少し寂しそうな君にこんな話をしてあげよう

私には強い意志がある。

そのWILLをアクションにつなげて、現実化する事に人生を賭してきた。

はっきり言って、狂気である。

ナポレオンの、「思考は現実化する」を枕にして寝た事ある奴、名乗り出ろ!

寝る前に洗脳するかのように読み漁っていたことがある奴、名乗り出ろ!

 

この狂気の背後には何があるのか?

人生に対する憂いがあるのである。

ハッキリ言おう。

貴様らは、必ず人生に落胆させられる。

恋人、仕事、会社、自身の才能、尊敬する人、愛する人、親、親戚、友達・・・・。

なんでも良い。

そして、必ず、袂を別つ時が来る。

 

成功したよくいる起業家のように、「徳」「人格」なんぞ語る気は無い。語る資格がない。語る気もない。私はただ、人生の悲哀を語ろうとしている。ポエムを描き出そうとしているのではない。血と涙と汗の上に、この身で感じてきたことを魂で語ろうとしている。リアルだ。俺のリアルな言霊だ。

生きていれば、私は独りなんだ、人生は孤独なんだと悟る時が必ず来る。

夢から醒める時が来る。誰も本当の意味では自分など欲していない。自分は砂つぶの中の砂つぶでしかない。

問いたい。その時に、貴様らは耐えられるのか?

人が心に本当の意味で闇を落とすのは、悲劇的なイベントを前にしたからでは無い。困難に追い込まれたから、困窮したからでは無い。

貧乏でいても、不屈の魂と将来への希望があれば、心は豊かだ。財布は空っぽでも、ポケットは夢いっぱいであれば、人間は幸せだ。

真実に対して、凄惨たる理解を持った時、人はどん底に落とされる。悲劇な悟りを得て、開けてはいけないパンドラの箱を開け、明らかにしてしまった時に落とされるのだ。

 

・・・・一体、どういうことか?

 

端的に言うならば、究極問題、貴方のことを貴方レベルで深く想っている人間はいないということだ。

程度問題ではあるが、誰もが孤独な部分を持って生きるのである。そこに、生き様の旗を立たせてポリシーを持つことが無ければ、・・・断言しよう、鬱になること請け合いである。シニカルで、アイロニカルで、斜に構えた闇の深い懐疑的な人間になっていく。現実を見たく無いが故に、まるでジャンキーのように恋人探しに明け暮れたり、寂しさを埋める電話相手を探したり、友達とべったりしようとしたりすればするほど、病状は悪化する。

では、仮に100%を他者に重ねてしまったら、どうか?孤独を避けるために完全に他者と同調したらどうか?そこにあるのは満たされる感触ではなくて断崖絶壁の奈落の底のような闇の孤独があるだけだと悟るだろう。

満ち足りた結婚生活を送っていて、自分と一心同体のパートナーがいるような幸福感に満ち足りた人でも、10年、20年、30年・・・経つといずれどこかで、悲劇的な悟りを得る。

他者で埋め合わせたものは必ず、消える。どこかで消える。終わる。

そして人間は、その真実をまるで覆い隠すかのように、「結婚」「友達」「パーティ」「SNS」など様々な概念によって、偽装的に隠す。ごまかす。

終わり。

悲しみ。

苦しみ。

失敗。

挫折。

劣等感。

敗北。

貧困。

こういったことを語れば、人は離れていく。

厳しいことを考えたくないからだ。見たくないから。くさいものに蓋をしたがるのだ。そして、

「あいつはそうだったかもしれないけれど、俺は違う」

「あいつは老いた、俺はまだ若い」

「俺だけは、私だけは違う」

と考える。

 

根本的なところから問おう。

人間は独立した生き物だ。

親からでさえも独立している。親は子供を分身と考え、自分のもののように考える人もいる。「カエルの子はカエル」なんて言葉もある。

しかし、確実に、親とはまた違った意志を持つ一人の人間である。

この点は貴方も同意してくれるであろう。貴方は親に隷属しているか?親の一部か?違うだろう。兄弟姉妹でも違うはずだ。

 

子供の頃は被支配者として親と一体化しようとする。

ある程度の年齢になるとパートナーと一心同体化しようとする。

あるいは子供を産んで支配者・母体として一心同体化しようとする。

常に孤独を埋め合わせようとする行動がそこにはある。

 

