#1 不思議な気持ちになる話

趣味という言葉があまり好きじゃない。

理由はいろいろある。下手なものを挙げれば笑われてしまう。なんか、いいとこ育ちの人が仕込まれてきたことが趣味、みたいな風潮を感じる。

そもそも、昔の私の頭には、なんとなく、「趣味=無駄なこと」みたいなイメージが出来上がっていて、別に趣味にうつつを抜かしてもお金が稼げるわけじゃ無いし・・・・みたいなひねくれた思考を持っていた。

 

長らくの間、趣味とは無縁の人生を送っていた。

でも、大人になって、例えば「はじめまして」の人と接するとき。趣味は何ですか、みたいな話になってしまう。そういうとき、本当に回答に詰まってしまう。私の中では、「自分ってやっぱりおかしいのかな?」って不安になるような時は外国人に質問をするようにしている。

趣味は何ですか?と問われて、うーんと固まってしまうようでは趣味が無いと言っているようなもんだけれど。

 

趣味って何?趣味って何だろう?って、趣味の定義を外国人の友達に聞いたら、

「What you like to do in your free time」

って返ってきた。

 

空いた時間にする好きなことね。

あぁ、そうか。そういう定義なんだ。

それを聞いた時に、すっと肩の荷が降りてた気がした。正々堂々、散歩とかぶらり旅って答えられるな、って思った。

 

私の若いうちの時間のうち、大半は、労働と、目標のための試行錯誤の行動と、勉強に費やされてきたと思う。思え返せば、本当に時間が無い日々が続いた。おかげさまで、友達付き合いなんかはだいぶおろそかにした。

無駄をものすごく嫌っていた時期があるのだ。その時の名残かもしれないけれど、趣味という言葉に、近づいてはいけない感覚を持ち続けていた。

 

最近の話だけれど、久しぶりにボールを蹴っている。昔ちょっとサッカーをやっていたんだけれど、運動がてら良いかなと思って、わざわざボールとウェアも買った。

昔、サッカーをやっていた時は本当に下手くそだった。基礎技術がしっかりできていないまま、強豪のチームに入ってしまい、周りの足手まといになって怒られることが多かった。そして、いつしか私のサッカーは、「周りに怒られないようにすること」になってしまった。そのせいで、全く、基礎技術が身につかないまま、いかにしてボロを出さないか、みたいなプレーヤーになってしまい、短い部活人生を終えた過去がある。

久しぶりに、じっくりボールと向き合って思ったのは、やっぱり下手だということだ。歳を取った自分に期待したわけでは無いけれど、相変わらずの下手さ加減だった。

でも、昔の自分と今の自分には違う部分があって、あの頃には本当に何も「成果」が無かったけれど、今は曲がりなりにも成果が出せる人間になっているということだ。自負がある。

そこで、成長した自分なりに頭を使って、丁寧に基礎の練習から始めてみたのである。

 

すると、思いの外うまくなった。昔、あんなにも悩んでできなかったことが、結構あっさりできるようになっていったのである。

人は、どうやらできなかったことができるようになると、「成長した」と感じやすいらしい。別に、外から見て大したことでは無いのだけれども、自分の心の中に、確かな喜びと、充実感があった。そして、これがスポーツの醍醐味なのだな、と中学生時代にはわからなかったことが、わかった。

 

それから、定期的にボールと遊んでいるのだけれど、ふと、気付くことがある。

例えば、「自分はあそこにボールを飛ばしたい、そして蹴ってみた、だけどなんかズレた」というときに、何が悪かったのか、とか思う。自分の体の動きを検証してみると、思うように動かせていないことがわかる。じゃあ、と思って、ひとつひとつの動きを意識してやってみる。でも、そう簡単にはうまくいかない。なぜだろう、どうしたらいいのだろう・・・・・と試行錯誤しながら、いろいろやってみる。

