人間のことを「怖い」と思い始めたのは、小学校5年生ぐらいだったと思う。
それまで、バカなことしかやっていなかった周りの友達たちに、変化が起こる。
特に女子だ。
私は女として生まれたことが無い。だから彼女たちの不便さがわからない。生理の時はすごくイライラするらしい。同級生たちの陰湿さが目につくようになったのがその頃だった。
その当時の自分は、悪口なる概念も持っていなかった。
周りが悪口・陰口を言い始める。愚痴をネタにして、結託している様子を見て、なんか怖いと思い始めていた。
自分よりも、先に体が大人になっていく彼女たち。何か、同級生の女と触れ合う時は、年上のお姉ちゃんたちと話すような気がしていた。相手にされていないというか、見下されているような気がしたのである。
彼女たちは、群れて、クスクス、コソコソと話をしている。そして、なぜかいろんな情報の伝達と共有が早い。
なんで、お前がそれを知っているんだ、ってのが何度もあった。お前にそれ話して無いよね、みたいな。なんで、臭い便所に、そんな長時間も、大人数でタムロするのだろうと思った。
中学になると、さらに別世界が広がっていた。
なんと表現して良いのかわからないのだけれど、人間に「位」があるような気がして来るのである。学校の教育方針も関係していたのかもしれない。部活で好成績を納めたメンバーたちを舞台に立たせ、ヒーローと崇める姿は、「逆見せしめ」だった。
人間の正解を示された。
スポーツでもいい。文化でもいい。勉学でも良い。生徒会でも、教師に媚を売るでも何でもいいし、窓ガラスを割るでもいいから、とにかく、目立てと言われているような気がした。
偉そうに怒号を響かせる教師に言われるがまま、走って整列したり、行進したりする自分をメタ認知して、
「鳥籠の中の鳥だ」
と思った。
運動会の練習も、死ぬほど嫌だったのを覚えている。なぜ、大人たちの言われるがままに体操をして、こちとら気は冷めているのに、「14歳の子供らしいパフォーマンス」を強要されて「14歳の子どもらしいパフォーマンスを馬鹿らしいと思っている14歳」は命令に従わないといけないのだろう。
カーペンターズや松任谷由実なんて、俺らは知らん。同級生たちはヒラリーダフやNe-yoにハマっていた。セックス、妊娠、ドラック、中絶、パーティなどを描く創作物や外国文化にハマっている人もいた。
なぜ、うまく全体のパフォーマンスが整ったら、教師たちは勝手に感動して涙を流すのだろう。オナニーに付き合わされている気分だった。
レイプされるって、多分、こんな感じ。
なんでこいつらは、自分たちを好きなように俺たちを使って、動かして、ノスタルジーとセンチメンタルな気持ちに浸り、勝手に怒って、勝手に感動して、勝手に褒めているのだろう。
俺は、お前らのおもちゃじゃない。
独裁者のごとく君臨する教師たちを前にして、力も頭も歯が立たない私は、言いようが無い怨念に囚われていた。
そういった鬱々とした気持ちは、放課後にようやく満たすことができた。放課後、中学生たちは、自分たちで勝手に集まる。学校の先生が求める「いい子ちゃん像」に適合できず、「褒められる蜜の味」を覚えなかった不良児たちは、不良児たち同士で集まる。
夜の街灯がうっすらと周りを照らす公園の下で、制服を崩して履くような連中たちが群れる。暗闇にケータイが光る。タバコの煙が上がる。教師の文句を言い合ったり、ケータイでエロサイトを見たり、ライターを壁に思いっきり投げて爆発させ、遊んでいた。
鬱々とした気持ちが、その時間だけは癒されるような気がした。
自由を感じた。
ちょうどその時期、家庭で色々問題があって、心が荒廃していたのも関係している。一緒に群れる友達にも、家庭に問題を抱えた人が多かった。
