2018年W杯反省会。2002年から観てる俺が思ったことを勝手に書くぜ。

悔しい。悔しすぎる。

ベルギーに負けた。しかもあの試合展開は悔しすぎる。はー。ワールドカップ観るたびに、この強烈な敗北感というか、徒労感というか、燃え尽き感というか。力抜ける。やる気失う。前回はいつだっけ、前々回はいつだっけ・・・・みたいなのを、自分の状況と照らし合わせながら思い出しちゃうんだよな。2大会、3大会遡るだけで、相当昔だからな。

「サムライブルーありがとう」

「夢をありがとう」

「胸を張って帰ってこい」

だいたい、ワールドカップが終わるとこういうメッセージが世の中で喧伝される。ワールドカップ前には、アディダスとかが「青の誇り」とか「絶対に負けられない」とか「我々の思いはあの地に立つ戦士たちと共に」的な、ポエムなメッセージを世の中に出すんだけど、にわかじゃなければ、この繰り返しを何回も目の当たりにすることになる。

日本のワールドカップの戦績は、これ。

  • 98年 グループリーグ敗退 (※W杯初出場)
  • 02年 ベスト16
  • 06年 グループリーグ敗退
  • 10年 ベスト16
  • 14年 グループリーグ敗退
  • 18年 ベスト16 ←NEW!

実は、98年の初出場以降、「グループリーグ敗退」と「ベスト16止まり」を繰り返しており、今回のロシアW杯ではベスト8進出を個人的には期待していた。

どうなった?

実際、試合運びは前半スコアレスドロー、後半はなんと2点先制・・・・。これは行けると思ったら逆転負け。

「グループリーグ敗退とベスト16を交互に繰り返すの法則」延長。

 

いい試合だった、では終われない

グループリーグ突破がかかったポーランド戦で、西野監督の「苦肉の策」は世界の注目を集めた。賛否両論だった。ワールドカップやサッカーをどう捉えるかであるが、基本的にはエンタメ。ワールドカップは皆が必死に勝ちに行くのがエンタメとして成立していると思う。だから面白い。

だから、ポーランド戦のあのパス回しは「アリ」だと思った。あの決断には、いい意味で武者震いがした。この人本気だ、と思った。

 

私的には、西野監督の「パス回しプラン」はそういう意味で本当に面白かった。昔からフェアプレーや美学を賞賛されてきた日本人がブーイングを浴びながら勝ちに行っている。日本のやり方を批判する他国がFIFAに抗議している。これは面白い。長らく観ている私としては、やはり、歴史的偉業という結果を残して欲しかった。だから、西野監督の「勝ちに行く手」は面白かった。本気が感じられた。だからこそ、ベルギー戦敗退(ベスト16)はいい試合だったでは終われない。

あれは汚くも何ともないと思うよ。良い手だ。

それよりも、ワールドカップは昔から誤審が問題だった。ビデオ判定が導入されていたり、ゴールのラインを割っているかどうかを正確に判定できるシステムに感動してしまう。

マラドーナは昔、手でゴールぶち込んだ。これが今は起こらない。サッカーにも時代性があるのだと思う。

フリーキックの際のスプレーも、昔は無かった。

 

一人当たり、3回出場が限界のW杯

4年に1回しかないから、長くても3回しか出れない。4年×3回=12年。12年間、A代表クラスで居続けること、A代表スタメンクラスで居続けることって相当大変だと思う。サッカー人の夢である大会に出場したら感動もひとしおなのだろうけれど、異様な熱気、本気の勝負、勝つ喜び、負ける悔しさ、・・・・こういう経験が持てるのが、せいぜい、一人あたり3回が限界。

FWC(ファーストワールドカップ)、
SWC(セカンドワールドカップ)、
LWC(ラストワールドカップ)、

って感じだね。

・・・・・・なんか、言ってることがJKみたいな感じなってる。笑。

(あ、意味わかんない?「LJK」とかのパクリ。気にしないでwww)

観てる限り、LWCの選手たちは、「泣く」とか「悔しがる」というよりも、呆然としている印象がある。逆に、FWCの選手たちは泣いたり、悔しがってる感じがする。多分、思うこと、感じることが違うのだと思う。

LWCの選手達は何を思うのだろうか?

もちろん、後輩達もいるし、メディアの偏向報道もあるし、国民の期待もあるから、本当のことって言えないのかもしれないけれど。

世界の壁ってどうなんだろう?