すると、「あれ、なんかうまくいった」という感触がある。その感触を、まるで細い糸を手繰り寄せるかのようにして辿っていき、「どうやら、ここを意識したらうまく事が運べるようだ」みたいな発見と出会う。コツを掴むってやつ。

昔は、このコツというのもうまく掴めないような頭をしていたと思う。

ただ、やれば良いと思っていた。今考えれば無責任なんだけれど、甘いのだけれど、「頑張ってれば報われる」みたいないい加減な発想。惰性でダラダラ練習したりしていたのである。

「練習は、考えてやらないと、平気で裏切るよ」っていうダルビッシュの名言が脳裏に浮かんだ。

思えば昔は、人の名言とかも調べやしなかったな。すごい人の思考とか思想にも興味無かったな。自分の思いつきでやって、うまくいかなければ、拗ねる、みたいな感じで、まるっきり子供だった。自分で思ったことをやってみて、それでうまくいかなければ自分が否定されたような気がして、気分が悪くなるみたいな感じの考えだったと思う。

大人になった。大人は成果に責任を持つ。成果に責任を持とうとする。他者から学ぶことに、お金と時間をかけたりもする。もしかしたら、それは人によってプライドが傷つく行為なのかもしれないけれど、いっぱしの大人なら当たり前のようにやることだ。本なんて読まなかったあの頃とは違い、成長した自分がそこにいた。

 

少し疲れて、飲み物でも飲みながら、休憩する。

そして、ぐるぐると頭を回してみる。

 

「ああ・・・・人間って思っていても思っている通りにできないんだ・・・・」

「こういう風にやれば良いってわかっていても、その通りにできないんだ・・・・」

「できない人ができない理由は、『こうやったらいいよ』っていうアドバイスがほとんど無意味と化しているんだ・・・・・」

「わからない人には、これまでと同じメッセージを発していても伝わらないんだ・・・・」

 

みたいな、いろんな場面で通用しそうな気づきが降ってくる。

そして、そういうときにふと思うのである。

もし、今、ボールを蹴っていたようなことを、仮に「趣味」と呼べるのであれば、趣味の効用って、趣味をやらないと見えない視点が得られて、趣味をやらないと気付けないことがあることなんだな、と。やる前から、理由とか、確証とか、確信とか、そんなことばかり求めてはいけない。ノリの良さが大事。もちろん、腰が重いことで守れることもたくさんあるけれど、腰が重いことで失っていることもたくさんある。

 

世の中には、やらないとわからないことで溢れているから。

 

趣味のフィルターを通して、新しい視点・思考・感覚で、世界を再度捉え直す事ができる。

自分の座っている位置をずらす事によって、見える世界が変わってくる。

 

アインシュタインが、行き詰まったときにピアノを弾きにいっていた気持ちがわかった気がした。

 

クソ真面目な人ほど、努力が好きで、同じところを深掘りする。無駄を嫌い、がむしゃらに一生懸命働き、効率を求めようとする。だけれど、案外、ブレイクスルーを起こせる答えというのは、外にあったりするのだ。まさに、「思いの外」ってやつだ。

お金儲けに関して、私はとにかく、それと関連するものはかたっぱしから手を出したと思う。興味を持ってきたと思う。だから、いろんなことに気付けたし、学べたなって思う。

 

人生もそうなのかもしれない。

思えば、自分の人生だって寄り道から始まっている。何も考えずに、寄り道をしたところから拓けてきた人生だった。寄り道の先に、いろんな事が繋がってきたことを思い出した。

 

人は、賢くなってくると、どうにか先を見通そうとする。だけれど、冷静になり、自分の人生を思い返してみれば、寄り道が予期せぬ成功を生んできているのだから、無駄とか効率みたいな言葉に囚われる事って怖いな、って背筋が凍る思いがするのである。

今の自分に不満足であればあるほど、今の自分の思考・視座で、先を見落とそうとすること、コスパや効率を考えすぎること、価値判断しすぎることの恐ろしさってあると思う。

 