独立するというのは、他と分離することでもある。

しかし、完全な独立体は生存できないのが自然の理だ。それは単なる孤立だ。社会的生き物である人間は、完全に他と切り離されたら死んでしまう。

つまり、完全なる独立と、完全なる依存の両極の中のどこか。そしてそのポジショニングと国境線の引き方は各々に属する。

 

他と、どのように、どうやって、どれだけ重なるのか。

それは各々が決めることである。

 

そこに正解はない。

だからこそ、人生観とか、生き様という言葉があるのだと思う。

 

ただし、正解不正解は無いとはいえ、人間が人間である以上、「苦しくなる生き方」と「生きやすい生き方」があることは間違いない。

 

独立&依存の真実は、程度問題でしかない。ただ問題は、その線の引き方だ。間違えると、確実に心に陰を落とす。闇を落とす。いつか本当に生きる意味を見失ってしまう。絶望してしまうのだ。

誰もが心に闇を抱えているであろう。

しかし、本当に落ちたことがある人は、「ブラックアウト」を経験している。

ゲーム、ポケットモンスターのごとく。

「目の前が、真っ暗になった」

 

「孤独(ぼっち)」と、「仲間に囲まれている」の間には、優越・序列意識があるように思う。

昔から、ぼっちは劣等的な意味合いがあるとされてきた。

特に若年の世界、スクールカーストが意識される世界ではそうだ。

でも本当は、ワイワイガヤガヤやっている人間だって、薄々気づいているのだ。俺は、私は、本当は独りでは無いのか?その恐怖を埋めるように、ますます人間関係に依存していく。普段、ワイワイがやがやしているからこそ、余計に、孤独を感じる瞬間的なシーンでは虚しさ・悲しさがこみ上げる。

だから、ワイワイガヤガヤタイプの人間関係への執着・依存は異常である。

いつか必ず死ぬ。

いつか必ず老いる。

いつか必ず独りになる。

その現実は信じられていない。

それを埋め合わせるかのように、生涯現役欲求が出たり、仕事への活力に転化されたり、子孫への大きな愛情の萌芽を感じたりする。

一般的に人間は、自分の願望や欲望のルーツに興味を持たない。

探ろうとしない。

でも常に、自分の中で、コアとなってドライブしているテーマがある。それは、孤独や帰属、そして己は何か、「for what?」という問題である。生き様、生き方だ。

 

なぜ男は女に弱いのか?

それは性的な本能でもある。

しかし、どこかで、包み込まれるような愛を求めている。そしてそれは女も同じだ。これは結局のところ、結合したいという欲求なのだと思う。本質的には、性交渉への願望も、家族を形成したい願望も、恋愛も・・・そうなのだと思う。

しかし、ここで多くの人は残酷な現実に気付くだろう。

あまり異性関係に恵まれてこなかった人は早くから悟るが、割とそこそこモテてきてしまった人は、相当な洞察力が無いと、歳を重ねないと、気付けない真実がある。どれだけイケメンであろうと、美女だろうと、お金持ちであろうと、・・・・・・いつか向き合わねばならない。

「盛者必衰の理」で、いつか悟る。

 

映画でも小説でもなんでも、基本的に全てのストーリーは、特別な存在を見つけ出して結ばれることにある。ほとんどの物語がそうだ。私たちの脳みそにはそれが自然と刻まれている。このストーリーは、全ての人間が信じ、吹聴してくるもので、まるで酸素のように当たり前に世の中に横たわっている。だから、誰もがこれを当たり前のように概念として脳みそに格納しているのである。

ただし、ごく一部の人間だけが、気付く。

 

他者と重ならない領域において、自己を定義できたもののみが、はじめて、己を愛し、人を愛することができる。

そこにあるのは、世間で流通する「人を優しく」とか「人を大事に」とか「人脈・・・」と言った軽薄な話では無い。

愛は、自分にとって都合の良い相手を形容するためにある言葉では無い。

 

私が赤の他人から、「あぁ、愛を受けたな」と感じた相手でまず筆頭に浮かぶのは男だ。昔の上司だ。彼にはキスをされたことも、ハグをされたことも、優しくされた覚えもない。どちらかといえば、厳しくされた、罵倒された思い出がほとんどである。しかし、確実にそこには愛を感じた。

昨今、パワハラ・セクハラ問題が世間を騒がせるが、言質だけを取れば彼はまさにパワハラ・セクハラの塊であった。しかし私は彼が好きだった。絶対に口にはしないけれど、特別な想いがあった。

惚れていたのだ。その人のために働いていた。

 