グレては無いけれど、すっかりいい子ちゃんを卒業してしまった私は、芋づる式に集まって来る「心に闇がある『悪い子では無いけれどいい子では無い』メンバー」の中で、なぜか交友が広がっていった。その延長で、いわゆるちょいヤンキーだけれど、美人な女の子になぜか好かれた。
夜の公園でキスを済ませたのも覚えている。
放課後の世界は、危なくて、怪しくて、自由で。
何よりドキドキした。
あの頃から私は、夜が何となく、好きになった。
席次が発表され、ランクをつけられる。当初、めちゃめちゃ良い席次だったので、男女からも「すごーい」と一目置かれたのだが、その瞬間、「これ、数字を落としたらすごく無い人になるんだ」と即感じた。ビリになって、からかわれている友人たちを見ながら、そう思ったのを覚えている。
担任の先生はよく言っていた。
「人生で一番頑張ったのが、学校の先生になるための試験だった。あの時が無ければ、私の今は無い。あの時があったから今がある。本当に良かったと思っている。あなたたちも、今、頑張りなさい。」
太った先生だった。
私は、「じゃあ、今、何も頑張る気が起こらない俺の人生は、もう詰んでいるのね」って、ひねくれた感想を抱いていた。
部活の引退試合となる最後の試合では、試合にすら出られなかったのに、皆が「うっうっうっ」と嗚咽を漏らす中、厳格で冷徹だった顧問の先生も珍しく「うっうっ」と涙を流し始めた。焦って周りを見始めて、「やばい、俺も泣かなきゃいけない」と思って、必死に泣こうとした。泣けた。俺、女優かよと思った。泣けた理由は、「こんな自分、悲しい、居場所ない」という悲しさだった。顧問の先生が、一人一人を抱きしめて、声をかけながら頭を撫でてくれた。自分の番に来た時に、「せんせ”ぇ〜!」みたいな声を出しながら抱かれてみたのだけれど、全く悲しくなくて心の中で「やばい、くだらねぇ、何この茶番」と思っていたのを覚えている。
CHA to BAN 茶番ーー♪
この、演技癖というのは、部活をしている間、ずっと続いた。部活が嫌いだった。部活の人間関係が嫌いだった。何でこの人たちはこんなに熱心にやれるのだろうと思っていた。これで、自分がうまかったのなら、クールなプレイヤーとしてキャラが立ったのだろうけれど、そうじゃなかったから余計に苦しかった。今思えば、辞めればよかったのに、「部活やっていない人間は負け組」という風潮と、親からの強制に屈服していた。
担任の先生は、可もなく不可もない私に対して、いつも、三者面談で「何を話していいのか困っている」ような感じだった。これと言って特徴が無い私に合わせて、何かを話す先生の顔。
「欺瞞に満ちている」
という謎の感想を抱いた。
勉強もスポーツもボロボロで、日の目の当たらない世界にいて、そう思ったものである。付き合っていた女の子が、私と別れて、スクールカーストの上位にいる人間の彼女になる様を見て、その当時なりに、マセた敗北感を抱いたのもうっすらと覚えている。
ああ、懐かしいな。
今、丁寧に記憶を辿っている。心に残っている、昔の感情の記憶を辿っている。
言ってみれば、私の中学時代は、曇り空だった。
心がずっと、曇っていた。
高校に入って、雲の切れ間から光が差し込んだのを覚えている。散々、進路に悩んだ挙句、「このまま自分に嘘をつき続ければ、俺には何も待っていない、何も見つからない」と思った私は、受験勉強をかなぐり捨てて低偏差値高校に入り込んだ。
めちゃめちゃ低偏差値で、めちゃめちゃ自由な校風。
もう、高校に入って勉強などできないと思ったのである。だから、何かを見つけようと思った。そのために、何かを捨てる必要があった。
私は、このまま行っていれば、ある程度無難なんじゃないか?怪我せず、そこそこの人生が歩めるのではないか?と思わしき道を思い切って捨てたのである。この時、15歳だった。これが最初の決断だった。
中学時代の同級生に、「何でそんな学校行くの?」と質問責めにあったのを覚えている。