鈍感力とか、雑談力とか、いろんなタイトルの本が書店を賑やかすけれど、個人的には「騙され力」で一冊、新書でも書いてみたいぐらいだ。

自分の人生で、本当の意味で「騙された!!!」と思ったことは一度も無い。

あれ騙された!これ騙された!とか色々言うけれど、本気で、「うわっ、騙された!!」って思って憤っていることなんて、無い。

私は、返品・返金の要求をしないというのが人生の中でのポリシーである。多分、したことないんじゃないかな。

 

「騙されたと思って食べてみて」

「騙されたと思って行ってみて」

「騙されたと思って買ってみて」

 

ってよく言う。

そう。人は騙されないと、自分の枠外に出れないのである。

 

我こそは騙されない人間の代表ぞ!!とお思いのそこの貴方。

お前、モテないだろ。笑。

(ごめーんね♡)

 

頑固すぎると、人と深いレベルで交流するの無理だから、色恋や恋愛沙汰もできなくなるんよなー。

恋するって、他人の趣味とか生活パターンが移ってくることでもあるからね。

 

これを書いている今、俺はハーゲンダッツを食っているんだけれど、ハーゲンダッツを俺にすすめたのは昔の彼女だ。

昔はこの類のアイスが嫌いで、猛烈に拒否していたのだけれど。

 

パクパク。

おいちい。

 

人の誘いに乗らなくなった。人に流されなくなった。人の意見を安易に信用しなくなった。一見、大人になったように感じる。だけれど、もしかしたら、人生がつまらなくなっていく元凶は、そこにあるのかもしれない。

自分と他者の間に線を引いて、自分の領域を意固地に守るような行為を積み重ねると、景色は全く変わらない。

 

大好きなバイクに一番初めに乗ったきっかけを思い返してみた。

バイク好きの先輩に、半ば強要されて後ろに乗ったんだっけ。ものすごく強烈に抵抗したのだけれど。クリスマスシーズンだったかな。街のイルミネーションが、むき出しの身体のそばをスルスルとすり抜けていくあの神秘的な光景と、衝撃を受けるような感動は、一生忘れられない。

取り憑かれたように、バイクを買うための貯金をしたなぁ。

 

最近、18歳の女の子と話をした。そうか。君はあの頃の俺と、近い年齢なんだね。

とっても素直で、ノリが良い彼女を見て、「やっぱ大人とは違うわぁ〜」と思いつつ、我が身を振り返るきっかけになった。

 

「なんか!モテそうですよね!ちゃんと話聞いてくれるし!返し上手いし!すごい話しやすいです!」

 

なんでこの子はこんなに褒めてくれるのだろう。

そう思いながら、ちゃんと、この子の言っていることを理解して新しい視点で世界を見ようとしている自分に気付いたとき、少し、不思議な気持ちがした。

理解したろう、とかそういう感じではなくて、「君の視点、プリーズ」っていう感じ。

 

 

他人と自分の視点が、あまりにも違うということを知って初めて、世界について理解が深まることは多い。私の人生において重要なものは、他人の色眼鏡に叶うかどうか、みたいな話ばっかりだからね。

そもそも、欲しかったのは女と金と・・・・成果と・・・・・時間と・・・・自由と・・・・。

 

結局、こんなものは、他人に流されてようやく手に入るもの。

「川の流れのように」生きる気持ちなくして、快適な人生、心地良い人生は無いと思う。心の風通しを良くしなきゃ。

 

川に出る。

どんぶらこ、どんぶらこと流されていく。

 

そして、「ここだーっ!!」って時は、オールを手にとってがむしゃらにこぐ。

人生は自分で決めることだけれど、自分で決めれない時や決める必要が無い時もある。

身を任せていたいと思うときもある。

 

 

松本人志氏が、本で、

「貯金が貯まりすぎて、邪魔くさくなって、一気に使ってみたら、余計仕事がうまくいって、またお金が入ってくるようになってきた」

と言っていたんだけれど、読んだ時はわからなかった意味が、今はハッキリとわかる。


===

西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。