本当の頭の良さとは?今自分がやりたいことが壮大なレベルすぎて泣けてくる

今自分がやりたいことがある。それは、自分自身の持っているノウハウを数理モデルとして表現すること、あるいは数理モデルで知の最前線を開拓しようとすること。

はっきり言ってそれは、アクチュアリレベルの頭脳がいる。いや、正確にはそれ以上だ。

そういう意味で数学者や、物理学者の次元に近い。で、たぶん、無理な気がする。無理な気がするけれど、なんとなく趣味の延長で色々と探ってみてはいる。何かしら、知の開拓をしていきたいという感覚はある。ぱっと洞察したり直観でわかったことを、数理的表現に降ろせない。だから国語的表現になるけれど、これを他者に伝えようとすると齟齬が生じる。たぶん、このギャップは、常に私の頭と他者の頭の間にある壁として横たわり続けてしまう。自分一人の範囲でなら何の問題もない。でも、誰かに何かを伝えようとしたら、その場合、絶対に齟齬が生じるし、たとえばコンセンサスを得て組織集団を動かしていく際に数理モデルを使った説得が困難であるなどの問題が出てくる。

で、思うことがある。

『数学は考える学問である』等々、某予備校講師などが言っていたりするが、断言しよう、たぶんそれは、嘘である。数学の知の地平線を開拓している学者や宇宙の真理を追ってる物理学者、理論を構築している人間には当てはまるかもしれないが、受験を突破しただけであったり、そーゆーことを言ってる大方の予備校講師にそれは当てはまらない。

騙されてはいけない。

逆に言えば、数学ができなくても思考ができる人間はたくさんいる。アホとされてる人でも本当は賢い人もいる。

数学が得意な人間たちは、解放パターンを頭の中に蓄積し、データベース参照してあてはめて解を導き出しているだけである。これは、厳密には考えているとは言わない。知識と考える力は違う。

知識というのは、詰め込めば良いだけであって、その詰め込んだものをベースにデータベース参照、適合、解答する行為は何も考えていない。そして、日本の教育界や受験界で評価されている人間はほとんどすべてコレである。そしてこのベクトルでは、人間は機械に100%敵わない。知識体系に政策的な意図が混入していれば、当然、それに相応した解しか出せない。つまり洗脳は簡単である。学校教育が洗脳と言われる所以、学歴社会の真実はここにある。単に指示命令に従うようにわかりやすく鍛えることばかりが洗脳ではない。高度な洗脳はもっと高次的であって、その意味で、おぎゃっと生まれた時からもう自由意志は無いような気がしてくる。ただ、そうやって考えすぎると鬱になるからやらないんだけど。洗脳されないことと、程よく洗脳されることの使い分けが生きるコツだと思ってる。本当にパーフェクトに洗脳されなくなったら維新志士になってしまう。これは現代用語でテロリストという。有名外資系コンサルティングファームなども、組織的運営を続け、若手の人間に仕事をさせ続けることができている理由は、スキームが出来上がっていて、そのスキームを新人に教え込み、そのスキームに当てはめて解を出させるという、いわば受験教育の延長に近いことをさせているから。システム化に成功している。こうやって考えると、有名大学を出ている人間に本質的に頭が良い人はほとんど存在しない。断言する。いない。もちろん、ここでいう本質的に、というのは超ハイレベルの話であって、そんな人間はいなくて当然、本当に稀だと思う。そーゆー人間と出会ったり、そーゆー人間の創造物に触れたら、とんでもない感動が湧き上がるからすぐわかる。泣けてくる。嘘だろ!?ってなってくる。興奮してくる。ハマってしまう。個人的に、『これは天才の所業….』と感じた作品はいくつかあって、もう、どハマりしてしまった経験がある。そーゆーのを、職探しとかで見つけられて、『好きな仕事』にできた人は幸せじゃないかな。対象は人に限らず。人の頭脳活動の結晶としての物や作品、新興技術、マーケットに触れて、感動し、その世界に飛び込んでいくパターンだってある。