「あ、こいつ、落ちたわ」みたいなね。
高校に入って思ったこと。別世界だった。人生変わったと思った。何もかもが違う。まず、教師と生徒との関係性が違う。他校出身の奴は「厳しい、だるい」とか言っていたけれど、もっと厳しい学校を出て来た者として、これは天国だと思った。
校内に自販機がある。クソまずい給食を食わなくて良い。もう牛乳とは縁が切れる。コーラが飲める。売りに来る弁当もまぁまぁうまい。授業はサボれる。教師はうざいけど、そんなに怖くない。
何より、同級生たちが、魅力的だった。
何というか、気持ちの良いクズが多かったのである。中学までにうようよしていた、表向きは良い子を演じながら裏でひどいイジメをやるようなエリート予備軍とか、マウンティングに忙しい人とかがいなかった。
個性的で、開き直ったクズばかりだった。クズなんだけれど、優しい。人生悟ったような、変な奴らが多かったのである。
彼らの中学時代の話を聞くと、まるで違う。とっても自由な世界で伸び伸びと育って来た感じがビンビン伝わった。羨ましく思えるぐらいだった。人生ではじめて、本当の友達ができた気がした。本当の心の交流ができた気がした。クズだけれど、快活で、バカで、憎めない奴らがたくさんいた。
イメージとしては、海賊の集団のような世界だった。本当、散々一緒にバカやったと思う。
心境にも変化が起きた。高校入学して、早々、学校教育に見切りをつけた私は、「何か見つけないと」という思いを外に向けた。社会に向けた。社会勉強をしようと思ったのである。
女の子とデートするには金がいるよなーとか、服欲しいよなーとか、自分が学校の外の世界でどれだけ通用するか試したいよなーとか、いろんなことを思いつつ。それと、同級生の中で、群を抜いて大人びている女の子と男の子が、バイトしている子だった。
周りが芋っぽいのに、一人、ブランド物の小物を持って、下着を透けさせて、ふっくらとした胸をゆさゆさしながら、男を知った女にしか出せない余裕がある笑みを浮かべる彼女。彼女の髪は艶やかで、いい匂いがして、他の女の子の部屋や家庭は想像できるけれど、この子のプライベートは想像できなかった。自分が知らない世界を知っていると思った。高い位置にいると思った。ミステリアスだった。交友関係も、上は30代まで広がる子だった。
男の友達もそう。一人だけ、群を抜いて大人びていて、自分の考えを持ち、他人を尊重し、やたら年上とのコミュニケーションがうまい男がいた。彼もバイトをしていた。先生すらも、うまく懐柔する男。先生から、「本当は子供に話してはいけない話」を上手に引き出す男。縦社会に揉まれ、先輩の知り合いがたくさんいた。話をしていても、レベルが全く違う。
そうだ。学校の外に出よう。働こう。
俺も、ああなりたい。知らない世界を見たい。自分を探したい。
15歳で、私は19〜50歳ぐらいまでの大人たちが跋扈する世界へと飛び立っていった。世間には、「飲食ベンチャー」という、謎の成功事業モデルがある。その当時と今はギャップがあるのかもしれないけれど、日本全国、元オラオラ系の元気な人が立ち上げた、多店舗展開に成功した飲食ベンチャーというのは点在していると思う。私が入ったところがそうだった。かなり少数でしかない本社機能に中央集権がなされていて、その下には末端としての店舗が横並びに連なる。田舎特有のモデルかなー。
上層は、若いくせにやたらリッチなのである。その当時、社長は30ちょい、その側近も若くて。40代〜50代が彼らの下でアッパーミドルとして活躍し、年齢の下剋上が起こっているのも面白かった。
社会、おもしれぇ。
年下でも、実力があれば、年上の人間をあそこまでこき使えるのか。
学校の常識が崩れた気がした。
上の人間たちには、学がない者もいると聞いた。
ビリビリと武者震いがした。