1回目悔しい思い、2回目リベンジでさらに悔しい思い、3回目3度目の正直+集大成で負けて燃え尽き(引退)・・・・。多分、3回目ぐらいには後輩に教えることも色々あるのだろうけれど、その後輩は後輩でまた、同じような経路を辿るのだと思うし、下の世代の代表選手たちは、それを観ていて「自分たちは・・・・」という思いを募らせるのだと思う。

本気で泣いている選手以外、何を思っているかなんて伝わってこない。2006年、倒れて、一人動けなくなっていた中田ヒデを見て、胸にこみ上げる想いがあったよね。彼には相当な気持ちがあったのだろう。だから、98年W杯への出場がかかった試合なんかで、年上の人なんかを怒鳴り散らしたりできてたんだと思う。中田は日本サッカーを強くするためにマジな人だった。

大人になって、お金を稼ぐ喜びを知って、自分のキャリアを考えたらクラブが優先だし、芸能人化・タレント化した方がお得かもしれないし、引退後のこともある。どれだけもてはやされても、時代が変わればスター扱いされなくなる。そんな各々の事情もある中で、どれだけ、純粋な夢のために頑張れる?難しい。

そういう意味で、中田ヒデみたいなピュアな生き方は好きだ。バティストゥータとの対談で、「今日1日を一生懸命生きてる」って話してたし、現役時代も引退後のことなんて考えてなかったらしい。だから、現役引退したら、何をして良いのかわからなかったそう。

すごいね。

目先のことに全力を尽くす。ただただそれを実行する。

 

日本のサッカーがどのくらい進化したのかわからないけれど・・・・

日本のサッカーがどのくらい進化したのかわからないけれど、ワールドカップ基準で言うのなら、今のところ、20年〜30年くらいは同じところにとどまって居るのだと思う。私が小学校・中学校の時なんて、「日本人がマンU」「日本人がインテル」「日本人がミラン」なんて「漫画の中の夢物語」であって、日本人がビッグクラブで活躍するのは後100年ぐらいかかるとか言われてた。その意味では、めちゃめちゃ進化してると思う。

でも、ワールドカップ基準で言うととどまって居る。

国や会社レベルなら良いけど、個人のキャリアで考えるのなら、20年〜30年というのは凄まじい長さである。20年〜30年同じ場所に留まっているというのはかなり痛いと思う。だから、20年〜30年で激変できるための視点を、ワールドカップから学びたいところではある。

 

「勝ちたい」という気持ちを共有できなければできることもできない

多分、集団においては気持ちが共有・統率できないと、何も始まらない。集団で一つの目標に向かう中だからこそ、言い合えることもあるはず。うまくまとまらないと、できることもできない。でも、現実の世の中で、人がうまくまとまるのは本当に難しい。

強豪は本気で勝ちたい集団。おまけに各々に個性がある集団。個性が凄まじくありすぎるのに、個性を殺して集団のためのカバーリングに走れる集団。チームワークもある集団。

そんな感じがする。

そして、仮に意識が統一できていたとしても、「どのぐらいの勢いでコミットメント」できるかは人それぞれ。ファーストの人もいればラストの人もいるし、そもそも縁の下の力持ち・補欠的な役回りの人もいるかもしれない。そんな中で、気持ちを共有するって難しい。

 

強豪の持つ精度 (ハイパフォーマーには安定が要る)

パッと打ち上げ花火を上げるのなら、誰だってできる。問題は、その頻度にブレがないこと。間隔が空きすぎないことだと思う。

うまいとか強いとかいうのを別の言葉で言いかえるのなら、「精度が高い」のかもしれない。例えば、どんなに野球の素人でも、バッティングセンターで1000回ぐらいバット振っていれば、1回ぐらいは当てられる。こうやって考えると、うまいとか強いってのは精度の高さなのかもしれない。結局、プロの要点とは精度かも。コンスタントに良い仕事ができなければいけない。

強豪、と呼ばれて要るところを見ると、精度が違う。

つまり、スタンダードの基準が高くて、その上で「スーパープレー」が飛び出してくる。スーパープレーは頻出しないからスーパープレーなんだろうけれど、すごいプレーヤーはスーパープレイが頻出して、おまけにハイパープレーを繰り出したりする。誰かのスーパープレーは、誰かにとって「常識プレー」だったりする。この基準。そして、こういうのって習慣なんだよね。どこにスタンダードがあるのか。どこに普通の物差しが置かれているのか。いかに日頃から、キッチリと、コンスタントにやれているのか。