さて。理系は頭が良くて、あるいは考える力があって、文系には無いという話がある。その根幹には、考える学問としての数学の存在がある。しかし、すでに述べたようにその考える学問ってのが怪しい。処理する学問じゃないだろうか。前提が間違っている。うーん、まぁ、学問にはリーダーとフォロワーがいて、フォロワーについては当然のことなのかもしれないけれど。数学が考える学問として成立しているのはフロンティアにいる一部の人間だけであって、大半の人間には当てはまっていない。正確には、ほとんどの数学学習者にとって、この学問は処理する学問と化している。頭の中にスキームを叩き込み(プログラミングし)、それに対してデータベース参照して解法を出すのはロボット仕事である。高学歴卒であることと社会での高いパフォーマンスがリンクしない理由と、社会が高学歴を求める理由がそこにある。

数学ができると論理的思考ができるという話や、文系は論理的思考が弱いというのも全くもって詭弁。数学の点数が高い人間が行なっているのは論理的処理であって、頭の中で実質的に行われてるのは参照、適合、アウトプットでありほぼ単純作業に近い。工場の単純肉体労働と変わらない。要するに、解法を構築しているわけでも、問題解決思考をしているわけでも、知の創造をしているわけでも、一切無い。もちろん、かといって、既存の知識体系に異を唱えるだけ、反発するだけも芸がない。フォローしてなぞることを否定したいわけでもない。本質的にレビューや批判の類に本当の意味での知的行為はなく、むしろ話の前提を提供されているわけだから、後出しジャンケンのようなもので常に批判・避難・代替案提供する側が有利である。野党は簡単で与党が難しい理由もここにある。

テレビのクイズ番組でよく見る、天才学生のようなものも、あれらは大体嘘だと思って良い。嘘っていうか、なんていうか。頭の中に蓄積してきた膨大な解放パターンや知識をベースに答えているだけであって、その処理能力が高いだけ。そして、これは簡単に機械に負ける領域である。もちろん彼らは私なんかより100倍すごいし、その努力は本当に尊敬する。

学校で教わるような単元と単元の間には、ものすごい長い歴史が存在しており、大昔の暇を持て余した人間がうんうん唸って考えて、時には揉めたりして、人生をかけて創造してきたものの、何十年、何百年、何千年の積み重ねのエッセンスを、スキームとして拝借し、模擬試験などを繰り返すことで解法パターンを定着させているだけである。もちろん、これをどこまでもとことんやると、あらゆる課題、問題に対して、蓄積した解法パターンの中から一手を選んだり複合させるようなことができる。

そのため、そういう人間は天才のように見える。がしかし、そこには少々、欺瞞がある。数学に限って見ても、特殊な解法をその場で、あるいは短時間で編み出して解くなんて芸当は有名大学でも何十年に一人の逸材レベルである。

『考える』ということについて、誤解が世の中には広まっている。

単なる知識参照、単なる懐疑姿勢、単なる批判、などなど。

ただし、ストックやデータベースがあればあるほど、土壌が豊かなのだから多面的に物事を見やすい側面もあるし、何より、それらを共有する人たちの間でアイデアを交換しやすい。また、知を創造しても、それをシェアしようとすると、一度、世の中で共有されている表現の技法に降りて、翻訳して通じ合わないといけない。おそらく、スターと呼ばれる人たち、感性や感覚で言動がある人間たちはこの翻訳作業ができない。そして、翻訳ができなければ頭が悪いと思われがちである。なぜなら、頭が良いとはある種の評価であり、その評価がその人に有利な資源や環境を提供するきっかけになることがある。また、他者と通じ合うことでチームプレイができて、実際に現実的成果を出せることがある。

本当に頭が良くて思考し成果を出しそれを表現できるもの、本当に頭が良いが結果に結実しない者、本当に頭が良くて思考しているがそれが自分の頭の外に出せない者、思考力はまぁまぁで表現伝達もまぁまぁの者、思考力はゼロだが頭が良いとされている者、表現伝達に長けているだけの者、、、、、

