナになって若い女の子のツイッターやインスタを見ると、

「いつかこんなところに、誰が連れていってくれるのかな・・・・」

みたいな書き込みをしてたりするから、若い時特有の頭の働きなのかもしれない。おそらく、考えることのほとんどがイマジネーションで成り立っているのだと思う。

経験に裏付けられた実証データが脳内に無いのなら、人は願望に基づいたイマジネーションしかしない、出来ない。

 

 

人生においては、追っている時にはその対象はなかなか簡単に手に入らない。小賢しい恋愛ノウハウに書いてそうな

押してもダメなら引いてみな

のやせ我慢なんかしてみるけれど、それで手に入るわけもない。それで簡単に手に入ってしまうなら、人生にドラマにクソもない。完全なる三文小説。しかし、その真逆の、一生儚い蜃気楼を追いかけ続けるのもまた三文小説。望むのは千両役者たること。ところが頭の中では自分中心の脚本を描いているのに、世の中がこれを受け付けない。世界は自分を中心に動いていないということを受け入れたら負けな気がするという時期はある。

 

ハッキリ言って、見事に人生の歯車は動かなかった。

いや、動いていたのかもしれない。けれど、動いているとは感じなかった。

 

変わりばえのない日々は、焦りを生む。

何も変わらない、どうして。ここじゃないのか、向こうなのか。渦中にいた時、割とそんなことを考えていた時期もある。今思えば、ただクルクルと踊っていた。ダンスの初心者が、鏡の無いところで、思う存分ノリノリで踊っているように。頭の中ではマイケルジャクソン。外から見たらタコ踊り。

 

そういう状態を表現する適切な日本語がある。

 

「地に足が着いていない」

 

 

本当に大切なことは、誰かから教えてもらえない。

自分で気付くことしかできない。

 

そして、その境地に至るには、あるプロセスを辿らなければならない。それは、諦めというか、疲れというか、そういうものだ。

 

鼻息を荒くして、血走った目で、興奮して頭を突っ込み、願望だけが膨れ上がっていき、やがて崩壊する。

 

理想と現実のギャップか何か。何処かでバブルが弾ける。まるでインフレが弾けて一気にデフレになるかのように。

こうなってくると、もうイヤになってくる。耳に入らなくなってくる。宣教師の顔も見たくなってくる。こうやって、人は塞ぎがちになっていく。

 

 

その時、人ははじめて、鏡を見るのだ。

 

信じるものを失った時、人は、自分に帰る。

散々膨らませた風船が割れて、元のサイズに戻る。

 

自分に帰った時。

それがスケールダウンというか、まるで都会から田舎の実家に帰ってきたような感じになることがある。昔はそこにいたくせに、どうもショボく感じられてしまう。その時はじめて、自分が変わってしまっていたことを知る。と同時に、「昔の自分はショボかった」と自覚する。前以上につまらない人間だったと感じる気持ちが強くなっていることに気付く。

 

 

何かを諦めた時、意気消沈する。スケールダウンした気がする。都落ちした気がする。疲れたから、都会から実家に帰ったはずなのに。それを選んだはずなのに。どうしようもない寂しさが押し寄せる。敗戦の撤退は辛い。

そんな感じで、卑下してしまう。

 

都会に嫌気がさして、あるいは会社に嫌気がさして、そこから去ろうと思った時、嫌で去った場合においても、やっぱり必ず名残惜しさがある。自分が一度は夢見た対象から撤退する時、それは余計に、だ。

 

ただ、不思議なように、人生はまるでよくできたドラマだ。

ようやく、ここに至って、人生の歯車が音を立てて回転し始めるのである。

 

 

多分、昔、テレビドラマで全盛だったラブストーリーもこんな感じの流れだったんじゃないか。つまり、衝撃的な出会い、恋の発展、ピーク、しかし激しい落下、撤退しようと寂しく別れを決断した時・・・・・