プロがこだわりが強いのはわけがあるかも。中田ヒデのオフィス紹介でこだわりとか几帳面さが披露されていたけれど、納得してしまった。すごい人って「こだわり」の執念が凄かったりする。それが彼らの精度につながっている。

強豪と呼ばれるところは、キッチリと決めてくる。キッチリと仕事するべきところで仕事してくる。多分、高みの世界になってくると、微差の勝負の連続は多いはず。微差が積み重なると、大差になる。これって、高いレベルでは大きいと思うんだよね。神は細部に宿るっていうやつ。

「決めきれない」とか「守りきれない」とかって痛い。

何やるにしてもそうだけれど、みんな多分、そこそこのラインはなぞってくる。だからこそ、プロになりたければ、高い精度を追求しないといけない。この俺にすら、たまに、本田圭佑的なFKが蹴れるもんね。だから、そういう都合の良い記憶だけを持ってセルフイメージを持ってしまうと、いわゆる典型的なダメな人になる。

ずっとコンスタントにやれる仕事領域を探すか、コンテンツビジネスのように一度出したハイクオリティがずっと仕事し続ける領域がありがたいね。

前者のコツは、ヒデの言うように、「毎日を一生懸命生きること」だと思うよ。

逆に、後者のコツは・・・・・・、あ、これ、ここではリークできない。

 

天才論

私が中学くらいの頃から、例えば宇佐美貴史なんかは全国で有名であった。天才中学生として知られ渡っており、サッカー雑誌なんかにもよく載っていたのも覚えている。日本サッカー界には、こうやって、10代の頃に「天才」ともてはやされて、その当時から有名だったという人は多い。というか、みんな、何かしら有名だった人間の集団が、代表選手。ただ、その有名度合いは個人差があるけれど。でも、本当に、若い頃からずば抜けて有名で、全国区になっていた、世界に通用していたという選手に限って、なぜかいつの間に、「え?今どうなってる?」ぐらいのパターンは多い。

天才って怖い。

安定したパフォーマンス、メンタルの強さ、賢さ、ストイックに努力する姿勢、環境を変える力。トップパフォーマーには相当なものが求められる。もしかすると、若い頃に天才ともてはやされることに良いことはあまり無いのかもしれない。天才の定義は難しいけれど、我流や我見でかなりうまくいくタイプの人だと思う。これは態度とかも含む意味で。天才天才と褒められることが当たり前だと、スタンスの基盤が「自分はこれで良い」になるのかもしれない。気がつくと、トップレベルの世界では安定的に成果を出し続けられない補欠的な存在になっている自分に気づく。しかも、時間差で気づく。手遅れになることも多い。対して、トップとしてやれている人間は、挫折経験がある気がする。そして何か、常に成長しようとしている気がする。自分に厳しいというのかな。

天才天才ともてはやされていると、なんとなく、我流基準になる。矢印が自分に向かない。本田、香川、岡崎、「日本代表BIG3」と呼ばれた彼らの中には、若い頃からずっと、順風満帆だったわけじゃない選手もいる。彼らの同世代には、家長や柿谷など、若い頃にずば抜けた天才性を賞賛されていた人がおり、むしろビッグ3は影のポジションにいた時代があったりする。本田も、(若い頃からうまかったけれど)、グランパス時代やU-22時代には、同世代に、本田以上に賞賛されていた人がいたような記憶がある。本田と同格・似ているタイプとして注目を集めている選手がいた。

 

天才と呼ばれてきた選手は、なぜか、焦らない

天才と呼ばれてきた選手は、独特のふてぶてしさがあるように見える。それが天才の華の秘訣なのかもしれないけれど、土壇場でもヘラっとしていられる。でも、そのヘラっとしているのが裏目に出ることもある。周りから責められることもある。

成果に固執するのかしないのか、考え方に違いはあるだろうけれど、天才は「我見や我流でうまくいってきた」「我見や我流で楽しんでいる」タイプが多い。だから、周りを見て焦らない。危機感が弱いのかもしれない。リラックスして取り組もうとするのかもしれない。

 

天才を自称する痛いおじさんになりたく無い

個人的には天才を自称する痛い人になりたく無いと思う。そういう人たちで、人生変わってない人をたくさん見てきたから。華々しいサクセスストーリー、逆転ストーリーには、「天才だという自負」を捨てることが欠かせないと私は思う。

