「なにー?」じゃねぇよ。お前がかけてきたくせに。
怒りの感情はゼロだけれど、なんとなく消火した瞬間の煙が心の中に上がるような気がした。
お腹すいた。あれ欲しい。これ欲しい。疲れた。いわば始点:欲望のワードをガンガンとぶつけてくる。ほぼ会話じゃ無い。めちゃくちゃに喋る。そしてそんな自分を自由人と。可愛いと。
これに応えられる財力が云々じゃ無い。時間が、心の余裕が云々じゃ無い。これらの有る無しじゃなくて只々、俺の心を削るような気がした。
いや、「今は嫌」なのかも。
頼むから今は。
この拒絶感は、恐怖でもあり、軽蔑でもあり、キャパオーバーでもあり、対処不可能でもあり、・・・・・・緊急離脱でもあると思う。前に、ネットで読んだ「高学歴兄が低学歴弟と喋りたくないという記事」「低学歴と一切関わりたくないという高学歴という記事」の中にあるものと同じかもしれない。
俺は知ってる。プラトンはエモーショナルなテラーを社会から排除せよと言った。それも同じ。「感情論」と言って切り捨てる有名インフルエンサーの心理にあるのも同じ。感情論が怖いんだ。
そして、なんとなく、この感情が懐かしい気がした。17歳の冬を思い出した。
感情論が怖いという感情論による反発、逃避、疲弊。
女はわがままだというけれど、俺はそうは思わない。
男もわがままだと思う。
問題は、そのわがままな心を人前で、発露するかどうか。言葉として、態度として発露する傾向の性差。
往々にしてそれは「弱いこと」とされるから。
感情的な発露をして、人間的な部分をさらけ出すことは弱みを見せることだと解釈してる男は多数いるから。
人は心の生き物だから、愚痴を吐いたり、音楽を聴いたりするだけでも心の調整ができる。でも開示された、その心の調整に付き合わされると疲弊することがある。
人は距離が近すぎる人間の前では幼児性の顔を出す。
心を病ませる問題は、
- 論理的・抜本的解決(原因療法)
- 感情的処理(対症療法)
の二つがあるけれど、1を突き詰められる人間は少ない。そして、世の中には「2オンリー」の人間がいる。もしくは、甘えられる相手を見つけて、とことん甘えてしまおうという魂胆の人間がいる。
そして別の女と会う。一緒に風呂に入る。クチュクチュする。とにかく全身がふわっとして、不思議な感覚になる。心地良い浮遊感。やっぱり酒とセックスと音楽は、「ドラッグ」だと思う。
さっきの女はセックスするのにもご機嫌とりが要るのに。順序がいるのに。手順がいるのに。「私いい女、高い女」の自負と自尊心が強すぎるから扱いに困るのに。
この女は違う。
「好きにして♡」
「気持ちいい?♡」
「好きなだけ突いて♡」
「いっぱい出して♡」
そして俺も、
「好きにするね♡」
「気持ちよくするね♡」
この応酬は、あまりにも軽薄で、ゆえにあまりにも快楽性が強い。動物的要素しかないから。
そして、俺は一人、体力切れでベッドに沈んだ女の部屋を後に、コンビニに向かう。夜景が目に飛び込んでくる。寒さと透き通った空気。
イヤホンを耳にさして、あいみょんをかける。
曲順がGOOD NIGHT BABYに回った。
無意識のまま、ベンチに座り込んでいた。
ほらもう君に会いたくて 恋しくてこのまま
走り始めた スタート地点に戻って
後ろ姿の君を 見てるだけでいいのさ
心があったかくなった。
張りつめていた糸が緩むような。
肩の力が抜けた。
強さを強制的に求められる立場のこの俺に。
どれだけ、その息抜きが許されることだろう。
性行為は息抜きというより、デトックスでしかない。
息抜き。ホッと、力が抜ける。人はそれを癒しと呼ぶ。明らかに特別な感情が湧いてくる。もしかしたら、今はあいみょんの前でしか無理なのかもしれない。
彼女の伸びの良い声が全身に染み渡っていく。この季節に、心身に染み渡っていくようなものはあったかいスープとあいみょんの歌声くらい。
どうしてだろう。
どうして彼女の歌声はこんなにも心に響くのだろう。
俺って、疲れてるのかな。
ほらもう君に会いたくて 恋しくてこのまま
走り始めた スタート地点に戻って
後ろ姿の君を 見てるだけでいいのさ
人は感情の生き物だって何度繰り返し学んで、何度人に説明して、何度それを実感させられる場面に出会ってきたことだろうか。でも、やっぱり少し時間が経つとそれが忘れ去られて。そして、こういう特別な感情体験の時に、改めて身体性を持って呼び起こされる。それだけ、深く感情を揺さぶれる人間が限られているということなのかもしれない。そしてそれだけ、この世界が理屈で回ってるということだ。
