実は、ビジネス書の新刊発行のピークは2010年代前半である。
そこから落ち込んでいる。
そのピークは日本の人口ピークとは重なっていない。
インターネットやスマホの普及とも重なっていない。
重要なのは、youtubeだと思う。
今、チープ系自己啓発は、youtubeに全部移った。
昔だったら本になっている内容は、ごっそりyoutubeに移った。
おそらく、これは「ホリエモン&箕輪コンビ」がダメになった時期と重なると思う。
昔だったら紙の本になっていたものが全部youtubeへ。
そして彼らが再生回数を稼ぐ。
また、ペラペラな内容は、全部書評チャンネルが要約する。
結果、出版は壊滅的な危機にあるだろう。
よって、今後の出版は、
- 専門的
- 活字向き
じゃないと厳しくなってくる。これまで、「儲からない・売れない」とされたようなものこそ、本にする意味が出てくる。しかし、部数は稼げないだろう。
よって、今後は、「大学」が意味を持つと思う。
大学であれば、大学でマネタイズして、さらに出版部でそのまま出せる。
大学が再び出版の担い手になる、という流れは、実際すでに静かに始まっている。
もともと欧米の一流大学は、自前の出版部(University Press)を持ち、商業性とは一線を画した「知の集積」のような書籍を多数刊行してきた。
この構造は、民間出版社がYouTubeや要約文化に飲み込まれていく一方で、大学出版=知の避難所としての価値を持ち始めている。
しかも、大学出版には以下のような強みがある:
- 売れなくても成立する(公費・補助金・大学内部の予算)
- 専門的であればあるほど信頼性が担保される
- 執筆者のインセンティブは「売上」ではなく「業績」「名誉」
これは、YoutubeやSNSの「バズらないと価値がない」「速くて浅い」が支配する知の流通とは真逆である。
そしてこの構図のなかで、「活字のプレミアム化」が起きる。
活字=貴重な情報源
動画=無料で大量消費する情報
とすみ分けが起き、紙の本には
「参照価値」
「保存価値」
「引用価値」
といった、静的な知の信用性が求められるようになる。
では、今後の出版はどうなるのか?
結論をまとめるとこうなる:
ジャンル | 生き残る可能性 | 理由 |
---|---|---|
浅い自己啓発 | × 壊滅的 | YouTube・要約で十分 |
ライフハック | × 壊滅的 | ネット検索・SNSで消費され尽くす |
実務書 | △ 縮小 | 動画教材やスクール型に移行 |
学術・専門書 | ◎ 持続・再評価 | 大学出版・専門性の需要に支えられる |
文学・エッセイ | ◯ niche化 | コアなファン層に支えられ継続 |
教養書 | △ 編集力次第 | 中身が濃ければ紙でも生き残るが、動画化しやすい内容なら淘汰 |
つまり、これからは「バズりにくいもの」が出版の価値になる。
なぜなら、バズる=要約可能=動画で十分、だからである。
逆に言えば、
- 専門性が高く
- 体系的で
- 要約できない
そういう本こそ、今後の出版の主戦場になる。
そして、それを担えるのは、もはや「商業出版社」ではなく、大学・研究機関・専門職団体になるだろう。
紙の時代の終わりは、「深い知の再興」をもたらすかもしれない。
SEOの終わり
Google検索はもうオワコンだという話がある。
確かに、クソアフィリエイターのステマサイトはもう価値がないだろう。
そもそもGoogleが上位に出すサイト・ブログが微妙になってきている。
一方で、そのうち、対話型AIが「広告」を織り込んできたり、「誘導性」を持った会話をしてきたらどうだろうか?それこそ避けられるかもしれない。
そもそも検索しない
という流れは強化されてきた。
人々は、検索に対してイライラしているのである。
何回検索しても、狙った情報にリーチできない。
この「検索離れ」は、単なる技術的な問題ではなく、人間の情報処理の欲求と限界に根ざしている。
かつてGoogle検索は「万能の道具」だった。
だが、今では──
アフィリエイトまみれ
SEO最適化のゴミ情報
「知りたい」より「売りたい」が上に出る
検索語を変えても同じようなサイトばかり
…という体験が、ユーザーの認知的な疲弊を引き起こしている。
ここに現れるのが、「検索」から「推薦」への大転換だ。