いろいろいる。

人をパッと見て、見極めること。あるいは、『こういう頭が良い人を求めてます!』という募集で本質的に求められているものが何かを見抜くこと。本当に、現実問題に直面した時に解や創造をできること。

こーゆーのを、しっかりとわかった上で生きていると、変なカードを引かない。ババを引かなくて済む。物事が見えてくる。

もちろん、これは超ハイレベルな次元に焦点を当てた話であり、普通はそんなに気にする必要は無い。

でも、例えば人と結婚するとなったときに、たとえ、目の前にいる人間が世間的に賢いとされる指標を何も持ち合わせて無くて、まわりからはおバカキャラといじられていて、本人も知的な部分や自尊心のカケラもみせず、むしろおとぼけ天然ちゃんとされていたとしても。

『こいつは頭が良い』

と判断して、仮に契りを交わした場合には、後々の生活で、本当に幸せを感じることが多いと思う。人と人が深い関係になり、生活を共にしていると、あらゆる場面であらゆる問題が降りかかったときに、その人がどう対処するかを見ることができる。あるいは、その人の世界や他人に対する解釈を覗き見ることができる。それは世界観と呼ばれ、その世界観はその人の魅力に直結する部分であり、肉体的なものとは違った、別のセクシーさを感じさせられることになる。

もし、そういう人間に、人間性が伴っていて、なおかつ相性が良く、互いに好き合っていたらこの上ない幸せであろう。もちろん、同性間であっても、なんとなくお互いに対する信頼感を感じながら、ビジネス上のパートナーとして、真の友として歩みを進める喜びだって存在するだろう。ゲイツとバルマー、ジョブズとウォズ、バフェットとマンガー、ソロスとロジャーズ、、、、などがそれにあたるのかどうかはわからないけれど、おそらく、人はそうやって『この人となら!』みたいな感覚があるとき、従来のポテンシャル以上のことができたりする。余計に頑張れたりする。

人は、自分が可愛い。だから、自分がよりよくなるのは楽しいし、自分が誰か、何か、どこかにいることで、120%、150%のパフォーマンスができるときに最高のエクスタシーを感じる。逆に言えば、『この人といると、私は何か落ちる気がする』とか、『ここでは腐ってしまう』とか、『飼い殺されている気がする』『ダメになる気がする』という風に感じると、モチベーションを失いがちになる。イキイキ感を失いがちになる。

ヒトラーの側近であった、ゲッペルスは良くも悪くもヒトラーと出会ってその魅力にハマり、傾倒していってしまう。そして、死ぬまで、おそらく高揚感に包まれたままだったと思う。たぶん、ジョブズとその取り巻きもみんなそんな感じだったのではと思う。世の中で、最高に相性が良いと感じながら幸せな結婚生活をしている人もそうかもしれない。

運命の出会いというのは、何も、人に対してだけではなく、技術やマーケットに対しても抱く特別な感情である。

偏見を取り除いて、自分の周りの見渡してみよう。

すごい、ヤバイ、ぶっとんでる、頭良い!と感じる人がいるかもしれない。知的好奇心がそそられる対象があるかもしれない。

私は、市井での何気ない人との絡みの中で、『うわっ、この人、本当にすごいっ!』と感じてしまうことは、あった。そういう人に限って、自分を小さく閉じ込めていたりする。でも、たぶん、すごい奴らってのは、探せばいるはずなんだと思う。

話の趣旨が変わってきたけれど、頭が良いというのは何かに貢献してはじめて意味があるとか、自分が認識できて意味があるというのを前提にするのなら、自分がそう感じる相手は自分に対して何かを与えてくれる人であり、相性が良いのかもしれない。よく、結婚したカップルが『私が出会った中で一番頭が良いと思ったから』と言ったりするが、結婚が出産を前提としており、なるべく子孫の繁栄につながりそうな手を本能的に打つものだと仮定したら、きっとその組み合わせは互いが互いに恩恵を得られる関係性かもしれない。そういう意味で、すごい!頭良い!面白い!というものを見つける旅が人生かもしれない、と思ってダラダラ生きてると、本当にすごい頭いい人だったり、惚れ込むものを見つけたりする。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。