他者と重ならない領域において、はじめて自己を定義でき、自己を定義できたからこそ他者との関係性も構築することができ、何より自己と他者との重ね方において境界線を意識するからこそ、愛を与えられる人間になる。

GIVINGはA from Bなのである。そのAが無ければ、優しくできない。愛せない。

単なるひ弱な、軟弱な、優柔不断な、意志薄弱な人間と思われてしまう。

愛を与えられるというのは、他者で満たされない領域、すなわち他者じゃない自分の領域を定義し、その領土を守り抜くことができた人間にのみできること。その独立戦争に勝利した者だけだ。

ジャンキーのように愛に飢えず人を殺さずに済むのである。

境界線を引き誤った人間、特に女性は、タガメのように愛情を求めて相手を殺すことになる。そして終わりなき追求の果てに、結婚概念に依存し、やがて子供ができるとそこに自己同一化して旦那を不要に感じていくだろう。根底にあるのは孤独と自己を考えてこなかったツケであって、いずれ子も大きくなって反抗されたり巣立っていく。

 

本当に孤独な者は、あまりにも強い。

そして、芯の部分が前向きなのである。

愛情を秘めた厳しさがある。

 

・・・・・・彼らには人生の真実が見えている。

だからこそ、自らの命を、人生を定義し、そして正しく使うのだ。

燃やす。

命の炎を燃やす。

世間一般のリスク概念云々はそこには無い。

 

なぜか?

多くの人が「失いたく無い」と思っているものに対して明らかに違うものが見えているからだ。

人は必ず、騙される。

それは、分かりやすい詐欺にでは無い。

あまりにも常識的に通用している、一般に信じられた概念に、だ。

 

これを得たい。

これを避けたい。

そうやって人は行動する。

孤独もまさにその対象になる。

 

孤独は妄想だ。

逆にいえば、「孤独じゃ無い」「一人じゃ無い」というのも幻想だ。

 

私がここで言いたい孤独云々は、友達の有無とか、誰かと一緒にいるかとか、遊んでるかとか、セックスしてるか、話し相手がいるか、相談相手がいるかというようなことでは無い。それは表層にしか過ぎない。

生き様として、自己Aをどう意識するか。

他者Bをどう意識するか。

A∩Bのエリアをどう心得るか、それ以外のエリアをどう心得るか。捉えるか。

残念なことに、A∪Bのように自己と相手の双方が大きく満たされて塗りつぶされていく特別な関係性を人は夢見ているのだろうが、これは確実に無理なのが残酷な真実。なぜなら、AもBも独立的に何かを欲する存在であるから。それが満たされないと人は必ず、不服・不満に陥る。そもそも繋がろうとする行為が欲する生き物であることの証左である。

何かを欲するにあたり、人は他者と取引する。この取引について、特別な形式を用いる関係性が常態化したものを人は特別な関係と呼び、幸福の概念と結びつける。人は、特別な関係において「求め合う」という言葉を使う。しかしこの求め合う行為は必ず破綻する。構造的に持続できない。つまり、特別な関係を求める行為自体が構造上自己破綻している。

求め合い続けることは分離していることを意味し、特別な関係では無い。重複する領域をシンクロ100%にすればそこからは自己が抹消されて満たされない。重複する領域を小さくすればするほど、自己の独立と自己概念について求められる領域が増えてくる。

 

登っているハシゴを登りつめた時、そこにあるものがあまりにも空虚だったなら、人間は落胆するだろう。

そして、世間一般の人間は、それを「特別な人と出会い、繋がり、特別な関係を結ぶまでのストーリー」に見出している。

特に恋愛にだ。

 

貴方は、満員電車に揺られるおじさんたちに敬意を払っていないのか?

自分と彼らが違う、だなんて思ってはいけない。

孤独を回避した代償がそれなのだから。

 

西園寺

 

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マイルドヤンキーでもなく、意識高い系でもなく、「ハードニート」@西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)@僻地で生きる





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お仕事は、無職です。
「0」は無限だと信じたい。賽は投げられたのだから。


Lose Yourself , Change Yourself.
(我を忘れろ、クソな自尊心を手放せ、お前の全てを何かに捧げろ。そして己を変えろ。)





「遊び心」「粋」「真面目に不真面目」

(組織と他人に縛られるのが大嫌いな人)


"強くなくては生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。"

"世界は変えられなくても、人生ぐらいは変えられる。"

"悪貨が良貨を駆逐する中、悪貨に転じないことが「恥」や「損」であるならば、清濁併せ吞み、仮面を被った「良貨」であり続けるのみ。"

説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-20、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。