どうしても、最後に1回だけ、再チャレンジしてみたくなる。ラブストーリーだと、この最後の1回は、「自分が後悔しないために」、どうしても体が、勝手に、気がついたら動いてしまうことだから、自ずと素直になって、素直になった自分から吐き出された言葉が相手の心を射止めてしまう。

 

実は、人生のドラマも全く同じこと。一度落ち込んだ自分は、地に足がつきながらも、それでも前を向いて進もうとしている健康的な状態なのだ。

神は、この段階になって、ようやく歯車の稼働を許す。音を立てて運命がガコンガコンと動き始める。鍵穴に正しいキーが刺さり、エンジンが動き出す。

 

 

太陽に近づき過ぎた天使は、蝋で固めた羽を焼かれて地に堕ちて何ちゃら・・・

という話があるけれど、夢とか理想とか願望といった熱に浮かされた人間は、やっぱりどこかで痛い目を見る。一方で、その真逆にいて、地に足ついた足元しか見ない人間の人生は三文小説。何も無い。

等身大の自分を見つめながらも、それでも前に進もうとする人間にだけ、道は切り拓かれる。

つまり、最初、熱に浮かされた過程は必要なプロセスだったのだ。それが無ければそもそも、小さくまとまって人生を終えていたことになる。浮かれるのも必要な前振りだったということになる。

そのカラクリに気付くのは、ずいぶん経った後だけれど・・・。

 

 

撤退する寂しさを味わってしまったものだから、長くて、暗くて、曲がりくねった道さえも、感謝しながら真剣に取り組むことができる。そのプロセスを、一歩一歩、進めていくことができる。

 

 

気がつけば、先ばかり見ていて、ほとんど眼中になかった道のりの地形に興味とか、関心とかを払えるようになる。

 

 

道のりが多少泥臭かろうが関係ない。

 

 

多分きっと、その道中にいるときは、時の流れが歪む。

気がついたらこんな時間。気がついたらこんな日付。

そういうことが続くかもしれない。

 

 

そして、とうとう訪れる。

その日は突如として訪れる。

 

現実は本当に動くのだ、と実感できる日が。

 

 

昔、「記念日」という言葉が嫌いだった。

そこには、どうしても拭えない取ってつけた感があった。

大したことが無いものを無理矢理、虚飾しようとすると、違和感を感じる。何より、自分がそんなに、その日に、喜べないし、思い入れがない。にも関わらず、そんな日を設定してしまえば、スケジュールに自動的に苦痛がリマインダーされたことになる。これが定期的にやってくる。忘れたら怒られて、忘れなくても演技しないといけない嫌な日だ。

 

でも、メモリアルデーの意味がわかる時は必ずやってくる。

人生には忘れられない瞬間というのがやってくる。

 

あの日の、あの時の喜びは忘れない、という瞬間だ。

 

 

何がしたいのかわからない、どこに行きたいのかわからない

そんなことを思っていた時と比べて、一皮向けた人間は、人生の質はそんな「メモリアルデー」をいくつ作れるのかによって左右されるんだ、ということが人生の確かな歩みと共に感じられている。

気付けば遠くに来ていて、目前には昔夢見た景色が広がっている。

 

でも、不思議と、喉から手が出るほど欲しかったあの時とは違った、粘着性の無い爽やかな心持ちで眺めていられる。

いや、正確に言うと、ややドライ。

悪く言えば、冷めちゃっているのだ。

 

 

大切なことは、ただ、丁寧に歩みを進めること。

それを嫌という程わかっているから。

 

そのプロセスの果てに、結果があるだけで。

 

素人のマラソンランナーはきっと、「完走」というタイトルや、「完走した瞬間の自分の姿」ばかりが頭で思い描かれている。でも、プロはきっと、99%、走る道中のことを考えているんじゃないか。

そうなって来ると、あんまり浮かれなくなってくる。

 

 

そして、気がつけば、失ってしまった「何か」に思いを馳せて、

忘れかけていた記憶や気持ちを手繰り寄せる。

 