PR上は天才天才と言っても良いかもしれない。メディアに取り上げてもらえる分には天才天才呼ばれてても良いかもしれない。大衆は天才が好きだしね。でも、自分の意識・世界観の中で、天才という概念をどう扱うかは大事なポイントだと思う。日本という狭い枠で、天才天才と呼ばれていても、例えば、「ワールドカップ」みたいな舞台では、その天才性が全く通用しない場面に出くわしたりする。しかも、かろうじてそういうフィールドで通用している人たちというのは、どんどん自己否定して環境も変えてきたタフガイ達。若い頃に挫折した人たち。

 

中田英寿は化け物であった

日本サッカー史を語る上では、ヒデは外せない。サッカー選手の価値をどう客観的に測るかは難しいけれど、「移籍金」は良い指標になる。歴代日本人サッカー選手の移籍金ランキングはこう。

1位:中田英寿 35億
2位:香川真司 22億
3位:中田英寿 17億
4位:岡崎慎司 12億
5位:本田圭佑 12億

あのジネディーヌ・ジダンに「日本には中田しかいないからね」と言わせ、ローマでトッティとレギュラー争い、ユベントス相手に凄まじいロングシュートを決め、FIFAから「チケットもらう?」と言われる男。日本人の海外移籍が珍しい時代に、当時のセリアAで活躍。ネイマールは中田の元ファンで、サッカーのテレビゲームで中田をよく使ったり、カードを持っていたらしい。

ヒデがどんだけすごいか、っていう。

 

ヒデでさえも、同世代に自分を上回る選手がいた。

中田英寿は天才天才言われているけれども、本人が語るに、同世代には自分を遥かに上回る天才がいたらしい。例えば財前さんとかね。実際、若い頃のヒデを知っている関係者にも、そのような発言は多い。どちらかというと、ヒデは「頭が良い」のである。思考が良い。世界観が良い。そして努力している。ヒデが頭が良くて、勉強ができるのも結構有名な話だと思う。実はこれ、トップクラスで活躍している人間みんなに共通する資質。マインドセットというのかな。

ヒデは高校の時からイタリア語か英語かを勉強していたと思う。準備の人というのがヒデの本当の姿。先を読んで、準備をして、努力し、怪我に備える。

ヒデでさえも、元々の体格とか資質ではなくて、思考とかマインドセットで成り上がっているのだと思うよ。

 

メッシ・クリロナは10代後半から凄かった。そしてブラジルの強さの秘訣。

メッシ・クリロナは、10代後半から凄かった。日本で天才天才と呼ばれている人の比では無かった。世界レベルで有名だった。メッシに関しては、幼少期に抱えていた病気の治療費をバルセロナが負担したエピソードがあるくらい。クリロナに関しては、体格に恵まれているのだけれど、努力がすごい。相当ストイック。10代の頃はプレースタイルもかなりエゴが滲み出ていたけれど、それがどんどん修正されていった。個人的には、昔の本田がパサーからゴールゲッターに進化して外見も金狼に変わっていったストーリーと被る。つまり、成果を出す・進化を出す人は価値観を変えていく。世界観を変えていく。思考を変えていく。そして自省する。

 

ワールドカップ、ってなると、ヨーロッパの強豪が予期せぬ敗退をしたりするけれど、ブラジルなんかは「安定して」強い。なぜか。やっぱり、プレッシャーが違う。国民がワールドカップにかける気迫が違う。選手達がワールドカップに命を賭していると言っても良い。注ぎ込んでいる情熱が違う。南米の連中は、サッカーで紛争や戦争を止めるぐらいの勢いで、サッカー好き。

負けて帰ったら殺される、ぐらいの危機意識。

ブラジルの安定的な強さといえば、もう、文化力。国を挙げて、相当なサッカー好き。ナショナルチームの戦いにかける情熱がすごい(こういうのって、経済発展していったら変わるのかな?子供達にいろんな選択肢ができて、娯楽が多様化したら変わるのかな?)。

天才に関していえば、多分、天才っていう自分に安心していいのは、メッシ・クリロナレベル。多分、10代からそれぐらい、名が通ってて、そのまま上にいってもサクサクいけてる人間が自分に自信を持っていい。私なんかには縁が無い世界。そう心に決めてないと、飲み込まれてしまうと思う。自分にね。99.999999・・・・%の人間は、天才とかいう概念に関係がない。