人々は自分で調べるより、誰かが整理してくれたものを受け取る方が圧倒的に楽で、確実で、信頼できると感じている。
それが、
YouTubeの書評動画
TikTokのハイライト解説
X(旧Twitter)のまとめ投稿
そしてChatGPTのような対話AI
である。
■ 検索から推薦へ:「欲望の自動化」
検索とは、「能動的な問い」だ。
しかし、現代人の多くはすでに「問いを立てる力」すら持ち合わせなくなっている。
その代わりに、
「おすすめは?」
「みんなが買ってるのは?」
「人気のやつは?」
と聞くようになる。
これは、情報処理の構造が探求型から受動型へ移ってきた証拠だ。
YouTubeのホーム画面、Netflixのレコメンド、Amazonのベストセラー。
あれはもはや「エンタメ」ではなく、現代人の認知の入り口そのものである。
■ 未来の検索エンジン=対話AI×推薦アルゴリズム
近い将来、検索エンジンという概念は消えるかもしれない。
代わりに現れるのは、
- 対話型AIが
- ユーザーの過去の行動や好みを参照し
- 状況に応じた提案を
- 一問一答でなく「会話」で提示してくる
という世界。
だが、そこにあるのはアルゴリズムの誘導性という新たな危機である。
「何が欲しいかすら、他人が決める」
「好みと思っていたものが、実は選ばされていた」
そんな未来はすぐそこだ。
人は、もはや検索しない。
検索エンジンの終焉とは、知の自立の終焉なのかもしれない。
ユーザーに安易に最適化しない
今後は、ユーザーに安易に最適化しないということが求められる。
昔のSEOの時代もそうだったが、目先のKPIに最適化した人ほど消えている。
考えてみてほしい。
B層に迎合して、チープ自己啓発をやっていても、結局、youtubeにごっそり持って行かれた。B層は底辺が多いので、無料が大好きである。差別性のないところに群がって、結局意味のない活動を続けている。
アルゴリズムで、受け手に最適化されたものだけを提供する場合、受け手も受け手で飽きてくる。似たようなものしかレコメンドされない。
例えば恋愛において、「自分の思った通りにいかない」はストレスだが、「自分の思い通りに行きすぎる」のも退屈である。
ユーザーに対して、主導権を取れるような、まるでプロフェッサーが指導するようなコンテンツは、ユーザーに迎合するアルゴリズムの中ではなかなか出てきづらい。
優れた教育者は、常に生徒の「理解できる範囲」ではなく、「理解できそうでまだ届かない範囲」に教材を配置する。これがいわゆるヴィゴツキーの最近接発達領域である。
同様に、優れた情報提供者やクリエイターもまた、
「ウケそうなもの」ではなく
「ウケるかは分からないが、刺されば深い」
ものを作り続ける覚悟が必要になる。
逆に、アルゴリズムに媚び、レコメンドに最適化し、視聴維持率ばかり追う者は、消耗品として使い捨てられる。これはYouTuberにも、ライターにも、情報発信者にも、全てに言える。
ユーザーの「今」に最適化するのではなく、未来に介入する力こそが、コンテンツの本質的価値となっていく。
■ プロフェッサー型とアルゴリズム型の対比
視点 | アルゴリズム型 | プロフェッサー型 |
---|---|---|
与えるもの | 予測された好み | 新しい視点・違和感 |
アプローチ | 迎合・最適化 | 提案・指導 |
効果 | 一時的満足 | 認知の変容・成長 |
リスク | 飽きられる | 分かりづらい/理解されにくい |
信頼 | 数値ベースの信頼 | 時間とともに蓄積する権威 |
ユーザーの「現時点の興味」にこびるのではなく、まだ気づいていない“思考の足場”を提供すること。この姿勢がなければ、どれだけAIやレコメンドが進化しても、コンテンツは「消耗品の再生産」にしかならない。
言い換えれば、
“未来のユーザーに向けて仕込む”という発想が、これからの知のサバイバルには不可欠となる。
(私は10年前からやっているが・・・)
今すぐは刺さらないかもしれない。だが、5年後・10年後に「これが正しかった」と評価されるようなもの。
そういった時間差のある価値観こそが、アルゴリズム万能の時代における唯一の差別化になる。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。