Σ:「結婚して幸せになる」以外は全て叶う身も蓋もないメルマガ
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仕事というのは本来、
社会とつながるため、つまり自分を「外化」させるためのものでした。
今でも、仕事選びに関して、
「コーリング(天命)」
で選ぶのが最も幸せだ、という発言をするような人たちがいます。
某テック系スクール創業者youtuberの人とか。
この仕事が経験になる、
給料が良い、
スキルを身に付けたい、
みたいなものはゴリゴリのキャリア思考であり、
「働かないと生きていけないから」
「ただ流されるように仕事している」
というスタンスは淡白なジョブ思考ですが、
コーリングというのは、
イソップ寓話の「三人のレンガ職人」に代表されるような話です。
仕事に崇高な目的を見出しているというか若干スピリチュアル。天命思考。
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世界中をまわっている旅人が、ある町外れの一本道を歩いていると、一人の男が道の脇で難しい顔をしてレンガを積んでいた。旅人はその男のそばに立ち止まって、
「ここでいったい何をしているのですか?」
と尋ねた。
「何って、見ればわかるだろう。レンガ積みに決まっているだろ。朝から晩まで、俺はここでレンガを積まなきゃいけないのさ。あんた達にはわからないだろうけど、暑い日も寒い日も、風の強い日も、日がな一日レンガ積みさ。腰は痛くなるし、手はこのとおり」
男は自らのひび割れた汚れた両手を差し出して見せた。
「なんで、こんなことばかりしなければならないのか、まったくついてないね。もっと気楽にやっている奴らがいっぱいいるというのに・・・」
旅人は、その男に慰めの言葉を残して、歩き続けた。
もう少し歩くと、一生懸命レンガを積んでいる別の男に出会った。先ほどの男のように、辛そうには見えなかった。旅人は尋ねた。
「ここでいったい何をしているのですか?」
「俺はね、ここで大きな壁を作っているんだよ。これが俺の仕事でね。」
「大変ですね」
旅人はいたわりの言葉をかけた。
「なんてことはないよ。この仕事のおかげで俺は家族を養っていけるんだ。ここでは、家族を養っていく仕事を見つけるのが大変なんだ。俺なんて、ここでこうやって仕事があるから家族全員が食べいくことに困らない。大変だなんていっていたら、バチがあたるよ」
旅人は、男に励ましの言葉を残して、歩き続けた。
また、もう少し歩くと、別の男が活き活きと楽しそうにレンガを積んでいるのに出くわした。
「ここでいったい何をしているのですか?」
旅人は興味深く尋ねた。
「ああ、俺達のことかい?俺たちは、歴史に残る偉大な大聖堂を造っているんだ!」
「大変ですね」
旅人はいたわりの言葉をかけた。
「とんでもない。ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを払うんだぜ!素晴らしいだろう!」
旅人は、その男にお礼の言葉を残して、また元気いっぱいに歩き続けた。
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こういう、コーリングで働いている人たちは
パフォーマンスが良いとか、幸福度が高い、とか言われていたりします。
このコーリングも要するに、
自分を外化して社会と接続させる中で
自分の社会的な意義を見出すものだと思います。
ここで問題なのは、
居酒屋の店員レベルの人間が、ブラック経営者に、
「私たちの仕事は、みんなのありがとうを集める仕事だ」
と刷り込まれていたりするような現象がある、ということです。
本来的に、仕事というのは、
自分を外化させて社会と繋がり、
社会的な自分の役割や天命を悟って、そこに奉仕することに喜びを感じるという側面はあります。
ただ、
資本主義の膨張・暴走によって、
やがて仕事は資本合理性や効率性を追求するものとなり、
システムは肥大化し、
いつの間にか労働者はシステムの一部、システムに食われている存在になりました。
やがて仕事は、
人々を外化させるものではなく、
阻害化させるものになってしまった。
どうでしょう。
仕事をしているせいで虚しい思いをしている、という人はいるのではないでしょうか。
低賃金で僻地の工場で働かされている人とかそうでしょう。
グローバルレベルで見れば出稼ぎをしてホームシックになり泣いている人もいる。
