「努力なんて報われるか。」
「自分の理想なんて叶うわけがない。」
つい最近まであんなに冷笑的だった自分。そんな自分が頑な心を氷解させたきっかけは、現実の厳しさだった。
現実に理想が無さすぎた。努力の限界が見えた。
皮肉な事に、それが自分をドリーマーに仕立てあげた。
努力家にさせた。
TSUTAYAの自己啓発・ビジネス書本コーナーとか、本当に立ち寄ったことが無くて、ああいう本を読んでいる人は可哀想な人達だと思っていた。
現実逃避をしている人たちだって。
ちゃんと、社会に出て、現実の世界で淡々とやっていれば、人の人生は普通に上手くいく。普通に学校を出て、普通に就職して、普通に25くらいで結婚して、普通に30歳くらいには家とか車を買って、普通に35くらいにはいいパパになって、普通に40くらいにはそこそこ出世して、普通に50代くらいにはまったり・・・・・・
みたいな漠然とした世界観を、昔は持っていた。
まぁそれでいいか、っていう感覚も無きにしもあらずだし、そんなに大変なことでは無いと思っていた。
その認識は、修正を余儀なくされた。
何より、それ以上の世界を覗いてしまって、自分の生き方を考えさせられた。
ちなみに、これは後の話だけれど、いわゆる「普通の生き方、普通の幸せ」の世界観、これの修正を余儀なくされた友人たちが20代後半で連絡をくれるようになる。
もっと、働くという事に夢と希望を抱いていたのに。
大人になって生活をすることって、もっと素晴らしいものだと思っていたのに。
自分の五感で感じる現実が全て。
自分の目で、肌で、足で、確かめた。
コンビニATMで、銀行の残高口座を見ながら思った。
労働者はダメだ。
資本家にならないといけない。生産者にならないといけない。
自分には全然届かないような高級車を
平気で乗り回す人がいる。
自分がトボトボ歩く側で、爆音を立てて高級車が走り抜けていく。
資本論のような古典を読んでいてもそう思うし、実際にオーナー社長という人種と触れていても確信できる。自分でビジネスを持つしかない。
不思議だった。
気がつけば、自己啓発本を狂ったように読む毎日。実家の近くに、図書館がある。少し、坂道を登った先にある図書館。汗ダラダラになりながら、足繁く通ってたくさん本を読んだ。
「日本のお金持ちは経営者か専門家しかいない」
「専門家とは、医者、弁護士、会計士など・・・・」
「一番お金持ちは経営者」
「創業経営者が一番儲かる」
方向性が見えてきた。
どの方向に進めばいいのかはうっすら見えた。
でも、お金が欲しかったというよりは、自由が欲しかった。自分の人生に対する主導権が欲しかった。人生に一度しかない自分の人生が、誰かのものになることが考えられなかった。
誰かの人生を生きる人生なんて許せない。
あの、毎日、出勤時間を意識してドキドキしながら起きる感じ。遅刻してしまった時のヒヤヒヤ感。職場で、誰かが誰かの陰口を言っているのを聞かされて気まずくなる感じ。
全部から逃げたかった。
その意識を持ち始めた時は良かった。若かったし、周りに公言すれば、「すごいね」って言って褒めてもらえる。居酒屋で、いつも事あるごとに人前で公言していたものだ。「俺は、起業する」と。「飲食で起業したいんです」ということは、事あるごとに言っていた。
東京の夜。
一人、スターバックスで悶々と考えている時間。心の中でザワザワとした感じが常にあった。この大都会では、多くの人たちが奢侈に浸っている。とてつもないお金持ちもたくさんいる。エリートもたくさんいる。
・・・・・どんどん、時だけが流れていく。
二子玉川駅を降りて、夜道を歩きながら、昔と同じようなテンションで自分の熱というか夢を人に語っている時、10代の頃と比べて話し相手のテンションが弱い事に気付いてしまった。そうか、俺はもう、いい歳なんだって。
さすがに、数千万円の借金を起こして事業をする勇気はなかなか持てなかった。
というより、このまま行けば、自分は失敗すると思った。
確信が持てなかった。
だから散々、小資本でできそうなビジネス、お小遣い稼ぎ、色々と試してみたのだけれど、どれもイマイチだった。
1度、ニートとかフリーターみたいな状態になったことがあるけれど、その時、周りの友人や知人と会った時に向けられた目が痛かった。自分の価値が一気に貶められたのだけれど、「いや、違うんだよ、俺、ニートじゃないって!!!フリーターとかでもないって!!!ただ、目標のために仕方なく・・・・・・」っていう言い訳が喉のところまでつっかえていた。
でも、外から見れば、いかなる理由があれ、ニートはニート、フリーターはフリーターだ。
そんな自分を慰めるために、いろんな教え・言葉に触れたけれど・・・・
事業というのはめちゃくちゃわかりやすい。