淡い夢だけを見て、三文小説みたいな人生を送るのは嫌だ、

と必死に生きて来た過程で身につけたものは、

確実に自分の実になったけれど、

一方で

見たことのないものを必死に想像し、

思いを寄せ、

熱狂したり、夢中になる力は失われていることに気付く。

 

12時の鐘は鳴ってしまった、と。

 

ガラスの靴を落とさずに12時を迎えた人間と、落として12時を迎えた人間とではあまりにもエンディングが違いすぎる。ただ、後者の人間も、後からカラクリを知って愕然としてしまう。

「Dreams come true」だとか「夢は呪い」だとか色々言われるけれど、真実は、どっちでも無い。

この世界は、行動に報いる。そして、夢を見た人間は、「夢の中」、つまり「夢中」なのであって、言い方を変えると、自分で自分に騙されている。騙されているから、行動できる。「お薬飲めたね」とほとんど全く同じ原理なのだ。

 

 

間違いなく、自分はシンデレラボーイだった。

シンデレラストーリーを歩んで来た。

 

たとえ、夢でも、理想でも、幻想でも、妄想でも、

一瞬でも舞踏会に出てガラスの靴を落として来てしまったら、

そこから人生は変わっていく・・・いや、

 

「ズレて」いく。

 

ズレの連鎖が、人を、遠いところへと連れていく。

 

 

世の中には、様々な夢や理想への手引きがある。あちこちにキラキラとしたものがチラついている。

それを、「フン」と無視をして、地に足つけて生きていくのも良いだろう。一番安全だ。何より間違いが無い。

そして、こういう人種が鼻で笑っている、キラキラに踊らされた人種の多くが痛い目に遭うのは否定しようがない事実だ。

 

 

一方で、これも事実だ。

 

たとえ、荒唐無稽な夢でも、99%叶う見込みがなくても、一度心の底から信じてしまえば、現実は確かに動いてしまう。

 

 

私は今、幾多の結婚の機会を見逃し三振しながら、苦しんでいる。

 

「愛してる」「君を幸せにするよ」「結婚しよう」はおろか、

「好き」「付き合おう」の一言すら言えなくて。

 

何かテーマが目の前にやってくると、現実的なプロセスに思いを馳せてしまう。

 

おそらく、結婚の類も、結婚そのものに夢があるのではなく、夢を見て、夢を共有し、それを信じて前向きな行動をした先に、実際に現実が動き、創造されていくものなのだろう。

だからこれを単純な選択問題に還元してしまえば、おおよそ「当たりだった/ハズレだった」の二分法になる。

就職だってなんだって同じだ。

 

実際のところ、人生は、信じる力の強さと、そこから生まれる前向きな行動で動き、作られていく。

これが最も有利なのが若いタイミングだ。

若ければ若いほど、夢を見て、信じられる。何より、99%無理なものを、その1%を、圧倒的な行動力で無理矢理捻じ曲げてしまえる力がある。

 

 

 

 

今、私は、ありとあらゆる場面で、こう思う。

 

騙せ、俺を騙せ、騙してくれ

と。

これは、一般的に使われる「騙し」の用法とは違う。

 

若者は放っておいても、簡単に、勝手に騙される。自分で自分を騙してしまう。

 

これがある段階からは、誰かの力を借りないと、無理になってくるのだ。これは百戦錬磨の美女が言う、「口説いてくれ」に近い。彼女らの言う口説いてくれは文字通り近寄ってくれ、と言う意味では無い。「私を落としてくれ」に近い。

 

安易で手軽なツールに、酒とかSEX、

もう少し込み入ったものにディズニーリゾートがあるけれど、

もっと壮大でドリーミーなものに飲み込まれて

人生を捻じ曲げた経験があると、どこかでそれを期待してしまうのだ。

 

何故ならば、それが無ければ、「あれが最後の変曲点だった」になってしまうのは他でも無い自分が嫌という程わかるから。

 

 

We are the lovesick girls
이 아픔 없인
난 아무 의미가 없어

 

 

 

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。