現在の世の中では、
人々は
「愛ー家庭」
というホームベースを形づくり、そこで自らの居場所、社会を形成するのがスタンダードです。
そこで社会的な意義を見出す。もしかすると配偶者の親族とか、子供のPTAから発展するつながりもそうかもしれない。
それとは別に、
「ゴリゴリの資本主義」
の世界である職場、仕事の世界がある。
今、人々は、
・愛-家庭
・権力-政治
・貨幣-経済(会社)
・心理-学問(学校・大学)
というメディアを通して生きている。これらがへその緒のようになっている。
私が肌感レベルで厄介だな、と思うのは、
地方の悪質なコミュニティ性、劣悪な人間関係です。
地方では、強力な地盤を握っている企業とか、政治家とかが存在し、
しかも彼ら・彼女らが結託してズブズブになり、強固な既得権益を形成していたりします。
そこに争うものに対しては、
当然、それなりの仕打ちがある。
地方の大学はそもそも力が弱いし、真理を追求するというより地元の有力企業への就職予備校になっていたり、
そもそも強い企業が地元で学校・大学を運営していたりするわけです。
政治と経済はズブズブ、メディアもズブズブ。
結婚は、たとえば愛知とかに代表されるように
「彼はトヨタ系らしいよ!」
というのが19歳の娘に対して強烈な訴求力を持ったりする。
都会よりも地方の方が、人々は家庭に生きがいを見出していたりするし、
この結婚・家庭形成ゲームは早期に決着がつくし、
既得権益層がガッチリとしていて、
排斥的・閉鎖的だったりする。
これに比べると東京なんかは他所から人がやってくるユニバーサルでインターセクションなところがある。
そもそも、労働者が多く、労働者に最適化されが故の大都会でもあるわけです。
そこには多様な職業の選択肢があり、学校の数も多い。
もちろん、有名大企業郡と、東京一工・早慶上理・GMARCHが牛耳ってる部分もありますが、少なくともサラリーマン社長がそれなりの給与がもらえていて人事に適度に新陳代謝が起こっているということは、
それなりにシステムがしっかりとして回っているということでもあります。
なかなか言語化するのは難しいのですが、
地方で社畜をするのと、東京で社畜をするのはだいぶ異なるのです。
そこには多くの労働者が集まっている。
各地から集まっている。
地方に住んでいても、どのみち仕事をしないといけないのだから、
その意味では「仕事」という点で、
・可能性
・システム
・給与
・バリエーション
に優れている東京にいた方が良い。
そうであるから、みんな上京する。
それだけではない。
東京で社畜をするというのは、東京に住むということ、東京というコミュニティに接続するということです。
高い家賃はそのアクセス代です。
東京に行くことで、家賃が年間当たり100万円(月8万円〜)増加したとしても、
年収が100万円、150万円、200万円増えるならトントンでしょう。
家賃補助がある場合もあるでしょう。
何よりそれは東京への常時アクセス代なのです。
東京には、
仕事そのものや仕事がもたらしてくれるライフスタイルに対し、
心の底から「天命だ!」と思える選択肢もあるでしょう。
コーリングで生きていける部分がある。
あるいは、ゴリゴリの「キャリア」思考で生きていくこともできる。
スキルアップ・ステップアップしたり、会社を乗り換えて生きやすい環境がある。
地方にはそのどちらもない。
だからジョブと割り切る。
そしてそれだけでは味気ないから、
家族というコミュニティを作る。
・・・・この構図。
大人になると、地方がいかに、
ゲゼルシャフトとゲマインシャフトの悪いところ取りになっているかに
気付かされることは多いでしょう。
一見すると都会に思える関西においても、
・日本電産
・餃子の王将
・MKタクシー
など、ブラックの噂が立つ有名企業があるのは、
内輪で完結している・東京のようなユニバーサル性が無いというのに加えて、
関西経済の弱さ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの悪いとこどり・・・・
みたいな現象が発生しやすいからでしょう。
何せ、京都が神輿を担ぐかの如く持ち上げまくっている天皇、
これは悪しき旧体制の象徴でもあったわけですが、
この「上位下達」的な気風が骨の髄まで染み付いているかもしれない。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。