多分、このまま感情性に身を浸せば薬物中毒者のように社会生活がオワコンになる。エリッククラプトンのような天才シンガーの自著には必ず、女、酒、ドラッグ、そして音楽というライフスタイルがこれでもかという風に描かれている。思えばジョブズもそうだったのかもしれないけれど、どこかに硬い論理のアンカーがなければ、少なくとも感情の荒波の中で、俺という船は難波線になってしまう。あれだけエモーショナルな存在だったジョブズがコンピュータエンジニアリングやITテクノロジの世界にいたのには理由があったのかもしれない。
音楽家やアーティスト、ハリウッドスタータイプの人間の中で天性の感情性の塊は、だいたい社会性が伴わないまま堕落していく。でも、そこが天才性の所以。その自堕落さをまた、人は愛してしまう。
マーケティングとは結婚した。第一夫人だ。あいみょんは第二夫人かもしれない。もしの話だけれど、癒しが卑近な範囲で見つかったら。女性として出会ったら。それが第三夫人になるかも。そして世間で言う結婚ってヤツをするのかも。
だから、もう、そういうことなんだって。
ただ、圧倒的な感情性を。それさえ与えてくれれば。俺はどこまでも飛べるんだって。この10年、15年で証明しただろう。いらないんだ、理屈とか、そういうのは。この俺には、狂信性と行動力が備わってるから。だから、癒しを。圧倒的な感情体験を。補給を。それさえ与えてくれれば、なんでもいいんだって。なんとかできるんだって。
それを与えてくれるのが、「夢・希望」「若さ」なんだけれど、歳をとれば夢と希望が叶って現実化が進む。そして相対的に若さが無くなっていく。そこにどうやって、あの頃のようなエネルギーを補填するか。
そういうことなんだ。
もうつまんない駆け引きとかやめてくれ。
よそでやってくれ。
・・・・・・・そして気づいた。
あ、同じこと求められてるのかもねって。
知ってるよ。俺は。
こっちが常にプロポーズ、プロポーザルしなきゃいけないってことは。これは人生の全てに関してそう。
自分の身に起こる良いことは自分が起こした。悪いことも自分が起こしたってね。そして悪いことは、あえてそのまま「変えてない」んだ。
人生を変える。
人生を変えた。
死ぬほどそう言ってきたし、実現した。
だからわかるけれど、「変えてない」「変わってない」ところも存在して、それは俺の中で俺に放置されている領域。どうやら、恋愛に関してはスピリチュアルセミナーをハシゴしている層と大して変わらなさそうだ。
そして、そんな自堕落な自分に酔っている。酔っていたい。荒廃していたいのかもしれないね。
昔の浜崎あゆみみたいな、若い人にカリスマ的に支持されるアーティストには傾向がある。カルト的人気は、その荒廃性でシンクロしているんだけれど、支持層だった人たちは変化していく。一般大衆の女たちは、やっぱり見栄や焦りに囚われて結婚という社会常識的なイベントにエントリーしてしまう。すると、親になり、ママ活動やら家庭活動、仕事に追われる中でだんだんロジカルになっていく。つまり、物事を合理的に判断して行動するしかない、現実的に対処するしかない日常に追われていく。少々機械的になっていく。俺が起業とか現実に追われる中で進化していった過程と同じだ。目の前には「やらなきゃ死ぬ」という真の命題と具体的なやるべきタスクの連続が降ってくる。
その忙しさや苦しみの中で、いわば、音楽という自己啓発を忘れていくのだ。そして後になって気付く。禁煙した後のように、タバコによるストレス解消以上にタバコをやめる方が良かったと。あいみょんは天才だから、多分そこまで見通してそうだけれど少なくとも病みと共振してることぐらいはわかるだろう。癒しは闇がないと成立しない。
でも、人生は、壊れないとつまらないだろう?
酒と、音楽と、恋愛と、セックスの無い人生の何が面白いんだ。
酔えないじゃないか。
ねぇ、そうだろう。
そしてまた俺は、音楽をリピートする。
狂っていたいのでしょうね。
ほらもう君に会いたくて 恋しくてこのまま
走り始めた スタート地点に戻って
後ろ姿の君を 見てるだけでいいのさ
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。