何かを決断したり、矢面に立つ当事者になるよりも、斜に構えて文句を言ったり評論する方が間違いなく楽です。
これを知的な営みだとか勘違いしない方がいいですよ。貧乏になりますよ。予備校で「本は批判的に読む・・・ナンタラカンタラ・・・」とか言っている講師とその信奉者とかみんな貧乏でしょう。そんなんよりも自己啓発とか鵜呑みにしている層の方が、まだ割合的に成功者が多そうです。批判癖と転職癖は同じようなものなので気を付けましょう。
斜に構えて文句を言ったり評論する人間は総じて貧乏でしょう。どれだけ高度な論法を携えていても、その時点で脇役丸出しなのです。貧乏丸出し。
何かを決めること、矢面に立つことは痛いことです。意思決定者になるというのは大変なことなのです。
誰だって人間ですから、そりゃー、そういう立場に立つのは辛い。でもそれをグッとこらえて、痛みに耐える。何かを選ぶ、決めるということは、必ず笑う人、泣く人が出てきます。その痛みに耐えられない人は、目的を得ることはできません。何かを変えることはできません。痛みを背負うことができない人は、切り捨てることができないからずっとそのままです。決めるというのは切り捨てることです。決断という言葉は、「決」めて「断」つと書きます。
痛みを引き受けて、矢面に立つ覚悟と能力のある人間。それはほんの一握りです。そしてこれを人は、リーダーと呼ぶのです。リーダーは痛いし苦しいです。リスクとプレッシャーがあるのです。そしてこれは、自分の人生に対しても同じことが言えます。
自分の人生の中で、人は一定の時期から、自分の人生の「主人(あるじ)」として生きるか「下僕」として生きるかを決めて生きていくものです。主導権を持つか持たないかを、自分で決定します。そして、それはあらゆる場面に、波及的な影響を与えます。
他人についていくにしろ、流されて生きていくにしろ、斜に構えて文句を言ったり評論するにせよ、それは楽です。
そして、だからみんなそのポジションなのです。
某有名なクリエイターは、「会議に批判者はいらない」と言いました。
某有名なリーダーも、「斜に構えて文句を言ったり評論する方が楽。批判するなら代案を出せ、アイデアを出せ。」と言いました。
批判が賢い、知的な営みだと勘違いしているのは象牙の塔がそびえ立った大学の中だけ、そのパラダイムの中で生きている人間だけです。
アナリストとかも言うて価値はないですよ。
自分のこと賢いと思っている人、すぐ斜に構えた批判に転じている人は自分の胸に手を当てて考えるべきです。
「何かやったか?」
「何か主体的にリスクを背負って道を切り拓いたか?」
「自分の人生でリーダーシップを発揮したか?」
と。
地頭よりも論理的思考力よりも大切なものは何か知っていますか?
リーダーシップですよ。
リーダー(意思決定者)層があって、その下にロジカルシンキングとか地頭に長けた連中が来て、その下に作業者・担当者というのが構造です。これは、自分一人の中においても同じこと。自分の人生にも言えることです。
この階層構造、階級を意識することですね。
なんで、必死こいて勉強して来たエリートの上に政治家がいるのか、なんで中卒の社長の下で使われているエリートがいるのか、・・・・その理由はそういうことです。
決めれてますか?って話。
動けてますか?って話。
何もやってないでしょう。
Just Do it.
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。