ただのバイトと捉えればただのバイトだけれど、私にとってそこは、大いなる意味づけがなされた世界だった。
つまらない人生を変える場所。
何かを見つける場所。
自分の居場所を探すための場所。
学校教育へのアンチテーゼ。子供扱いされない世界。
はっきり言って、最初は世間知らず全開だったし、ダントツで若かったし、輪の中に入れてもらえるどころかイジメにすらあった。本当に何もできなかった。15歳で、26歳の大人に本気でイジメられるのは恐怖だった。
親戚以外の40代と話すのは初めてだった。
でも、がむしゃらにしがみついた。
「ここでダメなら本当にダメだ」という思いがあった。また、実家がお金が無く、大したお小遣いをもらえていなかったので、自分の「苦労」に対する「給料」がめちゃめちゃ割りが合うと思っていた。MAXで月5000円しかもらったことがなかったのに、それが5万とか7万とかに急に跳ねて、興奮しないわけがない。
今思えば、って気付くこともあるのだけれど、会社員の傍、副業として働きに来ている人たちもたくさんいて、
「こいつら、なんでこんなにモチベーション低いのだろう?」
と思うこともたくさんあったけれど、彼らは「給料慣れ」していたのと「睡眠不足」が祟っていたのであった。いくらガキンチョとはいえ、若さと熱意が有り余っていれば、彼らを追い越すのは時間の問題だった。
私には、凄まじいバイタリティがあったのである。
若い頃、私と同じようなバイタリティを発揮し、中卒にしてこの会社で成り上がった若い管理職の人に目を付けられるのも時間の問題だった。
この人の裁量と、個人的なお互いの信頼関係、仲の良さもあって、どんどん仕事を振られた。どんどん例外的な待遇をされていった。責任も負わされていった。それでも、どんどん吸収し、学習し、がむしゃらに働いた。
私は、2度とあの時以上のモチベで働くのは不可能だと思っている。それぐらい、全力で働いた。
高校卒業してから飛び級で管理職スタートになることが、もう、暗黙の了解になっていた。周りは、それが当たり前の前提で私のことを認識していたし、私もそのように動いていた。
まぁ、やめたんだけどね。先が見えてしまった。ポジティブで、前向きで、報われる先の展開が見えたからこそ、私は、疑問を持っていたのである。
「この調子で、この先、進んでいったところでどうなる?」
私が感じていた違和感は、どうやら、「労働全般」に付きまとうものだった。仕事を通じて獲得していった、縦横様々な広い人脈。会社のお偉いさんとか、他社のお偉いさんとか、取引先とか、先輩、先輩の先輩、先輩の友達、お客さん、本当にいろんな人間を辿って、いろんな人の話を聞いた。
そして、私は、「労働」の限界を悟った。
時間が無い。
夢が無い。
希望が無い。
満足感が低い。
給料が上がらない。
不満足でイライラして性格が悪い人間がいっぱいいる。ハッピーな人間が少ない。
意見や提案を通すのに限界がある。
駒として生きることになる。
愛社精神や意義を見失った瞬間、働けなくなる。
そして実は、成り上がりの限界も悟ってしまったのである。どうやら、社会というのは、学生時代、がむしゃらに頑張っていた人間だけがアクセスできる労働者の世界があって、そこの労働者は、恵まれた勤務環境・勤務条件の中、
「楽して高給がもらえるらしい」
という情報が入って来ていた。また、歯科衛生士をしながらバイトしに来ている人、ショップ店員をしながらバイトしに来ている人、医療事務をしながらバイトしに来ている人、会社の女事務員、会社の女の平社員、こういう人たちが、
「元彼が●●●(職業名)で〜〜」
「●●ちゃんが、●●●(職業名)やっている人と付き合っているって!」
「●●ちゃんが、最近知り合った彼氏との初デートで、●●(金額)奢ってもらったって!」
という話を内輪で話しながら、キャッキャしているのを見聞きしていたのである。