 

「自分たちのサッカー」を捨てた代表は奮闘した

今回のロシアW杯は奮闘した。「自分たちのサッカーを捨てた代表は強くなった」という見出しの記事も見つけたことがある。自分らしさ、って何だろうね。この前、マラソンの優勝者の足跡を残すモニュメントみたいなのを見たんだよね。大昔の遺跡にも、人間が自分のことを書き残そうとした記録が残ってるらしい。皆、お墓とかも作りたがるけれど、結局、人は自分の何かを残す名誉欲に駆り立てられているのだと思う。

私は、結果が欲しい。残すのは、健康な精神だけで良いんじゃないか、と思っているぐらい。先天的な要素とか、中途半端に身につけたスキルとか、かなぐり捨てて、健康な精神だけで、どんどん柔軟に進化していった方が人は前に進めるのではないか。私は、そう思ってしまう。

 

サッカーで食うんだ、という情熱がすごい

海外は、サッカーが成り上がりの手段になっているところも多い。だから、サッカーにかける情熱がすごい人も多い。「俺はサッカーで食べていくんだ」というエネルギーがビンビン出ていて、練習でも全く手を抜かないらしい。

 

感情的になって怒鳴り散らしている奴に気持ちがあるとは限らない

勝ちたいという気持ち。上に上がりたいという気持ち。その気持ちがどう表現されるかは人それぞれだ。静かなる想いってのもある。タイプ的に、ずっとクールで、感情表現はそんなに激しくないけれど、胸に青い炎を燃やしているタイプだっている。

 

高校サッカー組が活躍した

乾の野洲高時代、リアルタイムで観てたよ、俺は。当時のセクシーフットボールも覚えてるもん。本田は星稜、柴崎は青森山田、大迫は鹿児島城西。香川なんかはテクニシャンだけれど、メンタル面をよく指摘されてたりするのを見たことがある。

中村俊輔もユースにあがれなくて高校サッカーだったと思う。

 

今更思ったけれど、雑魚がスパルタを忌避するなんてヌルいこと言っちゃいけないのかもしれないと思った

こうやって見ていくと、「気持ち」って大事なんだと思ってきた。考えてみればわかるけれど、首位争いをしているようなレベルならいいとして、劣等の位置、負けている位置、弱い位置の人間が甘いこと言っているようでは、上がれるものも上がれない。勝てるはずのものも勝てない。

そもそも、弱い・劣るってことは、いろんなことが負けているのだから、「気持ち」だけは高くあっておかないと、どうしようもない。意識高い系という言葉があるけれど、「意識高いPRだけ」という表面的なあれはさておき、「意識高くあること」の重要性は欠かせない。雑魚のまま、意識低いと待ってるのは劣化しかない。その状態で、どこかに、誰かに便乗できるほど、世の中甘いって思えるような世界観は、私は持ち合わせていない。そこまで楽観主義者じゃないし、ギャンブラーでもない。

なんか、大人になると一丁前に、身の回りの環境にケチをつけ始める。だけれど、弱者ってのは気持ちが無いと本当に積んでしまう。その気持ちってのは、往々にして厳しい環境、厳しい指導の中で育て上げられたりする。高い意識を自己発電できる人間だったらいいけれどね、でも、普通はそうじゃ無い。あるいは、徹底的に高いレベルで揉まれるか。負けまくるか。そうする中で、気持ちを高めていく必要がある。

特に、大人になると叱ってもらえることが減り、放置されるから、気をつけたいところ。自分で、常日頃から敗北感を感じておくこと。高いレベルを感じておくこと。自主的に叱られにいくこと。若いうちに伸び代があって、歳を取ると鈍化する理由もきっと、そこにあるだろう。

 

ということで、私は、「気持ちの重要性」を再認識した

やっぱり、負けっていいものだと思う。

負けからしか、何も学べない。

負けること自体は良いこと。問題は、負けから何も学ばないことだ。それはまずい。やばいと思う。

 

どうせなら、ベルギー、優勝してくれ

負けた相手が無茶苦茶活躍することは、むしろ、救いだよ。

負けて負けて負けて、踏みにじられた足跡が増えれば増えるほど、得るものは多くなる。学ぶことは多くなる。コンプレックスが蓄積して、ハングリー精神に転嫁される。上に向かう気持ちに転換される。

 

PS

本田が引退するかも。

代表通算成績、98試合37ゴール。すごい。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。