通帳にせよ、売上管理画面にせよ、そこに「0」という数字が表示されているのならそれが全てだ。入金が無ければ、それがそのビジネスの全てだ。何度、通帳を見ながら、怒り狂ったことか。絶望に打ちひしがれた。
ある段階から、ガラッと意識が変わった。結果に固執するようになった。結果が出せないのなら、「何の意味がない」という強い意志を持つようになった。現実と向かい合うようになった。
きっかけは何だったかな。
多分、youtubeとかで、若くして成果を出している人たちを見ていて、彼ら・彼女らの思想を聞いて、「俺は何やってんだ」って思わされたんだと思う。アイドルかもしれないし、スポーツ選手かもしれないし、文化人かもしれないし、芸能人かもしれないけれど。
もちろん、組織に戻って、普通に働けば普通にやっていける。人並み以上の成果も出せる。だけれど、「サラリーマン」と「サラリーマン以外」では、こんなにも厚い壁があって、レベルが違うのだということが痛感できた。リーグが違う。アマとプロぐらい違う。
多分、「自分ってヤバイ人なんだ」っていうのを、周りを見て意識した時だったと思う。自分が思っている以上に、自分がヤバイ人であるということ。周りが知らないことを知り、周りの人が持っていない高い目標を持つだけで「周りより優れている」ことにはならないと、強烈に認識した時。
言葉あそびは辞めよう。読書遊びは辞めよう。事業ごっこは辞めよう。
本当に、ガチンコで勝負しよう。
結果が全て。結果が全てなんだ。
自分にそう言い聞かせるようになった。
結果が全てという思想がインストールされた瞬間、「結果が出せない自分」は全否定せざるを得なくなった。大した結果を出してこなかった自分の人生。自分は捨てるしかない。ダメだ。自分は捨てよう。使いものにならない。
そして、きちんと、しっかりと学ぼうと思った。徹底的に自分を捨てて、素晴らしい人から徹底的に学ぼうと思った。色々考えた挙句、「小資本でお客さんを獲得するためのマーケティング術」を習得しなければいけないと思ったし、そのために海外のDRM始め、広告技法、販促、営業、販売、こういったものに関する知識の習得と学習を丁寧にやるようになった。また、どんどんお金も投じていった。
イメージとしては、
「俺って絶対いけるよね、俺の考えは絶対世間に通用するはず」
みたいな感覚の延長にある起業意識をさっぱり捨て去り、
「しっかりと一芸を磨いて、その一芸を市場で試そう」
という風に気持ちが入れ替わった。
また、自分が小さい頃から持っていた、比較的オリジナルな思想も、バンバン捨てていった。それが祟って?かわからないけれど、どんどん「おかしな」人になっていったと思う。過去、自分が積み上げてきたものをどんどんどんどん壊していった。捨てていった。
私の人生は、ある定点を超えて、一瞬にして変わった。
「・・・・・・え・・・・・・これ・・・・普通の、なかなかイケてるサラリーマンが一年で稼ぐ額じゃん・・・・」
何度も、パソコン上の数字を数えていた。これまで、散々、「0」という数字を疑っていたのに、今度は、ズラーーーーッと横に連なる数字を見て、別の意味で自分の目を疑った。
というか、その時は自分のメンタルがついていけなくなって、吐き気がした。1ヶ月で、そんな大金を稼いだことがなかったからである。その瞬間から、私の中でお金の感覚がグラグラグラと揺らいでいった。
そこから先の人生は、まるで、別世界だった。
本当は、もっと、詳細に語ろうと思えばいくらでも語れるのだけれど、とにかく、人生変わった。
人は、なぜ、目標を持つのだろう?
希望や理想を持つのだろう?
あれをやりたい、これをやりたいと思うのだろう?
お金を欲しいと思うのだろう?
結局、それは「自分を否定されたくない」とか、「自分を肯定して欲しい」というような気持ちでは無いだろうか。
自分は正しかったんだ、ということを思いたいからでは無いだろうか。
会社で怒られたく無い、薄給でこき使われたく無い、満員電車に乗りたく無い・・・・・
こういうのも全部、「自分の人間としての価値を否定されなくない」というようなところから来るものだろうし、お金を手に入れてあれ買いたい・これ買いたいというのも結局、「自分の価値を強化したい」というようなところから来るものでは無いだろうか。
でも、私が「生の人生ストーリー」で掴んだ真実の成功譚。
それは、「自分を捨てること」だった。
結果にこだわった結果、そうなったのである。
結果を出すということに固執したら、「自分がダメ」という結論に至ってしまい、自分を捨てて丁寧に学ぶようになった。
そして私は、「成功」なるものがなぜ難しいのか、なぜ一握りの人間しか辿り着けないのかを痛感することになった。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。