会社のお偉いさんも、
「やっぱり勉強して大学行った方が良いぞ」
とか、
「勉強した方が楽だな」
とか、こういう話を散々していたのである。
しかし、仕事をしていて繋がった、銀行員、大企業社員、税理士、どっかの会社の部長などの話を聞いていても、
「これも結局、抜本的な解決策にならない」
という感じがしていた。
そして、ごくごくたまーに見かける、
宇宙人のような羽振りが良い人間、金がある人間、謎の自由時間を持て余している美女を引き連れたスケベおやじ
などを見ていると、どうやら、世の中には「オーナー事業家」という生き方があるらしい、ということもわかり始めていた。
私は、18歳の時点で、事業家にならない限り人生はつまらないということにパーフェクトに気付いていた。
これ以外、魂が殺された生き方をする羽目になると気付いていた。
社会では、みんながお金のために動いていて、そのために「役割」が与えられていて、役割行動をしている。しがらみがある。生活にはお金が要る。
やりたいこと、好きなこと・・・・・
という言葉があるけれど、
このしがらみから抜け出せれば自動的に全ては解決する
と私は悟ってしまった。
資本主義の仕組みを知った上で、その仕組みに悪いように絡め取られない「上手な社会への抵抗(センスあるロックな生き方)」さえできれば、人生問題は大方解決すると気付いてしまった。
ちなみに、18歳までには、親の名義を借りて証券口座を開設し、株やFXなども一通りいじり終える体験があって、もう既に「これは何か違う」と悟っていた。
また、会社の庇護の中で、どれだけ事業創造や事業運営の体験を積ませてもらっても、言ってみればそれはデモトレードのような世界で、実際の起業スキルが身につかないということも感じていた。自分の身銭を燃やす経験が要ると思っていた。
これは早いか?遅いか?
遅い。遅すぎると思う。
野球選手はプロになるのを中学で意識する。Jリーグの最年少ゴールは何歳だ?15歳10ヶ月とかだと思う。漫画家になる人たちは高校でデビューしてしまう人もいる。芸能界は18歳で既に名が売れているのがゴロゴロいる。放送作家の場合、高校時代にデビューして、大学生年代には既にサラリーマンの年収を越えている人がいる。ユーチューバーは大学生年代で既にカリスマになっている人がいる。山口百恵が引退したのって21とか22じゃなかったか?
自分の資本を使って、市場からお金を稼ぎに行く。
・・・・しかもなるべく小資本で。自力で。
以降、このテーマに沿う活動は、本当に一通りやったと思う。とことん調べたと思う。
自分の資本ではなくて、会社の看板とか設備、資材などの下に、「成績」「歩合」が絡むような営業活動なども、ハタチまでには一通り経験していて、人並み以上の成績が出せるのは当たり前になっていたけれど、こんなものはクソの役にも立たないと思っていた。
それと、将来のために、「超短期」で、バイトや派遣などを使っていろんなタイプの仕事を疑似体験することもやってみてたし、上京もした。でも、基本的には、「自分の銭を身銭を切って稼ぐ経験は、やって学ぶしかない、組織の中では絶対無理」という思いは確信に変わっていた。
会社の中で働けば働くほど、絶対に、ダメになる。事態が悪化する。時間が無い。歳をとればとるほど、動けなくなる。手遅れになる。
そう思っていた。
「学識」なるものも何か必要になるか?と思って、自力でいろんなものを速習したけれど、その中に、自分の思い・願いを叶えるような抜本的なソリューションは無いような気がしていた。
焦っていた。
ちなみに、大人になってから、たくさんわかったことがある。
