びっくりするほど、私たちは、支配されている。気づかないまま、支配されている。そして、それに気づかない。
私たちは奴隷だ。無自覚な奴隷だ。一体、私たちは何に縛られているのか。それは、「〜べき」というべき論。このべき論は、子供から大人になる過程で、何かしらの形で学習してしまっているもの。このべき論に、私たちはとことん支配されている。
それすら、自覚できない。気づけない。だいたい、18歳ぐらい以降は、そういう状態になってしまうのではないかな。22歳過ぎた後は、本来の自分を取り戻すことも難しいかもしれない。
一体、自分が何者であったのかすら、思い返すことすら難しいかもしれない。
金とか、名誉とか、地位とか。とことん追いかけた人が、ある段階で、プッツンと切れることがある。頭の中にある糸が、心の中にある糸が、プッツンと切れる。それはきっと、自分の限界を越えてしまった瞬間だと思う。
人間は、無理が祟ると電池が切れたロボットのように動けなくなってしまう。身体の中にアレルゲンが蓄積して、閾値を越えたらアレルギー症状が出てしまうように。無理も溜め込むと祟ってしまう。必ず、反動が来る。酒やタバコの無理があとあとやって来るように、無理も後から病を起こす。
すり減らして得たものに意味が無い、価値がないと人は気づくんだ。そうやって悟ってしまった人は、これまでのあらゆる積み上げをいきなり捨て去ったりする。そして、あまりにもチャレンジングなことに飛び込んだりする。他の世界にぴょんと移って行ったりする。周りからすると、非常に危なっかしい。一体、何をやっているんだという感じがする。でも、その当人の心の中にあるのは、すり減らして生きた人生に対する、根本的な問いなのだと思う。人生に対する問いなのだと思う。そして、それは自己の存在をもう一度、フラットな目で再検証しようとする試みなのだと思う。
一度、社会的なフィルターをとことん外してみる。社会的な価値観を、物差しを、全部取っ払ってみる。とことん、堕ちきってみる。堕ちて堕ちて堕ちて、自分を見つけて、そして、自分を救おうとチャレンジしてみる。そのチャレンジをしたことがある人間は、たぶん、100人に一人もいない。
全てを手放した。
とことん落ちきってみた。
その先で見つかるもの。それは、悟りとか、啓示とか言われるものだと思う。そんなもの、バカバカしいとバカにする人は、たぶん、それをやってみたことがないのだと思う。そういう体験をしたことがないのだと思う。でも、一度、そうやって落ちきってみたときに、何かがフッと降りて来ることがある。
実はこれが、究極の発見だったりする。
これまでに、「こいつは宇宙人だ」と感じる人を、二人ぐらい見たことがある。その二人は、なぜ宇宙人だと感じたかというと、全く持って何かをトレースした気配を感じなかったから。人は、何かしらのトレースの産物だと思うけれど、この二人に関しては、とことん、オリジナリティの匂いが漂っていた。
一体何なんだ。どこから来たんだ。何者なんだ。どうやったらこんな人間ができるんだって。
彼らも、実は、悟りとか啓示のようなものを体験していた。とことん、底に落ちた経験がある人たちだった。そして、その中で、自分とひたすら対話したことがある人間だった。そこから何かを掴んで、必死に蜘蛛の糸を掴んで這い上がった人間だった。
目を瞑り、自己を超越した何かを感じてみる。きっと、そうやってイメージする何かは、自分の心を深く掘り下げていることになるのだと思う。人生経験のビッグデータを参照して、何か、光が見えるような形で、筋道を見出すことなのだと思う。
人はたぶんそれを、直観とか読んだりするんだと思うけれど。
昔は、大嫌いだった。
この言葉が大嫌いだったけれど、今ならわかる。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。