就職するというのは、結局、その会社で生きていくため、業績を上げるための力をつけるだけであって、個人的に何らかのスキルがつくわけでもなければ、個人の蓄財や財産構築ができるわけでもない。断言する。サラリーマン同士がビジネスを語っている時に出される話は、言葉遊びである。そもそも、会社に入れば駒となって働かなければならない。サラリーマンから、独立した後役立つような、お金についてビジネスについての話で学べることは殆ど無いと断言する。
本当に、大げさな言い方かもしれないけれど、サラリーマンから学べることは何も無い。一つも無い。情報は得られるかもしれないけれど、学べることは一つも無い。
断言する。
それよりも、ネットでクソ怪しい占いサイトを運営して月商200万円とか上げている会社、エロ漫画アプリを運営して儲けている会社、時折警察に摘発されるグレーギリギリを攻めた謎の事業を展開していた人間、中卒でアパレルブランドをボーンと立ち上げた人間、そこらへんのたこ焼き屋店主、ちんぽでかくなる・おっぱい大きくなる系のサプリメントや商材を売っている人間から「金儲け」や「ビジネス」について学ぶ方が、得るところがあると断言しよう。
倫理的是非はさておき、マネタイズという点ではこういう事業を作った人間たちの方がはるかに得るところがある。
サラリーマンは所詮サラリーマンなのだ。サラリーマンはサラリーマンを地で行く。
外資系のエリートコンサルファームで、人事の総責任者として「ウンゼン人見ました」みたいな人と話をして、「組織とは何か」「会社とは何か」「社畜とは何か」というテーマで話をしてみても、日本中、どこも目糞鼻糞なんだな、という感じである。
定年退職後、彼らは「人材斡旋業」のような、本当に使い古された、労働集約型のコネが物を言う「騙しスレスレ」の仕事をして日銭を稼ぐほか、事業発想は浮かばない。これがリーマンの末路だ。
リク●ートなども、人材育成とか起業家排出のようなイメージを作っているが、そんなのごくごく一部である。しかも社員の大半はドブ板営業マンで構成されて、事業の仕組みを作っているのは本当にわずかの人間たちである。
それと、世の中の「経営者」とか「経営陣」と呼ばれている人たちを見てみてほしい。任期中に自分の責任の元に大事を起こしたく無い人だらけである。ようやく時間をかけて出世したのながら、そこでたんまり報酬をもらって、問題事を起こさずに任期満了したい。何も決めきれない。ポストについている操り人形。しかも、親会社や銀行に操られている会社なんて腐る程ある。また、「大企業」として仕組みが完成されちゃっているところは、経営者の仕事内容が仲間たちや関係ある人たちと群れるだけ、みたいな、いわば高校生が学校の中でやっていることと変わらないことをやっている場合が多い。考えてみてほしい。高校生が、大学に行き、社会に出て会社に入って、そこまで激変すると思うだろうか?本当に、大人が会社の中で成長していると思う?大人は、子供達に「自分たちはすごいんだ」ということをPRするためにあれこれ言うが、学校の延長で生きている人間だらけなのは間違い無いと思う。「今日、2時限目は体育だぜ〜、あの先公だりぃよな〜〜」ぐらいの勢いで、「経費だからいいわ。これ会社の経費だから。こんな時ぐらい使わんと。全く本当に●●●●●(悪口)。」みたいなノリなのである。大人の世界とはこんな感じ。
そもそも、独立を果たした人間でも、下請け、孫請け、代理業に甘んじているのはたくさんいるし、独立してほとんどが数年でいなくなり、世のほとんどの法人は赤字経営である。そこらで見かけるあらゆるビジネスも大抵はうまくいっていない。
大学生が、
「起業か?就職か?」
などで悩んでいたりするが、これは、危ないと思う。
なぜなら、どっちに対して持っているイメージも100%間違っているし、見ている事例も、話を聞いてきた大人も全部、悪い。
というか、歪んだ情報を得て、歪んだ解釈をしまくってきているはずだ。
どうする?
教師の話、親の話、先輩の話、教授の話、全部間違っていたとしたらどうする?
実際、間違ってますから。
断言できます。
私が事業でうまくいったのは、
- 友達いない
- 学校教育合わない
- 先生・教授の話聞かない
- 親の言うこと聞かない
と、周りに流されなかったからです。
ぼっちだったからです。
私が見ている限り、事業でうまくいってるのは大体、ぼっちですよ。
日本人の大卒総合職の6割は一生平社員だそうです。特徴は、「リスクを取らない」「リスクを取る人の足を引っ張る」だそうです。・・・・・・・なんか、わかりますか。こういう人たちの話を聞いて、一体、何になるの?
・・・・・・・・・・・。
はい。
とか何とか色々述べてきました。
結局、私の人生は、「自分が適合できなかったところへのアンチテーゼ」「自分が満足できなかったところへの反発」がバネになっていることがわかると思います。
自分の気持ちに素直になり、道を選んでみた。
それは、親や先生、友達が反対する道だった。
落ちぶれるリスクがあった。
でも、そうやって選んだ先で道が拓けて行った・・・・・・。
このまま行けば、惰性でダラダラ流されるという状況で、自分の意思で思い切って舵を切ったのが全部、ターニングポイントになってきています。
やばい、このままいけば、俺の人生このままかも・・・・
に逆らってきたと言えます。
と同時に、
無理、これは我慢できない、先に希望が一切見えず、生きている意味が見出せない!!
というものからは思い切って逃避してきました。
社会では、「結果が全て」と言われます。
しかし、この結果を出し続けるのが本当に難しいです。そもそも結果は一瞬で流れていきます。
結果は上下しますから、結果に囚われると鬱になるのです。
だから、プロセスも重んじる必要があります。
プロセスに意味を見出せるようになるためには、自分の気持ちやストーリーが大切です。プロセスを丁寧になぞった者だけに、具体的な「結果」が降ってきたり、結果を得るために必要な気づきが降りてきたりする。
要するに、私の人生にはストーリーがあるのです。
こうなって、こうなって、こうなってきたという流れがある。
生きている中で、ずっと、社会にレイプされているような感覚があった。
特に、学校教育に対しては強く疑念を抱いていた。
みんなと楽しく過ごしてはいたけれど、それでも、何となく群れるのが嫌だなという気持ちはあった。たくさんの人の輪の中にいると、辛いという感覚があった。部活、勉強、学校教育で皆が右倣えする感じ、就活の感じ、同窓会、結婚式、・・・・・・。
学校教育の縛りが、緩くなっていくにつれて、自由が感じられた。
生きた心地が感じられたのです。
自分の行動範囲を制限されたら、本当に辛かった。
自ら進んで選び、働いているときはそれも楽しかった。
でも、ふと、そこで意義が見出せなくなると、完全に働けなくなっている自分がいたのです。
結局のところ、自分の中で、意味が見出せないものが無理だった。
人生という文脈で見ると、結局、何かに反発して、何かにフィットして、何かに反発して・・・・・ということを繰り返しています。
最終的には、自分の感情を大事にしている。
通している。
エンターテインメントに触れて、一時的な感動をするのではなく、
自分の人生を通して感動したかった。
これなら死ねる、という人生を送りたかった。
後悔したくなかった。
でも、ここまでは、自分の中にあった気持ちしか話をしてませんね。自分の思い通りに動いてみたら人生うまくいった、みたいな低級の自己啓発的な話はしません。
現実はそう甘くありません。
次回は、私が事業で結果を出せるようになるまでを話します。
「それでも、社会は結果が全てだった」
と言うお話。
乞うご期待。
===
"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。